同年輩の知人は
「孫の顔を見るのが楽しみ・・・」という。
でも、孫が可愛い時代を過ぎると
状況が変わるようです。
孫が寄り付かないし、可愛い対応をしなくなる。
そうなると、あるとき楽しかったことが
そこそこになる。
所詮は、自分以外のところに束の間、愉しみを見つけただけの話になる。
そこで、自分が自分を楽しむ
あるいは、自分を表現する
それが、そこそこ自分を表現し
子らに伝わっていくものであれば
けっこう頑張れる。
映画や音楽などは暇つぶしになるし
教養人としての評価を得られるが
知識は自分ではない。
自分を語っているように錯覚する幸せな人もいますが
知識は金をどれだけもっているかと極端に言えば
上品さで多少違いがある程度。
登山もゲートボールも楽しいけれど
自分を表現することには及ばない。
やはり、自分がどのように生きたか、
どのような人であったか
そんな説明を自分にできるような
表現をしておく必要があるだろう。
禅僧でない自分は
未練のようにそんなことを思うのです。
それが年寄りがブログを続ける小さな理由なのです。
「孫の顔を見るのが楽しみ・・・」という。
でも、孫が可愛い時代を過ぎると
状況が変わるようです。
孫が寄り付かないし、可愛い対応をしなくなる。
そうなると、あるとき楽しかったことが
そこそこになる。
所詮は、自分以外のところに束の間、愉しみを見つけただけの話になる。
そこで、自分が自分を楽しむ
あるいは、自分を表現する
それが、そこそこ自分を表現し
子らに伝わっていくものであれば
けっこう頑張れる。
映画や音楽などは暇つぶしになるし
教養人としての評価を得られるが
知識は自分ではない。
自分を語っているように錯覚する幸せな人もいますが
知識は金をどれだけもっているかと極端に言えば
上品さで多少違いがある程度。
登山もゲートボールも楽しいけれど
自分を表現することには及ばない。
やはり、自分がどのように生きたか、
どのような人であったか
そんな説明を自分にできるような
表現をしておく必要があるだろう。
禅僧でない自分は
未練のようにそんなことを思うのです。
それが年寄りがブログを続ける小さな理由なのです。