剣熊考 №4
◆違う時代に行ってみる。同じ日本なのに倭語とはむずかしい。
ここにある世界は大化2年648年の世界である。
京師と書いて「みさと」と読ませている。勿論大和政権の中心部の意味であろう。
畿内国司と書いて「うちつくにのみこともち」と読ませている。近畿の諸国の
県知事や府長クラスの人の事であろう。
郡司と書いて「こおりのみやつこ」と読ませててる。郡の郡長の事であろう。市長さんクラスか?
関塞と書いて「せきそこ」と読ませている。
この言葉は剣熊や関ヶ原や鈴鹿や愛発などを考える時に大変魅力的な古語である。
塞と書いて「ふさぎ」と読ませる事もあるが、ここでは塞を「そこ」と読ませている事だ。
◆精選版 日本国語大辞典の解説では
ソこ【塞・塁】
〘名〙 要害の地に設けてあるとりで。要塞(ようさい)。
※『日本書紀』(720年)敏達一二年是歳(前田本訓)「毎に、要害(ぬみ)の所に、堅く、塁塞(ソコ)を築けむ」
とあり大変興味深い。
※『太平記』(14C後)一九「とても勝べき軍ならずと一筋に皆思切たりけれは城を堅し塁(ソコ)を深くする
謀(はかりこと)をも事とせす」とあり大変興味深い。
斥候と書いて「うかみ」と読ませている。見張りや偵察の事であろう。
ブリタニカ国際大百科事典では
「斥候」 うかみ
古代の間諜。敵の様子を探る者。「うかがい見る」の略であろう。『日本書紀』継体天皇,推古天皇の条に「候」
と出ており,大化2 (646) 年,大化改新の詔に初めて「斥候」とみえる。壬申の乱の直前,近江朝廷側が
大海人皇子側の様子を探るために利用したらしい。」とあり間諜とは忍者やスパイの事である。
守人と書いて「さきもり」と読ませている。砦を守る戦士や兵員の事であろう。
駅馬と書いて「はゆま」と読ませている。文字通り早馬の事、緊急連絡制度の事であろう。
伝馬と書いて「つたわりうま」と読ませている。後の徳川家康の作った伝馬制「でんませい」の原型であろうか?
鈴契とかいて「すずしるし」と読ませている。
駅鈴とは 646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って
造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。
日本の独自のスポーツに「駅伝」がある事に興味を引く。
◆剣熊には古代の駅が存在したのか?
現代の国道161号には道の駅 駅名マキノ追坂峠が存在する恵美押勝の乱に関係する地名なのかは私は
解らない。しかし延喜式には 鞆結「ともゆい」駅 が当地、剣熊には記載されている。駅馬は九匹いたようだ。
◆鞆結駅の鞆「とも」とは何であろうか?
鞆を着用した射手。『年中行事絵巻』より
鞆(とも)とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具である。
古語では「ほむた・ほむだ」といい、鞆という字は国字である。と言う。
また 三省堂 大辞林 には
① 船尾。船の後部。 ⇔ みよし ・ へさき
② 馬の腰から腿(もも)にかけての部分。後肢。とある。
デジタル大辞泉の解説によればとも‐づな【×纜/×艫綱】とあり
船尾にあって船を陸につなぎとめる綱。もやいづな。ともあ。
鞆結駅の鞆「とも」とは 船や馬に関係する言葉と私は類推する。
そもそも高島市マキノ町の語源は(旧:西庄村牧野に由来)して
朝廷の牧場が存在した可能性や高島の饗場は朝廷の饗庭に由来
すると、私は考えている。従って饗場氏は名族と私は推定する。
◆朝倉義景館の堀から出土した(御者たやとの」は
高島郡の馬飼の仕事をする田屋氏の馬の調教の事なのか?
