城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №5

2019-06-07 15:31:57 | 剣熊考
剣熊考 №5
◆№5 はじめに
 剣熊や天熊の地名は滋賀県湖北や湖西や越前近江国境に住む歴史に詳しい人ならば誰でも知っている事
 である。しかし日々の生活におわれる現代人にとっては 剣熊や天熊の地名は、何の意味も持たない事
 なのかもしれない。何の気無しに剣熊や天熊地名に取り組んできた、私にとりこれだけ継続して剣熊や
 天熊の地名がこの地域の交通史を語る上で重要であったのかを再認識させた事は重要な事である。本稿
 はまだ続くと思われるが敦賀市、長浜市、高島市、に住む皆様の共同認識として、剣熊や天熊の地名が
 長く後世に顕彰喧伝されこの地域に住まいされるの人々の産業文化の隆盛を謹んで祈念致すところです。
 また元滋賀県知事谷口久次郎氏が西浅井町から出て滋賀県民の隆昌を計られた事に深く敬意を表します。

◆出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
谷口 久次郎(たにぐち きゅうじろう、1886年6月15日 - 1973年8月9日)は日本の政治家。滋賀県知事
を2期8年務めた。『百姓知事』と親しまれた。
生涯
滋賀県西浅井郡大浦村(現滋賀県長浜市西浅井町大浦)に生まれる。早稲田大学通信教育部法科を卒業し、
故郷永原村の村会議員・村長を務め、県農協連合会長・県農業会議長等を歴任し、県会議員を2期務めた。
1958年(昭和33年)に滋賀県知事選に立候補し、自由民主党反主流派(堤派)と社会党の支持と農業団体
を背景にした選挙戦において、元農林大臣で現職知事の森幸太郎を破り第39代滋賀県知事に就任した。以降
2期知事職にあり、1973年(昭和48年)8月9日老衰により自宅で死去した[1]。 知事在職中、日本は高度
経済成長時代にあり、滋賀県経済も伸張し高校5校の新設、琵琶湖大橋建設、県警庁舎・県合同ビル新築など
の大型公共工事を行った。知事就任前年より開始した大中湖の干拓事業も総事業費41億円をかけ、1964年
(昭和39年)に干陸し、1966年(昭和41年)から入植(216戸)が始まった。知事を辞した翌年1967年
(昭和42年)には勲三等旭日中綬章を受章した。叙従四位。

◆『源平盛衰記』から、敦賀、高島、長浜の地名を探す。

『源平盛衰記』寿永二年四月十七日、木曾追討の為に官兵北国に発向
~中略~西路には大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に著にけり。其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連たり。東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎北国に下向と聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、~後略

