黒豆はよくできている。枝豆もおいしい。が枝豆として賞味するのはそろそろおしまいです。今年は「出来」はいいけどムシもしっかり入っています。無農薬だと半分は「ムシさん用」と覚悟しなければなりません。12月になったらお正月用の黒豆を収穫します。
父の『引揚げ記』 (15) 昭和二十年八月1十五日 朝鮮の山奥で
※ 用字、仮名遣いは原文のまま
薄暗くなった頃、やっと一人の人が来るのに出会った。道を尋ねるが、その人には日本語がわからない。仕方がないのでまた歩き出した。そして日は暮れて真っ暗になった頃やっと家が見つかり、あゝ、これで助かったのだと言う心持ちで一杯になった。
家のある道を歩いていると、このの警備隊が私を取り巻いた。そしていつものように、どこから来たのか、どこへ行くのか、これからどうするつもりかなどと尋ねてくる。それに答えて、このに宿があるかと尋ねた。「一軒ある」と云って警備隊の一人がその宿まで連れていってくれた。
宿に着いて案内を請うと、奥の方からお爺さんが出てきたので、「今晩泊めてほしい」と云うのであるが、その言葉がわからない。仕方がないので黙って立っていると、すぐ近くに涼んでいた若い男が日本語がわかったとみえて、お爺さんに通訳してくれた。
それで初めて話が通じ、一晩泊めてくれるという話を聞いて、ほっと胸をなで下ろした。昨日から脱いだことのない地下足袋を脱いだ時の心地よさ。今思い出しても夢のような心持ちであった。
背中のリュックを下ろし、そこで昼間分けてもらった煙草の葉を新聞紙に包んで、それに火をつけて吸った。その味のうまさ。真っ暗なオンドルの床に横になった。
宿のお爺さんは日本語はわからなかったが、私の室に来ていろいろな世話をしてくれた。足の裏に出ている豆も潰してくれた。そして伊川を出発以来初めてゆっくりした夜を、室の中に体をのびのびと伸ばして一晩ぐっすりと眠った。
二日分の眠り不足を、ゆったりとこの一軒の宿で取り戻すことができた。米を出してご飯を作ってもらって朝食をすませ、お昼の辨当のおにぎりまで作ってもらって、清清しく朝早く出発した。
思いは連川へ連川へ。ここから八キロメートル先にあるという連川を目指して歩き続ける。八キロメートル位なら午前中に到着する事が出来るであろう。そう思いながら山を越え坂を下りひたむきに歩く。
午(ひる)近くなって人に出会ったので、その人に尋ねてみると、
「まだまだ連川まではまだ半分も行っていない」と云う。朝鮮のキロメートルは当てにならないのだなあと思った。
そこで道端の草の上に腰を下ろし、宿で作ってもらったお握りを食べる。昨夜ぐっすり寝たせいか、今日は割に元気で歩くことができる。だが足の裏の豆は破れて相変わらず痛んだ。
午後になって雨が降ってきた。私は一軒の軒先に立って雨を避けた。中から人の声がする。
「中に入って休んで下さい」
「有難うございます。今何時になりますか」
「はい、もう三時です。どうかお入り下さい」
「いや、急ぎますから」
と云うと、二つばかりの梨を恵んでくれた。
日が暮れるまでにどうしても連川まで辿りつかなくてはならないので、また歩き出す。幸いにも雨はそうひどくならなかった。歩いている間に幾度か朝鮮人に怪しまれ、人に問いただされながら、ひたむきに歩いていると突然
「ポーッ」
と大きな汽笛の音が空に響いた。
その音を聞いたときの嬉しさ。山の中に入って暮らすようになってから何年も聞いたことのなかった汽笛であった。
いよいよ連川だ! さあもう一息だと足の痛さも忘れて急いで歩く。だが行けども行けども駅らしいものはなく、鉄道も見つからない。
道が二又に分れているところまで来たので、その辺に遊んでいる子供達に道を尋ねると、あの向うの山を越えねばならないのだと云う。
その山さえ越えれば、すぐそこに駅が見えると思いながら山を登って行くが、木が茂っているばかりで、進めども進めども視界は開けてこない。足はじくじく痛い。道を尋ねようにも尋ねる人もいない。たまに人に出会ったと思うと、その人は私を咎めて、私を責めるばかりであった。もうこの上はやけくそになって歩くばかりだと歩いていると、やっと本道に出た。ほっとして顔を上げると、向うに赤屋根が見える。 (つづく)