◆剣熊考 途中経過
何の脈絡もなく高島市「小荒路」を考察している間に「万字峠」や「剣熊村」や「天熊の関」にまで
及びまた古代の宿駅である「鞆結駅」にまで及んでしまい驚くばかりだ。この地は日本国屈指の天下の
「嶮」の1つではないのかと思うほど、この地には魅了される。さてさて『太平記』の当該地の例文
剣の曲やその他『源平盛衰記』そして「壬申の乱」「恵美押勝/藤原仲麻呂」の乱にも関わる古来より
伝わる「天下の要衝」と思われる。
◆コヒーブレーク「ちょと余計な事」
唱歌や童謡の世界 『箱根八里』
この歌は明治34年(1901年)に創作されたものであり剣熊とは関係ないものだ。しかし箱根八里や当地
剣熊つまり7里半超えや国道161号が近畿から北陸に繫がる要衝である事や『箱根八里』が戦国後北条
氏や関東の江戸に開府した徳川政権の重要な関所である事を考えると創作された『箱根八里』の歌詞は
明治の頃の人々の心の中を伺う資料として貴重な存在であろう。
箱根八里
作詞:鳥居 忱(まこと)
作曲:滝廉太郎
歌唱:中学唱歌
制作:滝野細道
箱根の山は 天下の嶮
箱根の山は 天下の(てんかの=この国(世)中で一番の)嶮(けん=険しいところ)
函谷關も 物ならず
函谷關も(かんこくかんも=中国長安の都を守るため険しい谷合に設けた関所も)物ならず(ものならず=ものの数
ではない、比ぶべくもない)萬丈の山 千仞の谷、萬丈の(ばんじょうの=1丈は10尺約3.3mで、非常に高い)
山 千仞の(せんじんの=1仞は1尋に同じで約6尺、2m弱で、非常に深い)谷前に聳え 後に支ふ
前に聳え(そびえ=万丈の山がそそり立ち) 後に(しりえに=背後に)支ふ(さそう=千仞の谷が八里道を支える)
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす、雲は山を巡り(=雲は山をよこぎったり、山頂をかすめて流れ) 霧は谷を閉ざす
(=霧は蓋をしたように谷底を隠して湧き立っている)昼猶闇き 杉の並木昼猶闇き(ひるなおくらき=日中でも木
の下闇で暗い) 杉の並木(=関所前の杉並木)と歌詞は続いているのであるが、、、、
◆函谷關とはなんなのか?
勿論「函谷 はこたに 関」とは読まない。函谷関(かんこくかん)は、中国河南省にあった関所。この関より西を
関中といい、中原から入る上での交通の要衝にあり、歴史上多くの戦いが行われ、また故事が生まれた。場所だが
函谷關と箱根の「ハコ」韻が面白い。
◆箱根と秀吉 剣熊と秀吉
天正18年 関白羽柴秀吉は西国の軍勢を率いて箱根湯本や石垣山に陣城を「一夜城」を築いて関東の大国後北条氏の
本拠小田原城を攻略するのであるが、秀吉は天正11年賎ケ岳の戦いにも、旧織田軍北陸方面指揮官である柴田勝家に
勝利する。秀吉は余呉庄「長浜市余呉町」や木ノ本町に多数の陣城を構築して柴田勝家の南進を防ぐ長期戦を展開した
一方柴田方も余呉町柳ケ瀬に内中尾山に巨大な陣城を事前に構築して完璧不敗の陣容を整えていた。結果として秀吉は
賎ケ岳で勝利した。さてさて当時越前と近江を結ぶ街道は北国道だけではない。塩津街道や七里半超えつまりは剣熊を
塞いで西近江路からの柴田軍の京都進行を防ぐ体制「シフト」が必要となってくる。
◆丹羽長秀の策謀
何をおいても丹羽長秀の策謀術の深謀遠慮には驚愕する。天正10年段階に既に丹羽長秀は時局の趨勢を予測して山崎
合戦が勃発する前段階で明智の娘婿で近江高島郡の領主織田信澄を大坂で暗殺している。信澄は織田信勝の遺児であり
信勝とは織田信行の事である。柴田勝家の旧主とは織田信勝なのである。勝家の「勝」は信勝から拝領したものであろ
う。義理に硬い柴田は津田信澄として養育している。信澄は一段優れた人物であったらく勝家に育てられ光秀の娘婿と
なり更に織田信長から近江高島郡大溝城を与えられた秀才である。しかし人間社会は秀才よりも社会状況を冷徹に予測し
て行動する人間が栄達するのが常で原則である。
◆丹羽長秀の剣熊と塩津を封鎖し秀吉の覇業を補佐する。
天正11年賎ケ岳合戦の前段階で丹羽長秀は塩津海津に兵員を七千配り置いているのである。流石は丹羽長秀抜かりなく
剣熊の地と塩津を抑えている。そして賎ケ岳の本戦では柴田方により落城寸前の賎ケ岳城に海津方面から要領よく船
で到着し賎ケ岳城で秀吉と合流して。丹羽長秀は名言を吐く「五郎左がこの表に到着したからには、秀吉方の将兵は
安心せよと」豪語するのだ。丹羽長秀なんと言う要領の良い人間であろうか?賎ケ岳に秀吉と長秀が到着した頃には
柴田軍に属していた前田利家はすかさず塩津谷へと下り越前府中に帰還している。利家は秀吉に服従して加賀百万石
の巨利を得ている。流石は前田又左衛門だ。戦場から逃げて百万石を得る漁夫の利と言うか。戦わずして、勝利する
兵法は『孫子兵法』に言う最上策の極意である。前田利家が算盤を持つ画像がある事にも驚いてしまう。「微笑」
◆丹羽長秀の琵琶湖高島郡からの湖上も進撃策戦と足利のうみ。だろう?
