2009年秋、郷里で同窓会があり、鳥取県中部の温泉町・三朝町に車で出掛けました。そのとき過疎の村々を訪ねてみようと二、三か所寄り道をしました。その一つ「三朝町中津」を思い出し、写真を探してみました。
『中津』は平家の落人伝説のある小鹿渓谷のいちばん奥の村です。
村の入口あたりには、写真の『二位の尼墓所』(平時子のこと……壇ノ浦の戦いで敗れ、孫の幼い安徳天皇を抱いて入水した清盛の妻)という看板が地面に置いてあります。近くの草むらには『安徳陵』という看板が置いてあったり『平家一門の墓』という大きな石の墓があったり。茶室風の東屋は屋根が落ち、壁が剥がれてアルミサッシがむき出しになり、玄関には「平家」という表札のようなものが見えます。
はじめは「平家の落人だったのね」と声を弾ませた道子さんも、荒れた墓所や朽ちた家を見てまわるうちに「だれか他所の成金が<平家を気取って>つくったもの」とわかったようです。薪割りをしておられたおじいさんを見かけてたずねたら「中津という地名には落人伝説がよくありますでな」と他人ごとのように話されました。
三朝町・町勢一覧の統計を見たら「中津」は、
世帯数 5 人口 6 (男 3 女 3) 65歳以上 6 (平成24年4月)
となっています。でも実際は山奥の「中津」でなく下の村に住み、ときどき帰ってみる人もあるでしょう。町の統計と実態はちがうことがよくあります。
いまは軒下まで雪囲いをして、光の入ってこなくなった部屋で春を待っておられるでしょうか。
「消滅したが5000、限界集落が8000」と聞いたのは数年前でしたが、この「中津」などは限界集落を通り越して「いつ消滅するか」という村でしょう。
田舎暮らし志向と現実がうまく出会うといいのですがね。
『中津』は平家の落人伝説のある小鹿渓谷のいちばん奥の村です。
村の入口あたりには、写真の『二位の尼墓所』(平時子のこと……壇ノ浦の戦いで敗れ、孫の幼い安徳天皇を抱いて入水した清盛の妻)という看板が地面に置いてあります。近くの草むらには『安徳陵』という看板が置いてあったり『平家一門の墓』という大きな石の墓があったり。茶室風の東屋は屋根が落ち、壁が剥がれてアルミサッシがむき出しになり、玄関には「平家」という表札のようなものが見えます。
はじめは「平家の落人だったのね」と声を弾ませた道子さんも、荒れた墓所や朽ちた家を見てまわるうちに「だれか他所の成金が<平家を気取って>つくったもの」とわかったようです。薪割りをしておられたおじいさんを見かけてたずねたら「中津という地名には落人伝説がよくありますでな」と他人ごとのように話されました。
三朝町・町勢一覧の統計を見たら「中津」は、
世帯数 5 人口 6 (男 3 女 3) 65歳以上 6 (平成24年4月)
となっています。でも実際は山奥の「中津」でなく下の村に住み、ときどき帰ってみる人もあるでしょう。町の統計と実態はちがうことがよくあります。
いまは軒下まで雪囲いをして、光の入ってこなくなった部屋で春を待っておられるでしょうか。
「消滅したが5000、限界集落が8000」と聞いたのは数年前でしたが、この「中津」などは限界集落を通り越して「いつ消滅するか」という村でしょう。
田舎暮らし志向と現実がうまく出会うといいのですがね。