あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

運河に漂うカヌー気持ちよさそう

2008-03-04 16:21:56 | 日記

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みなとみらいの運河で親子でカヌーを楽しんでいた。
一日楽しく過ごせる。
きっと思い出が一つ加わっただろう
人生は思い出つくりなのですから

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忙しい

愉しみさえも仕事にする人がいる
楽しいことにも意味を探している
懸命に何かをするから楽しいという
忙しいという字は
心を亡くすと書く
何もしない
何も楽しまない
何の意味も意識しない
何もなしで生まれ
あったような錯覚を育て
そして、脱皮し
何もないままを受け入れて死んでいく
それでいいんじゃない
そう思えるまで
いっぱい楽しもう
そんなことを考えてしまう・・・・・・

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バスガール(昭和という時代)

今はハトバスぐらいにしか運転バスガイドは乗っていませんが
昭和40年代位までは乗り合いバス(これも古い表現ですね)
今でいえば路線バスには・・・・運転手の他に、車掌が乗っていました。
大部分は女性でした。
そういえば、運転手の制服は昔から変わりがありませんね。
バスガイドの制服はずいぶんと変わっていますね。
バスガイドは紺の制服が定番でしたが
今はカラフルですね。
彼女等は、皮のポーチ型のバッグを首からかけていました。
バッグの中には束になった切符と鋏があり
乗客に車内で販売していたのです。
今、考えれば、道路事情や舗装状況からしても
立ったままでの作業は
バランスをとるのが大変だったと思います。
バスガイドの帽子はアメリカ陸軍の略帽子がモデルだったのでしょうか
そんなことに気づきました。
観光バスの場合、バスガールと呼称していたと思います。
「東京のバスガール」「田舎のバス」というような流行歌もありました。
当時はバスガイドは花形業種だったのです。
男の子は運転手、女の子はバスガールが「ままごと遊び」のパターンだったのです。
当時のバスはボンネットバスから箱型バスへの変換期でした。
もちろん、自動ドアではありませんでしたから
車掌が開け閉めをするのです。
そして、乗り降りが終わると
「発車オーライ」と運転手に声を掛けるのです。
どのバス会社も同じ合図だったように記憶しています。
あのころがいいとか悪いとかではなく
今の時代、運転手の業務内容が増えて
安全確認もままならぬ
危うくなり
人間的な触れ合いがすくなくなって
客は、何となく手持ち無沙汰になる
それが最近のバスですね。
私には幼い頃「東海バス」「駿豆バス」「富士急行」
「箱根登山鉄道」などが
行き来している街の姿が懐かしいですね。

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マラソン選手円谷幸吉の遺書

父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。
干し柿、餅も美味しゆうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。
喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。
モンゴいか美味しゆうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、
敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、
芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、
立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。
何卒お許し下さい。
気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

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円谷幸吉の遺書が「駅」で流れてくる。
高倉健の表情を映しながら不器用な声が流れてきました。
遺書を文学として読むことは不自然でしょうが
言葉の流れがよく
朴訥で、一切の修飾語を使わず
それでいて胸の中にストレートに入ってきます。
たっぷり涙が出ました。
自分に重ねて泣きました。