さてさて湖西では琵琶湖が足利のうみ。と呼ばれた事もある。
また古代の人が湖西高島から湖北に急ぐ様子もこの万葉歌から推測できる。
万葉集
小 弁
巻09-1734
高島の阿渡 (あど) の湊 (みなと) を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ。
◆余呉のうみ 鳰のうみ 琵琶湖 あしりのうみ
私は長浜市余呉の出身であるから、余呉湖を「よごのうみ」と言う習慣を持っている。
第一級文献資料とされる『信長公記』元亀三年の条には「与語の入海」なる記述がある。
さて湖を「うみ」と表現する根本原因は古代海洋系民俗の近江移住の影響が推定される。
ワタツミ(綿津見)は海を表す古代語であり「安曇」あど「和邇」わに、「志賀」など
の海洋系の地名が滋賀県内に残る。滋賀県内には「薩摩」「宇佐」「志賀」「日向」等
の九州系を連想させる地名や神社も存在する。さてさて滋賀県民ならば琵琶湖の古名称
が「鳰の海」におのうみ である事は誰でも知っている事だ。さてさて近江の万葉集に
高島の阿渡 (あど) の湊 (みなと) を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ と言う名歌
がある。古代の湖西の人が湖北に向かう様子が見事に描写されている。そして琵琶湖
に関して信頼のおける角川地名辞典「滋賀県」では以下のように説明している。
鳰ばかりではなく「あしりのうみ」とも呼ばれたと表記している。湖北に早崎
なる地名があり早船を連想させるものだ。
『近江國輿地志略』には「北にては足利のうみといふ、高島郡にての稱なれば」とある。
つまり著者 (寒川辰清【さむかわとききよ】は高島郡では あしりのうみ とも言うと。
記していると思われる。考察するに湖西の人は湖上交通の利便性を足利と表現したのか?
◆違う時代に行ってみる。同じ日本なのに倭語とはむずかしい。
ここにある世界は大化2年648年の世界である。
京師と書いて「みさと」と読ませている。勿論大和政権の中心部の意味であろう。
畿内国司と書いて「うちつくにのみこともち」と読ませている。近畿の諸国の
県知事や府長クラスの人の事であろう。
郡司と書いて「こおりのみやつこ」と読ませててる。郡の郡長の事であろう。市長さんクラスか?
関塞と書いて「せきそこ」と読ませている。
この言葉は剣熊や関ヶ原や鈴鹿や愛発などを考える時に大変魅力的な古語である。
塞と書いて「ふさぎ」と読ませる事もあるが、ここでは塞を「そこ」と読ませている事だ。
◆精選版 日本国語大辞典の解説では
ソこ【塞・塁】
〘名〙 要害の地に設けてあるとりで。要塞(ようさい)。
※『日本書紀』(720年)敏達一二年是歳(前田本訓)「毎に、要害(ぬみ)の所に、堅く、塁塞(ソコ)を築けむ」
とあり大変興味深い。
※『太平記』(14C後)一九「とても勝べき軍ならずと一筋に皆思切たりけれは城を堅し塁(ソコ)を深くする
謀(はかりこと)をも事とせす」とあり大変興味深い。
斥候と書いて「うかみ」と読ませている。見張りや偵察の事であろう。
ブリタニカ国際大百科事典では
「斥候」 うかみ
古代の間諜。敵の様子を探る者。「うかがい見る」の略であろう。『日本書紀』継体天皇,推古天皇の条に「候」
と出ており,大化2 (646) 年,大化改新の詔に初めて「斥候」とみえる。壬申の乱の直前,近江朝廷側が
大海人皇子側の様子を探るために利用したらしい。」とあり間諜とは忍者やスパイの事である。
守人と書いて「さきもり」と読ませている。砦を守る戦士や兵員の事であろう。
駅馬と書いて「はゆま」と読ませている。文字通り早馬の事、緊急連絡制度の事であろう。
伝馬と書いて「つたわりうま」と読ませている。後の徳川家康の作った伝馬制「でんませい」の原型であろうか?
