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カタクリが咲きました。
儚げな立ち姿と
うつむき加減がいいのですね。
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「理解できます」とは言わない。
決して言わない。
「分る気がします」
その程度で終わってしまう。
「理解できます」と言われて気が済むなら言ってもいいだろう。
でも保証のない約束のようなものだ。
ちょっと頼りない
理解するというなら
自分の偏狭さから
理解不能なことを否定してしまう
そんな貧しさから抜け出してからの話にしよう。
理解不能なことがいっぱいあることを知ること
その謙虚さが理解なのだ。
理解と分るとは違うのだ。
不気味な動物を飼うことを夫を
「馬鹿じゃないの」と叫ぶ妻
少女雑誌に夢中の男を
「変態じゃないの」と蔑む女
そのどれもが理解不能なことを否定し
軽蔑のゴミ箱に押し込む
それを正義のように扱う愚かさも瀰漫している。
理解不能だけれど、「夢中になる何かがある」のですね。
否定ではなく、「分らないけれど存在しいる。」
そんな受け入れが必要なのですね。
理解するとは切り捨てるのではなく
理解不能な存在があることを受け入れることなのだ。
理解しようとするのではなく
理解不能なことが一つ増えたと思えばいい。
自分の想像したり、受け入れることができないことがいっぱいある
私には分らないけれど、分からない状態から動かさない。
分らないことなど、無理して知ろうとすればするほどど
泥沼にはまる。未知の領域が増えてくる。
理解するとは、そんなことなのですね。
こと人のことについて
「理解しようとも思わないし」
「理解できた」などと決して言わない。
理解できなくても否定しないし
攻撃しない。
無理して理解しようとしない。