下塩津神社彷徨
令和元年6月、仕事も友人も話し相手も無い、私の車は、長浜市西浅井町集福寺の集落へと迷い込みました。
途方に暮れる甲斐性無き弱き私の人生の混迷と言えます。とにかく一度車を駐車させ焦る気持ちを落ち着かせ
る為に、某神社の前で休憩する事にしました。神社の石柱をよくよく観察すると式内下塩津神社と読めました。
ああ私は人生に挫折し道に迷い仕事は全くありません。友達を作ろうと必死にもがいても努力しても人は逃げ
て行くばかり自分の人徳の無さに絶望し、昔の武士ならば「弓箭の道すでに及ばず」と自害した事と思います。
私は塩津の北で落胆し悲しくも『太平記』のある一節を思い出しました。
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。↓河野通治一族の供養塔と考えられる石塔。
src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bd/ae37630c3834a02cef59c0564e134c1b.jpg" border="0">
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。
さてさて、気分の晴れない投稿になりましたが「私の本質は研究家です」。
文面の中にも見の曲(嶮の曲?)なる文言から私は研究のヒントを得ました。
また下塩津神社の由緒書きにある熊野からも、私は大きなヒントを得ました。
令和元年6月、仕事も友人も話し相手も無い、私の車は、長浜市西浅井町集福寺の集落へと迷い込みました。
途方に暮れる甲斐性無き弱き私の人生の混迷と言えます。とにかく一度車を駐車させ焦る気持ちを落ち着かせ
る為に、某神社の前で休憩する事にしました。神社の石柱をよくよく観察すると式内下塩津神社と読めました。
ああ私は人生に挫折し道に迷い仕事は全くありません。友達を作ろうと必死にもがいても努力しても人は逃げ
て行くばかり自分の人徳の無さに絶望し、昔の武士ならば「弓箭の道すでに及ばず」と自害した事と思います。
私は塩津の北で落胆し悲しくも『太平記』のある一節を思い出しました。
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。↓河野通治一族の供養塔と考えられる石塔。
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河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。
さてさて、気分の晴れない投稿になりましたが「私の本質は研究家です」。
文面の中にも見の曲(嶮の曲?)なる文言から私は研究のヒントを得ました。
また下塩津神社の由緒書きにある熊野からも、私は大きなヒントを得ました。