鈴契とかいて「すずしるし」と読ませている。
駅鈴とは 646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って
造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。
日本の独自のスポーツに「駅伝」がある事に興味を引く。
◆剣熊には古代の駅が存在したのか?
現代の国道161号には道の駅 駅名マキノ追坂峠が存在する恵美押勝の乱に関係する地名なのかは私は
解らない。しかし延喜式には 鞆結「ともゆい」駅 が当地、剣熊には記載されている。駅馬は九匹いたようだ。
◆鞆結駅の鞆「とも」とは何であろうか?
鞆を着用した射手。『年中行事絵巻』より
鞆(とも)とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具である。
古語では「ほむた・ほむだ」といい、鞆という字は国字である。と言う。
また 三省堂 大辞林 には
① 船尾。船の後部。 ⇔ みよし ・ へさき
② 馬の腰から腿(もも)にかけての部分。後肢。とある。
デジタル大辞泉の解説によればとも‐づな【×纜/×艫綱】とあり
船尾にあって船を陸につなぎとめる綱。もやいづな。ともあ。
鞆結駅の鞆「とも」とは 船や馬に関係する言葉と私は類推する。
そもそも高島市マキノ町の語源は(旧:西庄村牧野に由来)して
朝廷の牧場が存在した可能性や高島の饗場は朝廷の饗庭に由来
すると、私は考えている。従って饗場氏は名族と私は推定する。
◆朝倉義景館の堀から出土した(御者たやとの」は
高島郡の馬飼の仕事をする田屋氏の馬の調教の事なのか?
◆剣熊考 途中経過
何の脈絡もなく高島市「小荒路」を考察している間に「万字峠」や「剣熊村」や「天熊の関」にまで
及びまた古代の宿駅である「鞆結駅」にまで及んでしまい驚くばかりだ。この地は日本国屈指の天下の
「嶮」の1つではないのかと思うほど、この地には魅了される。さてさて『太平記』の当該地の例文
剣の曲やその他『源平盛衰記』そして「壬申の乱」「恵美押勝/藤原仲麻呂」の乱にも関わる古来より
伝わる「天下の要衝」と思われる。
◆コヒーブレーク「ちょと余計な事」
唱歌や童謡の世界 『箱根八里』
この歌は明治34年(1901年)に創作されたものであり剣熊とは関係ないものだ。しかし箱根八里や当地
剣熊つまり7里半超えや国道161号が近畿から北陸に繫がる要衝である事や『箱根八里』が戦国後北条
氏や関東の江戸に開府した徳川政権の重要な関所である事を考えると創作された『箱根八里』の歌詞は
明治の頃の人々の心の中を伺う資料として貴重な存在であろう。
箱根八里
作詞:鳥居 忱(まこと)
作曲:滝廉太郎
歌唱:中学唱歌
制作:滝野細道
箱根の山は 天下の嶮
箱根の山は 天下の(てんかの=この国(世)中で一番の)嶮(けん=険しいところ)
函谷關も 物ならず
函谷關も(かんこくかんも=中国長安の都を守るため険しい谷合に設けた関所も)物ならず(ものならず=ものの数
ではない、比ぶべくもない)萬丈の山 千仞の谷、萬丈の(ばんじょうの=1丈は10尺約3.3mで、非常に高い)
山 千仞の(せんじんの=1仞は1尋に同じで約6尺、2m弱で、非常に深い)谷前に聳え 後に支ふ
前に聳え(そびえ=万丈の山がそそり立ち) 後に(しりえに=背後に)支ふ(さそう=千仞の谷が八里道を支える)
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす、雲は山を巡り(=雲は山をよこぎったり、山頂をかすめて流れ) 霧は谷を閉ざす
(=霧は蓋をしたように谷底を隠して湧き立っている)昼猶闇き 杉の並木昼猶闇き(ひるなおくらき=日中でも木
の下闇で暗い) 杉の並木(=関所前の杉並木)と歌詞は続いているのであるが、、、、
◆函谷關とはなんなのか?
