あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

日本浄土

2008-11-16 17:33:41 | 日記
「日本浄土」(藤原新也著)

姉から本が回ってきました。

自己的で飛躍した文章よりも

当たり前の風景を撮った写真の方が中身がありそうに思えました。

先日、知人から彼の写真をいただきました。

どこかの展示会で利用したのでしょうか。

思ったのと違って、単なるスナップ写真で

藤原新也をどこにも感じなかったのです。

何もない。

藤原新也の著作は出版されると必ず読んでいた。

屈折した表現と深読みし、そして投げ出すスタイルの文章が魅力だった。

そんなつもりで読みました。

でも毒もなければ刺激もない。


ある日、ダイライ・ラマ14世に山折哲雄と二人でインタビューした番組

二人は、あっさり位負けし、14世のオーラに圧倒し

何も引き出せないし、持論さえも語ることができない

終えてからあれこれ解説する段になってやっと呼吸している。

そんな感じ。

そんな姿を見てから、ダライ・ラマを読んでも

藤原新也と山折哲雄の本は後回しにしようと思うようになりました。

今回の本では、藤原新也の固定化した文体と写真は

整理された老人のもので刺激も挑発も見当たりませんでした。

ファンですから読みますが、期待しなくなりました。

それより演歌の作詞家になると面白いかも

そんなことを思いました。

理由はありません。だんだん五木寛之と風貌等が区別ができなくなりました。

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「おもしろくて、ありがたい」(池波正太郎)

池波正太郎の膨大な著作の中でなるほどと思われる言葉を拾い集めたもの

面白いに、代表するような言葉を集めると

池波正太郎が見えてくる。

そんな本です。

奥多摩に出かけた帰りに駅の本屋で手に入れました。

家につた時には読み終えました。

特別のものではなくてもドラマと重ねてみると面白い。

そんな感じ。

自分は剣客商売の親子の生きかた

人との関係の作り方が面白く

台詞もしゃれているので

その辺りを読みましたが

かといって忘れられない言葉があるわけでなく

蕎麦の様な食感でした。

ご馳走様でした。

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でも

悪い奴が身分の高い(多くは身分を隠すというスタイル)

正義の味方が

悪い奴をやっつけたり

時には、切り殺し

そして「正義が勝った」と顔を見合わせ笑いあう

不気味さ

その残酷さを感じない

自分の鈍感さが嫌い。

悪い奴でも、これまでの長い人生があっただろう。

なのに、何のいい訳もなく

自分の人生を語ることもなく

無念だろうな。

悪い奴だって、誰かに見取られたいのだ

そして、何かを伝えたいのだ。

その気配を感じないから悲しい。

だから、そのようなドラマは見ない。


高いところから見下ろす

2008-11-16 16:43:47 | 日記
御嶽駅前の大きな橋を見上げた写真です。

ちょっと怖い。

そういえば、先日高尾山に登りました。

高尾山の展望台から首都圏を見ると

乱立するビルの多さに圧倒されます。

自分が住むマンションも高尾山の展望台から見えます。

でも、あのマンションに住んでいるなどと奇妙な感想を持ったり

あのマンションの点にもならないようなところで齷齪しているのだ

寂しい気分になったり

いずれにしても全体が見える場所にいることは気持ちいいし

ちょっとだけ懐が大きい人間になったような錯覚も経験できる。

「見下す」のではなく「見渡す」ことは大切なことなのだ。

自然の中に入り込むと余計そう思える。

「分け入っても分け入っても青い山」(山頭火)

そう思えるには、もっと、寂しい道を歩き続ける必要があるだろうし

見渡すだけでは「歩く」がついてこないといけないだろう。

「山の郵便配達」の心地よさは歩くことを厭わぬ逞しさがあるのです。

それはそれとして、見渡すのには、ちょっとした気合が必要だ。

でも、見上げると見渡すということには決定的何かが違っている。

多摩川を見ているのは気持ちがいい。

何もかも流れる。

その潔さが心地よい。


ちょっと寝坊しました。

2008-11-16 07:38:28 | 日記
雨の日は決まって寝坊します。

気圧と睡眠とは深い関係があるのでしょうか。

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「こころの時代」は宗教関係者があれこれ語る番組です。

興味がある内容など、ほとんどないのですが

宗教関係者は今の時代、何を考えているか

そんなことを知りたいので早起きして見ます。

だって、世襲制の寺に生まれ

何不自由なく育ち

おぼっちゃんの感性を磨き

与えられたルートで修行し、学び

結婚することになる人の

話を聞いても

面白くない。

語る話は正統的ですが、教義そのもの

それは仏教もキリスト教も同じ。

自分はわがままだから

宗教関係者の第一は世捨て人であって欲しいのです。

ときおり、巨大宗教のトップの話を聞くことができますが

意外と、幼い頃、養子に出されたりというような経緯があるのです。

あるいは、貧農の子だったりするのです。

でも、世捨て人、そんなことしていたら宗教関係者は断絶してしまうのでしょう。

でも、坊さんは、一休さん、良寛さん

そのように思い込んでいるのです。

そして、妻をもたないという条件があるのです。

「自分の幸せをさておいて」が、見えない人には影響されるとは思わないのです。

宗教者が苦労せず

(そんなこといったら反論があるでしょうし、事実は違っているとは思いますが)

育ち、教義を学び

そして、それを語ったとしても響かないのです。

私は、そんな歪んだ思い込みを持っているのです。

番組を聴いていると

とても寂しくなるのです。

広い寺院の美しい一室で、法衣を着て「無一物」を語られると

こちらが困ってしまいます。

でも、ときどき、素晴らしい人も登場しますし

こんな人がいるのだ。まだまだ信じていいのだ。

そのように思えることもあるのです。

だから、見ているのです。

どのような宗教だって、そんな矛盾をいっぱい抱えているのですから。

それでいいのです。

いやなら、テレビを見なければよいのです。

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紅葉の次はなんだろう。

そんなことを気にしていました。

次々追われるように写真を撮ってきましたが

次の被写体はなんでしょう。

もう、花の写真は難しい。

去年は年末の風物詩に目を向けてました。

酉の市、羽子板市、ぼろ市

まあ、探せばいくらでもある。

動ける限りは動き

好奇心のままにその場所に向かい

発見し、驚き、写真にし

それを編集する。

まあ、それで一日が終われば上出来。

等身大以上を求めない。

何かを提供することなど考えない。

だらだら

何でもありで制限しないで

それがいい。

さあ、今日も出かけよう。