プロジェクトエンジニアーの範疇にいれることにします。
相変わらず、時間がない中での投稿となります。
いつか視たテレビでのこと。
出川哲郎とTOEIC900点以上の帰国子女の対決でした。
帰国子女は、ビジュアル的にも結構なハイレベルでした。
課題をいただいた二人は、不得意な英語と得意な英語で、
現地の人(Englishを話す)に道や物事を尋ねました。
出川の体当たりの知ってる英単語のオンパレードに意味不明(現地の人にとって)の日本語での
アタックでした。何を言ってるのかわからないけど、困ってるようだし面白い。
コメディアンみたいにパフォーマンスが優れていました。
一方の英語べらべら女子は、流ちょうな英語で話かけます。
すぐに意志が通じて、なんなく課題をクリアーしたかのように見えました。
この女性、頭が切れるのか的確な表現と英単語を使おうと努力されていました。
一つの日本語の英訳が出てきません。どういったらよいのだろうと悩んでいます。
会話は途切れてしまいました。
結果から、出川に軍配があがりました。
常々思っています。
私も毎日英語でFAXを打ち、国際電話で話していました。
会議もジョークも英語の環境で10年以上(2回に分けて)仕事をしていました。
昼ごはんを外人と一緒にしたくない。
飛び出すジョークの意味が分からず、常に笑顔でした。
そして、何でも「YES」でした。本当に疲れたし面白くなかった。
英語ストレスでした。
この外資系会社を辞めて、エンジニアリング会社で10年仕事をしました。
プロジェクトマネージャーもしました。グループで仕事をし、30近くの協力会社を使いました。
コミュニケーションが取れないと命取りの仕事でした。自分の感性が問われました。
同じ外資系の会社に再度入社しました。英語力は相変わらず低いものでした。
しかし、私はもう終始笑うことをしませんでした。
判らぬ単語は、その場で聞きました。日本語交じりで英語で喋りまくりました。
英語圏の同僚が文脈から、日本語を英語に訳してくれました。
そうそう。と私は相槌を打ちながら語彙が飛躍的に増えていきました。
電話も一時間を超える交渉もなんなくこなすようになりました。
曖昧なところは、理由も伝えてメールを打ってもらい再確認しました。
拙い英語でまくしたてる日本人になっていました。
それからは、外国に一人で出張しても仕事がこなせるようになりました。
私は、最初にコミットメント(約束)をしました。彼らにとっても良い話でした。
その約束を一年かけて実行し、約束以上の成果を出し続けました。
日本のことで困ったら、私に相談しろと海外の同僚間で伝えられていました。
日本での遊びのこと、仕事のこと、疑問なことが舞い込むようになりました。
なんでも相談にのりました。私の感想も考えも、常に理由をつけて伝えました。
つまり「Englishより日本語」となったのです。
私は、海外に行くと客人扱いされるようになりました。
どこでも家庭に招待されて、意見の交換をするようになりました。
私は、民族主義ではありませんが、
日本を日本人を得意な日本語で考えながら、
拙いEnglishでコミュニケーションをとっています。
その会社を辞しても、いまだに友達づきあいは続いています。
私の英語は、3文字英語です。I am a boy だけです。
その代り目振り手振りは一流の日本人です。
ほーいほい とんびが話す ことば何
2016年10月26日