◆長谷川的※解説
①『源平盛衰記』②寿永二年四月十七日、③木曾追討の為に官兵④北国に発向
~中略~⑥西路には⑦大津、三井寺、片田浦、比良、⑧高島、木津の宿、今津、海津を打過て、⑨荒乳の中山に懸つて
、⑩天熊国境⑪匹壇、三口行越て、⑫敦賀津に著にけり。其より⑬井河坂原、木辺山を打登、⑭新道に懸て還山まで連たり。
⑮東路には、⑯片山、春の浦、塩津宿を打過て、⑰能美越、中河、⑱虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎北国に下向と
聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、~後略
①『源平盛衰記』とは?フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
によれば『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。
※げんぺいじょうすいきと読む学者も多い。
②寿永二年四月とは?寿永2年(1183年)
※寿永二年当時の歴史的背景 寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)は、寿永2年(1183年)10月に
朝廷から源頼朝に下された宣旨。頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、
頼朝による東国支配権を公認したものとされる。寿永の宣旨とも言われる。
③木曾追討の為に官兵北国に発向
朝廷方は木曽義仲を追討し、その後、兵衛佐(頼朝)を追討しようとして、北陸道へ討手を派遣した事。
④北国に発向
北近江をも含む越前方面の事
⑥西路
西近江路の事。京都から琵琶湖の湖西を経て越前に向かう道。湖西廻りの道。
⑦大津、三井寺、片田浦、比良
大津は滋賀郡「志賀郡」の事現在の大津市の事。
三井寺、みいでら、は大津市の三井寺。
堅田浦は、滋賀県大津市堅田漁港の事。浮見堂も近くにあり琵琶湖大橋も近い。
比良は現在の大津市比良つまり比良山系の山麓。
⑧高島、木津の宿、今津、海津
高島は旧高島郡で現在の高島市
木津の宿は滋賀県高島市新旭町饗庭の木津浜近辺の事か?
今津は元滋賀県高島郡今津町。現在は高島市今津「余談であるが琵琶湖周航の歌には明日は今津か長浜かとある」
海津は旧高島郡海津で現在は高島氏に所属、湖西湖北を代表する港町、中世には浅井氏縁戚の海津城も存在した。
⑨荒乳の中山に懸つては?
七里半超えつまり現在の国道161号線を経由する事。
荒乳は越前愛発や近江小荒路に掛かる古来よりの古歌の枕言葉。
⑩天熊国境
剣熊や天熊であり、越前と近江の国境「くにざかい」。
峠の近くにある国境集落をとってこう呼ばれ、地形的な峠としても交通史的にも重要なところと言える。西近江街道。
702年に置かれた古代三関の一つ・愛発駅はこの峠の北にある山中集落のあたりだったというのが説もあるが未画確定。
⑪匹壇、三口行
匹壇、は間違いなく敦賀市疋田の事『信長公記』には「引壇の城」として登場する。
古代三関の「愛発関」あらちの関の最有力候補地この地は湖北に向かう道と湖西に向かう道
と北陸に向かう道の三叉路に相当する。国道8号線と国道161号線が合流する交通の要衝の地。
近代においても疋田検問所が設置された。三口は敦賀市「道口みちのくち」と推定されるが?
★『義経記』にみえる三口とは何か?
『義経記』には
三の口の関通り給ふ事
夜も既に明けければ、愛発の山を出でて、越前國へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に、若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。
其処を三の口とぞ申しける。これは素晴らしい特筆される大変な記述であろう。
⑫敦賀津
北陸道随一の名港。古代には角鹿津に迎賓館に相当する施設や近代にはロシア領事館も設置された著名な要衝の地。
⑬井河坂原、木辺山を打登
井河(敦賀市井川)・坂原(敦賀市葉原)・木辺山( 木ノ芽山)※木の芽峠の事と推定される。
この木の芽峠は『日本紀略』によれば、官道の北陸道の一部として、天長7年(830年)に道が開かれた。しかし、
道の険しさや冬の厳しい気候のために、難所の一つであった。このため、中世には、北陸道(北国街道)は東の
栃ノ木峠(現在の国道365号)滋賀県方面のルートに移動した。 木の芽峠は木の目峠とも書く。
⑭新道に懸て還山まで連たり。
帰山・還山(読み)かえるやま
精選版 日本国語大辞典の解説によると
かえる‐やま かへる‥【帰山・還山】
福井県中部、南越前町南今庄(旧帰村)にある丘。蛙山。海路山。歌枕。
※古今(905‐914)離別・三七〇「かへる山ありとはきけど春がすみたちわかれなばこひしかるべし〈紀利貞〉」
⑮東路には
近江の東部廻りの道
⑯片山、春の浦、塩津宿を打過て
片山は旧近江国浅井郡片山で現滋賀県長浜市で近江国浅井郡の延喜式内 片山神社
春の浦は旧近江無伊香郡飯浦「はんうら」現長浜市木本町飯浦国道8号線沿いの地
塩津宿は滋賀県長浜市塩津道の駅塩津がある場所
※この当時の通路は船を使ったか?湖畔の狭隘な道を使ったと推定される。
途中の湖岸には阿曽津に有漏神社あり。
また長浜市西野に若狭街道の道標あり、また近隣に熊野と言う集落あり。
⑰能美越、中河、虎杖崩より
能美越とはズバリこれである。
『義経記』には
三の口の関通り給ふ事
夜も既に明けければ、愛発の山を出でて、越前國へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に、若狭へ通ふ道あり。能美山に行く道もあり。
其処を三の口とぞ申しける。これは素晴らしい特筆される大変な記述であろう。