勿論「函谷 はこたに 関」とは読まない。函谷関(かんこくかん)は、中国河南省にあった関所。この関より西を
関中といい、中原から入る上での交通の要衝にあり、歴史上多くの戦いが行われ、また故事が生まれた。場所だが
函谷關と箱根の「ハコ」韻が面白い。
◆箱根と秀吉 剣熊と秀吉
天正18年 関白羽柴秀吉は西国の軍勢を率いて箱根湯本や石垣山に陣城を「一夜城」を築いて関東の大国後北条氏の
本拠小田原城を攻略するのであるが、秀吉は天正11年賎ケ岳の戦いにも、旧織田軍北陸方面指揮官である柴田勝家に
勝利する。秀吉は余呉庄「長浜市余呉町」や木ノ本町に多数の陣城を構築して柴田勝家の南進を防ぐ長期戦を展開した
一方柴田方も余呉町柳ケ瀬に内中尾山に巨大な陣城を事前に構築して完璧不敗の陣容を整えていた。結果として秀吉は
賎ケ岳で勝利した。さてさて当時越前と近江を結ぶ街道は北国道だけではない。塩津街道や七里半超えつまりは剣熊を
塞いで西近江路からの柴田軍の京都進行を防ぐ体制「シフト」が必要となってくる。
◆丹羽長秀の策謀
何をおいても丹羽長秀の策謀術の深謀遠慮には驚愕する。天正10年段階に既に丹羽長秀は時局の趨勢を予測して山崎
合戦が勃発する前段階で明智の娘婿で近江高島郡の領主織田信澄を大坂で暗殺している。信澄は織田信勝の遺児であり
信勝とは織田信行の事である。柴田勝家の旧主とは織田信勝なのである。勝家の「勝」は信勝から拝領したものであろ
う。義理に硬い柴田は津田信澄として養育している。信澄は一段優れた人物であったらく勝家に育てられ光秀の娘婿と
なり更に織田信長から近江高島郡大溝城を与えられた秀才である。しかし人間社会は秀才よりも社会状況を冷徹に予測し
て行動する人間が栄達するのが常で原則である。
◆丹羽長秀の剣熊と塩津を封鎖し秀吉の覇業を補佐する。
天正11年賎ケ岳合戦の前段階で丹羽長秀は塩津海津に兵員を七千配り置いているのである。流石は丹羽長秀抜かりなく
剣熊の地と塩津を抑えている。そして賎ケ岳の本戦では柴田方により落城寸前の賎ケ岳城に海津方面から要領よく船
で到着し賎ケ岳城で秀吉と合流して。丹羽長秀は名言を吐く「五郎左がこの表に到着したからには、秀吉方の将兵は
安心せよと」豪語するのだ。丹羽長秀なんと言う要領の良い人間であろうか?賎ケ岳に秀吉と長秀が到着した頃には
柴田軍に属していた前田利家はすかさず塩津谷へと下り越前府中に帰還している。利家は秀吉に服従して加賀百万石
の巨利を得ている。流石は前田又左衛門だ。戦場から逃げて百万石を得る漁夫の利と言うか。戦わずして、勝利する
兵法は『孫子兵法』に言う最上策の極意である。前田利家が算盤を持つ画像がある事にも驚いてしまう。「微笑」
◆丹羽長秀の琵琶湖高島郡からの湖上も進撃策戦と足利のうみ。だろう?
さてさて湖西では琵琶湖が足利のうみ。と呼ばれた事もある。
また古代の人が湖西高島から湖北に急ぐ様子もこの万葉歌から推測できる。
万葉集
小 弁
巻09-1734
高島の阿渡 (あど) の湊 (みなと) を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ。
◆余呉のうみ 鳰のうみ 琵琶湖 あしりのうみ
私は長浜市余呉の出身であるから、余呉湖を「よごのうみ」と言う習慣を持っている。
第一級文献資料とされる『信長公記』元亀三年の条には「与語の入海」なる記述がある。
さて湖を「うみ」と表現する根本原因は古代海洋系民俗の近江移住の影響が推定される。
ワタツミ(綿津見)は海を表す古代語であり「安曇」あど「和邇」わに、「志賀」など
の海洋系の地名が滋賀県内に残る。滋賀県内には「薩摩」「宇佐」「志賀」「日向」等
の九州系を連想させる地名や神社も存在する。さてさて滋賀県民ならば琵琶湖の古名称
が「鳰の海」におのうみ である事は誰でも知っている事だ。さてさて近江の万葉集に
高島の阿渡 (あど) の湊 (みなと) を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ と言う名歌
がある。古代の湖西の人が湖北に向かう様子が見事に描写されている。そして琵琶湖
に関して信頼のおける角川地名辞典「滋賀県」では以下のように説明している。
鳰ばかりではなく「あしりのうみ」とも呼ばれたと表記している。湖北に早崎
なる地名があり早船を連想させるものだ。
『近江國輿地志略』には「北にては足利のうみといふ、高島郡にての稱なれば」とある。
つまり著者 (寒川辰清【さむかわとききよ】は高島郡では あしりのうみ とも言うと。
記していると思われる。考察するに湖西の人は湖上交通の利便性を足利と表現したのか?