あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

「薔薇の名前」

2008-11-09 18:18:49 | 日記
「薔薇の名前」(ジャン・ジャック・アノー監督)

ショーン・コネリーでなければ演じられない修道僧。

映画は修道院での殺人事件を別の修道院からやってみた修道僧が解明する。

ウンベルト・エーコのベストセラーの映画化

それにしても、どうして、日本で大ヒットになったのか不可解。

サスペンス映画ではないのではらはらどきどきはない。

知識が無いと容易に理解できない映画です。

20回以上は見ました。

中世ヨーロッパ、宗教裁判が激化した時代

修道院で殺人事件が起こる。

修道院間の対立、法王庁の介入

教義も十分に定まっていない時代

キリスト教はどのようにして教団を守ったのか

それも大切なテーマですが

何と言ってもアリストテレスの詩編の議論です。

詩編の中に「喜劇」だけが欠落している。

悲劇がカタルシスの効果等で説明しているのもかからず

「詩編」がないのは、キリスト教の教義として相応しくない。

あるいは、キリスト教の正当性を証明する基盤を揺るがせるものだ

そんな対立をこの小説で説いてみせる。

喜劇の存在、そしてその内容についての

議論や、犯行原因にしているところが面白い。

ついでに修道院でのセックスについても皮肉っているところも面白い。

少々グロテスクだけれど西洋的美学なのだろう。

そういえば「ダ・ビンチコード」にも不思議な教団が登場する。

キリスト教というより、教団の不気味さを取り上げている。

そんな映画なのです。

そこが発想としてすごい。

また、宗教裁判の不条理や残酷さを抉り出しています。

「愛」を説く宗教とは程遠教団の保守的解釈

そして、修道院そのものの管理まで解き明かします。

しかも中世を舞台にして図式化し、暗号化して

現代を批判しているとなれば

なおさらだ。

しかし、そのような読み取りの知識が無い私には

いまだに、難解なだけ。

歩く

2008-11-09 06:23:59 | 日記
最近、ひとりで写真を撮るために出かけるのを

修行のように思うようになりました。

宗教には「座る」「拝む」そして「歩く」があると思うのですが

その「歩く」とは四国巡礼

あるいは山岳信仰などがあると思うのですが

私には「敷居をまたぐときの高揚感」などありませんが

昭和記念公園や神代植物園を歩いているとき

普段と違ったものを感じます。

神代植物園や昭和記念公園の巨木に触れるとき

草の匂いを感じるとき

気持ちが浄化され

邪気が抜けていくような気持ちになることもあります。

ただ歩いているだけなのですが

日常の些事によって中断される他者への思いとか

過ぎ去った日々の清算すべきことを考えたり

「これでよかった」と納得したり

そんないったりきたりの思いを楽しめます。

そして、「これでいいのだ」

「自分を否定したり、うらんだりすることはない」

そんな思いにいたります。

「感謝」という実感はまだありませんが

人は自分で決めているようでいて

気分や思いつきによって突き動かされている。

そんなことを感じるのも歩いているときです。

距離を伸ばし、じっくり歩けば

もっと深いところで感じるようになるのでしょうが

今は、その時期ではないようです。

そんなときは「その時期になれば自分でも気づく」

と楽観しています。

ということで今日は写真を撮りに出かけます。