中河は中河内の事であろ。疋田からは池河内を経由して中河内に至る古道が存在する。
しかし近江国椿坂には柳ケ瀬関以前に関所が存在した伝承が『淡海温故禄』に残っており椿坂峠とも
考えられるが。
能美山が椿坂峠または栃ノ木峠に該当するのかは保留としておきたい。越前の能美川と思われるのだが?
しかし『信長公記』天正三年九月 日、九月廿三日、北庄より府中まで御出で。廿四日、つば
井坂、御泊。とある椿井坂はもっともっと注目されるべき地名であろう。

⑱虎杖崩「栃ノ木峠も含む」とは福井県の板取の事であり。崩れとは絶壁の事であろう。
虎杖山には越前一向一揆の時の虎杖いたどり砦があると言う。



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音楽家、エルビス、アーロン、プレスリーの魅力

2019-06-07 09:03:07 | 音楽
音楽家、エルビス、アーロン、プレスリーの魅力
声質と声色
  初期のロックンロールでは衝撃的なシャウト唱法が真に異彩を放っていて見事圧巻である。
  バラード調の曲では甘く柔かく時に強く歌い上げて緩急自在のアクセントを使い分ける人。
容姿と風貌
  アンダルシア系の人を連想させる揉み上げが特徴。ライブでのアクションはショービジネス
  の権化を思わせる王者の風格がある。ロック系歌手、熱唱系歌手の手本や基本とも言える。
編曲と選曲
  カバーする曲は原曲のままの様式で演奏するのではなく自分の感性とバンド仲間で編曲する。
  選曲は有名無名に関係なくアメリカのブルースやカントリーを中心に自分の感性で選曲する。
ギタリスト
  彼の前半の楽曲をギター演奏で支えていたのはロック、ギターの名手、スコテイ、ムアー。
  後半の楽曲をギター演奏で支えいたジエムス、バートン両者は名手中の名手で師匠格の人。
サンレコード時代のエルビス
  ロックンロールの萌芽期を研究している人にはサンレコード時代のエルビスの楽曲は至宝。
長谷川博美 
  
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リトルウイングと言う奇妙な曲

2019-06-07 03:07:29 | 音楽
リトルウイングと言う奇妙な曲
「奇妙」とは素晴らしいと言う意味で今回は使いたい。
先ずジミ、ヘンドリクスのリトルウイングを聞いて何と摩訶不思議な雰囲気の音楽だと感じた記憶がある。
まるで東洋の仏教寺院遺跡にでも迷い込んで蘭奢待の様な香木の香りを感じながらジヤスミンテイーでも
飲んでいるかのような幻想的かつ浮遊感覚のある音楽である。またジミ、ヘンドリクスがどの様にギター
を演奏しているのか?全く解らず、まるで別の世界に住む人が作った不思議な音楽だと青年期には感じた
ものだ。次にエリック、クラブトンのリトルウイングを聞いた時はカバー曲だと思わないほどの全く別の
雰囲気の曲に聞こえたものだ。原曲とは全く違う大英帝国やブリタニアやブリテッシュな雰囲気や空気を
強く感じる素晴らしい曲にアレンジされて大変に驚いたものだ。今でもジミ、ヘンドリクスとエリック
モクラプトンのバージョンがそれぞれ別に私の頭の中で回想されて、なんとも不思議な気分になるものだ。
もっともロック少年ロック青年ロック中年を経過して現在に至った人達にとって、この曲は格別のものだ。
 長谷川博美

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