あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

時には宮沢賢治を読んでみる。

2008-11-06 21:43:53 | 日記
永訣の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

地上に現れた浄土・宇治平等院

2008-11-06 20:17:05 | 日記
NHKHIビジョンスペシャル

絶対安全教養番組

そんなもので十分

新しい発見や見解などいい。

先週、宇治まで出かけて平等院を覗きました。

ついでに行ったのですが

それなりに堂々としており感動

地上の極楽を夢見るほど

当時の人は苦しんでいたのだ。

そして死後の世界に憧れていたのだ。

それでいい。

宮沢賢治のふるさとは岩手県花巻市

2008-11-06 06:19:30 | 日記
雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

 

(原文)

「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラツテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジヨウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ陰ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ツテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤソシヨウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボウトヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハ

ナリタイ

・・・・・・・・・・・・

この詩を作ったきっかけとなったモデルと言われるのが斉藤宗次朗です。

あるサイトに彼の概略がありましたので記載します。

(詳細は「二荊自叙伝」岩波書店)

実在の人物と宮沢賢治と結びつけるのはどうかと思いますが

そのような人が花巻の周辺に存在していた事実は大きいと思います。


斉藤宗次朗は岩手県の花巻で、禅宗の寺の三男として生まれ
ました。
15歳の時に、母の甥にあたる人の養子となります。成長した
彼は小学校の先生となり、ふとしたきっかけで聖書を読むように
なり、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。
しかし、当時はキリスト教がまだ「ヤソ教」「国賊」と呼ばれて
いた時代で、彼が洗礼を受けたその日から彼に対する迫害が強く
なり、親からは勘当されてしまいます。
町を歩いていても、「ヤソ,ヤソ!」と嘲られ、何度も石を
投げつけられます。
それでも彼は神を信じた喜びに溢れて、信仰を貫いていきました。
しかし、いわれのない中傷が相次いで、遂に彼は小学校の教師を
辞めなければならない羽目になりました。それだけではありま
せん。
迫害は家族にまで及んできます。長女の愛ちゃんはある日、
ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こして、何日かの
後にわずか9歳という若さで亡くなります。
教師の職を追われた彼は、新聞配達をしながら生計を立て、
毎朝3時に起き、夜9時まで働くという厳しい生活を20年間
続けてゆきます。
彼は朝の仕事が終わる頃、雪が積もると小学校への通路の雪かき
をして道をつくります。
小さい子供を見ると、だっこして校門まで走ります。
彼は風の日も、雨の日も、雪の日も、休む事なく、地域の人々の
為に働き続けます。
自分の子供を蹴って死なせた子供達の為に・・。
新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めます。
 
やがて、彼は住みなれた故郷・花巻を離れ、東京に移り住む日が
やって来ました。
花巻の地を離れるその日、「誰も見送りに来てくれる者はいない
だろう」と思って、駅に行ったところ、そこには、町長をはじ
め、町の権力者たち、学校の教師、神社の神主、お寺の僧侶、
そのほか町中の人達が、たくさん見送りに来てくれていたのです。
それは彼が日頃からしていた事を皆は見ていたのです。
その中の一人に宮沢賢治がいました。宮沢賢治は法華経・日蓮宗
の信者でした。斉藤宗次朗が東京駅に着いて最初に手紙を
もらったのが、宮沢賢治でした。
その5年後に、宮沢賢治が有名な「雨にも負けず、風にも負けず」
といいう詩を作ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・

花巻は今でもおおらかな雰囲気の残る

文化都市です。

宮沢賢治記念館のスケールの大きな堂々とした建物は

同じ岩手県の石川啄木の記念館と好対照です。

花巻という土地と文化なしに宮沢賢治を語ることはできませんね。