父の『引揚げ記』 (15) 昭和二十年八月1十五日 朝鮮の山奥で
※ 用字、仮名遣いは原文のまま
薄暗くなった頃、やっと一人の人が来るのに出会った。道を尋ねるが、その人には日本語がわからない。仕方がないのでまた歩き出した。そして日は暮れて真っ暗になった頃やっと家が見つかり、あゝ、これで助かったのだと言う心持ちで一杯になった。
家のある道を歩いていると、このの警備隊が私を取り巻いた。そしていつものように、どこから来たのか、どこへ行くのか、これからどうするつもりかなどと尋ねてくる。それに答えて、このに宿があるかと尋ねた。「一軒ある」と云って警備隊の一人がその宿まで連れていってくれた。
宿に着いて案内を請うと、奥の方からお爺さんが出てきたので、「今晩泊めてほしい」と云うのであるが、その言葉がわからない。仕方がないので黙って立っていると、すぐ近くに涼んでいた若い男が日本語がわかったとみえて、お爺さんに通訳してくれた。
それで初めて話が通じ、一晩泊めてくれるという話を聞いて、ほっと胸をなで下ろした。昨日から脱いだことのない地下足袋を脱いだ時の心地よさ。今思い出しても夢のような心持ちであった。
背中のリュックを下ろし、そこで昼間分けてもらった煙草の葉を新聞紙に包んで、それに火をつけて吸った。その味のうまさ。真っ暗なオンドルの床に横になった。
宿のお爺さんは日本語はわからなかったが、私の室に来ていろいろな世話をしてくれた。足の裏に出ている豆も潰してくれた。そして伊川を出発以来初めてゆっくりした夜を、室の中に体をのびのびと伸ばして一晩ぐっすりと眠った。
二日分の眠り不足を、ゆったりとこの一軒の宿で取り戻すことができた。米を出してご飯を作ってもらって朝食をすませ、お昼の辨当のおにぎりまで作ってもらって、清清しく朝早く出発した。
思いは連川へ連川へ。ここから八キロメートル先にあるという連川を目指して歩き続ける。八キロメートル位なら午前中に到着する事が出来るであろう。そう思いながら山を越え坂を下りひたむきに歩く。
午(ひる)近くなって人に出会ったので、その人に尋ねてみると、
「まだまだ連川まではまだ半分も行っていない」と云う。朝鮮のキロメートルは当てにならないのだなあと思った。
そこで道端の草の上に腰を下ろし、宿で作ってもらったお握りを食べる。昨夜ぐっすり寝たせいか、今日は割に元気で歩くことができる。だが足の裏の豆は破れて相変わらず痛んだ。
午後になって雨が降ってきた。私は一軒の軒先に立って雨を避けた。中から人の声がする。
「中に入って休んで下さい」
「有難うございます。今何時になりますか」
「はい、もう三時です。どうかお入り下さい」
「いや、急ぎますから」
と云うと、二つばかりの梨を恵んでくれた。
日が暮れるまでにどうしても連川まで辿りつかなくてはならないので、また歩き出す。幸いにも雨はそうひどくならなかった。歩いている間に幾度か朝鮮人に怪しまれ、人に問いただされながら、ひたむきに歩いていると突然
「ポーッ」
と大きな汽笛の音が空に響いた。
その音を聞いたときの嬉しさ。山の中に入って暮らすようになってから何年も聞いたことのなかった汽笛であった。
いよいよ連川だ! さあもう一息だと足の痛さも忘れて急いで歩く。だが行けども行けども駅らしいものはなく、鉄道も見つからない。
道が二又に分れているところまで来たので、その辺に遊んでいる子供達に道を尋ねると、あの向うの山を越えねばならないのだと云う。
その山さえ越えれば、すぐそこに駅が見えると思いながら山を登って行くが、木が茂っているばかりで、進めども進めども視界は開けてこない。足はじくじく痛い。道を尋ねようにも尋ねる人もいない。たまに人に出会ったと思うと、その人は私を咎めて、私を責めるばかりであった。もうこの上はやけくそになって歩くばかりだと歩いていると、やっと本道に出た。ほっとして顔を上げると、向うに赤屋根が見える。 (つづく)