あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
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「法句経」(ダンマパダ)

2008-11-14 20:42:45 | 日記
仏教のことを取り上げるつもりはないのです。

ただ、原始仏典の中でも有名な「ダンマパダ」

この冒頭の箇所だけを紹介したいのです。

自分は、この句に支えられてきたような気がしました。

自分の趣味を押し付けるつもりはありません。

こんなものもあるのか

そんな程度でお読みください。

もし、関心がある方は岩波文庫か出ています。

格調の高い講談社学術文庫版あります。


「ダンマパダ」

第一章 ひと組ずつ

1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。
--影がそのからだから離れないように。

3、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。
彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。

4、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。

5、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

6、「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。
---このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

7、この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。
---弱い樹木が風に倒されるように。

8、この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。
---岩山が風にゆるがないように。

9、けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。

10、けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

11、まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこ  と)に達しない。

12、まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。

13、屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

14、屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。

15、悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

16、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

17、悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。
「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

18、善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。
「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。


19、たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。---牛飼いが他人の牛を数えているように、か  れは修行者の部類には入らない。

20、たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。


心は形を求め、形は心を整える

2008-11-14 05:43:49 | 日記
正確ではないかもしれないが

浅草の仏壇屋にこんな掲示があったような記憶があります。

うまいこというなと思いました。

禅宗だったら、そう言うでしょうね。

姿かたちもそうですが

掃除が何よりも重要な修行だといわれれば、

「なるほど」と思います。

現実的な行動が伴わない抽象的な議論では前に進みません。

それでは「掃除しましょう」と言われれば

座禅の体裁よさと退屈さから比べれば

逆に奥行きの深さを感じます。

高尾山薬王院の裏側です。

ここで掃除を担当している人たちの

心を感じます。

そんな崇高な精神でなくても、

掃除そのものがあらゆるものを浄化しているのかもしれません。

ここの僧侶といわれる人は

護摩会の衣装に着替え

をコーヒーを飲みながら

芸能ニュースを見ている時間帯かもしれません。

世の中、見えているような気がしますが

何一つ見えていないのですね。