古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の『引揚げ記』 (21)

2017年10月27日 03時41分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で (21) 最終回
 
 私の前の席にいる夫婦の引揚げ者は、私と同県人の鳥取県出身である。そしてその夫婦は境町出身であって、同じく乗っている人にしきりに境の事を聞く。
「境の火薬庫はどうなっていますか」
「何でも爆弾を落とされて大爆発したという事です」
「倒れた家もたくさんあったでしょうなあ」
「えゝ、家も人も大分やられたという事です」
「私の家は無事であればいいが」
 と二人は案じながら話していた。
 すぐ側で一人の兵隊が、柳行李を二つ持ってその上に腰を下ろし、大声でまくし立てていた。
「おのれ、アメリカの奴。もう二年たったらきっと敵(かたき)をとってやるぞ」
 まわりの人々は、その景気のいい話につい釣り込まれて、一同もその気になるのであった。
「俺は漢口から帰って来たのだが、家内や子供は今どこにどうしているのかわからない。俺のところにソ聯兵が入ってきたので、終戦と同時にトラックに乗って逃げて来た。逃げる途中に、ソ聯兵に捕まってトラックを止められた。俺達はそこで下ろされ、持っている荷物を調べられた。ソ聯兵が荷物を調べている間に、夢中でトラックを走らせて逃げ帰った。その時トラックの運転手は殺されてしまったが、幸いに我らの仲間の中に運転の出来る者がいて、しゃにむに川といわず山といわずぶっとばして逃げた。同僚の一人は、トラックの上に突っ立っていたために、道の上を通っている電線にはねられて首がすっ飛んでしまった」
 私は、その話に相槌を打つのも億劫なほどに空腹を感じていた。兵隊は、なお話を続ける。
「漢口ではたくさんの婦女子が山の中に逃げ込んで、消息がわからないでいる。これ等の人々は、いずれ食糧に飢えて、皆死んでしまう事であろう。この度は全く無茶苦茶で、軍の将校などは軍服や軍の食糧等を奪い取って、自分のものにしてしまった。この私の持っている二つの行李も、上官の将校に頼まれて、将校の家まで届けに行くところだ。滋賀県まで行かなくてはならんが、どんな鉄道に乗ったらいいか」
 近くの人が彼に鉄道を教えている。
「今まで日本は戦争に敗れたことがなかったのに、兵隊の俺達は恥ずかしくて故郷の人に顔を見られるのが辛い」
 この日本を代表する兵隊さんは、頻りに慨嘆していた。彼は全く愉快な快男子であった。
 十二時間汽車に乗って、私はリュックの上に腰を下ろしたままで、もう昼近くなる。私のお腹は益益小さくなる。でもうとうとしていると、境の夫婦の人が辨当を開いて食べ出した。そのおにぎりは、小豆もまざっている辨当なのである。そしてすぐ前に座っている私に「一ついかがですか」と差出してくれた。私はもうたまらんと、おにぎりを有難くいただいた。
 午後その夫婦は米子で境線に乗る為に汽車を降り、私は家内の暮らしている松崎で汽車を降り、遠い道を妻の顔を思い浮かべながらひたすら歩いた。
 そして午後三時頃であろうか、やっと家内の里を訪ねる事ができた。
 皆は驚きかつ喜んだ。私も家族の皆の顔を見たので、もうこれで死んでもいいと思いながら、その晩は畳の上で朝までぐっすり眠ることができた。
 朝起きて便所に行ったら、その入口に手洗水があった。私はこんな手洗水など長い間見ていなかったので、大変懐かしく眺めた。朝鮮では、便所に行っても誰も手を洗わなかったのだ。  おわり


 父の『引揚げ記』は、あの〈戦争、敗戦の大混乱〉のなかでは、ありふれた手記です。
 父はあの戦争に敗けて数年たった昭和28年頃にワラ半紙(粗末なB4版の紙)に書いたこの手記を、80歳になってからノートに書き直したようです。彼の平穏な89年の人生では、あの「引揚げ」は忘れられない大きな出来事だったのでしょう。
 長く読んでいただき、ありがとうございました。
 
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