城郭 長谷川博美 基本記録

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架空小説 摩訶不思議 鏡県 鏡町 庶民食堂 東屋西屋

2019-06-23 17:35:57 | 小説
架空小説 摩訶不思議 鏡県 鏡町 庶民食堂 東屋西屋

はじめに
 鏡に写っているのは、真の自分の姿では無く、別の、もう一人の自分とも言われている。
 そう言う意味で鏡は人間の心の別の深層心理を浮き彫りにする恐ろしい道具とも言える。
鏡県鏡町とは?
 この平凡な町には巨大なY字路が存在しそのY字路の分岐点に鏡県鏡町の町役場が存在
 する。Y字路の東を東村と言い。Y字路の西を西村と言う。役場からはY字路を挟んで
 東西の村が鏡のよう様に対照的に存在しており、東村には東太郎、東花子、東次郎なる
 人が住んでいる。一方西村には西太郎、西花子、西次郎なる東村に非常に似た人が居る。
東食堂と西食堂
 東村にある東食堂は週に3日営業し、西村にある西食堂も西食堂とは重ならない別の3日
 に営業している。鏡町の人は両食堂ともに楽しく利用して東村の人も西村の人も仲が良い。
東太郎の自慢話
 東太郎さんは、大の東村贔屓の人であり、東食堂を日本一の食堂と日頃から連呼する人物。
塩見深蔵の登場
 食堂評論家の塩見深蔵の味覚や嗅覚は彼が食レポとし、雑誌で賞賛した店は途端に人気店
 となる事で世間に知られた凄腕かつ天才肌のレポターである。彼の舌に間違い無しと世間
 で知られた伝説の味覚人とも言われた人物だ。彼が、鏡県鏡町の庶民派食堂の東屋と西屋
 を訪れて両店はともに甲乙つけがたい無双の味を誇る超庶民派食堂と両食堂を絶賛して両
 食堂は遠方からの物静かな食通から根強い人気を博したのだ。
東太郎の自慢話
 東太郎さんは、大の東村贔屓の人であり東食堂を日本一の食堂と重ねて継続連呼し続けた。
東食堂の閉店
 遠方からの食通は東食堂を敬遠して東食堂は残念なが惜しまれながら淋しく店仕舞いした。
新聞記者のスクープ
 ところがある週刊誌のスクープ写真に鏡県鏡町の庶民派食堂東屋西屋は長い廊下で繋がり
 実は東食堂と西食堂の調理師と店員は同一人物であり、それぞれ週に3日営業していた事
 がわかり県外の人々は塩見深蔵の慧眼と味覚に改めて仰天したのだ。西村の西食堂は営業
 を継続し続けた。今度は東太郎さんが西村の西食堂に現れて東村の東食堂は日本一の食堂
 だったのに何故か閉店してしまった。世間の連中は本物の料理の味を知らないと連呼した。
西村の西食堂突然の閉店
 西食堂の調理師と店員が突然店を閉店する珍事が発生した。
 店の玄関には本物の県外の、お客様長年に亘り感謝します。
 と小さな、小さな、貼り紙が、淋しく、貼られていたのだ。
鏡県鏡町の消滅
 町役場はY字路にあるが。ある日町役場の職員が巨大な鏡を取り除くと鏡町は突然消えた。
 鏡町は鏡に写っていた幻影。つまり鏡に反射したあたかも町の如く見えた虚構だったのだ。
 現世と書いて(うつしよ)と読む。つまり、鏡の向うにある虚構に人間は時に集団で迷うものだ。
 
 
 

 

 


 
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剣熊考№15 私は伊香郡人 黒山 1

2019-06-23 05:58:54 | 剣熊考
剣熊考№15 私は伊香郡人 黒山 1
 私は伊香郡人である。
今は米原に仮住しているが
根っからの伊香郡人である

私は友達も城見学の支持者も
相談相手も講師の仕事も
全くない孤独な伊香郡人だ

永原村に行ってくる!
黒山に行って来るわ!
とそんな事を言っても
誰も関心を示さない。
もう今は令和と言う全く別の時代なのだ!

平成の時代が終り
令和の時代が始まっても

永原村から出て
滋賀県知事となられた
谷口久次郎先生の様な滋賀の行く末を切実に
思う真の滋賀男児の英傑が何処におろうやと!
嘆く真面目な老人も過去には居た記憶がある?

この発想は、昭和生まれの古い老人の
伊香郡人の発想であろう?
それは路頭に迷う悲しい運命の「失笑」私かもしれない?「微笑」

滋賀県長浜市西浅井町黒谷を
冷静に歴史記録を考察すると
歴然たる近江国浅井郡なのだ。

平安初期の延喜式(えんぎしき)にも「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」
とあり、この文言は非常に重要である。何故なら延喜式は当時の日本国の公式文書で
現代で言うなら国土交通省の文書にも匹敵する公式記録なのである。さて私は東近江
の和田山の西麓で以下の石造美術を見て痛く感激したものだ。


またある時、私は長浜市西浅井町の集福寺に迷い込み延喜式内神社の石造美術にも
感激したものだ。。↓河野通治と一族の供養塔とも考えられる石塔。

さて今回の私の剣熊考は『太平記』にある「見の曲/けんのくま」のに着眼した
ものであり大浦庄の歴史や賎ケ岳合戦に関わる考証は今回は極力避けたい。前回
の投稿では地図上のマキノ町の野口にある剣熊関碑の写真を使ったが、当該地図
には野口から黒山に峠越えする山道が描かれている。これこそが私の探究している
「見の曲/けんのくま」天熊や万字峠に関するものかもしれない。しかし私は即断
しない。研究とは30年40年50年と継続すべき地味で慎重なものだ。

『太平記』北国下向勢凍死事 ★に注目
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。

河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。

さて黒山の石造美術です。鎌倉や南北朝の特徴を備えていて驚くべきもの
私は黒山が昔から湖北の小さな一寒村の黒山とは昔から思っていません。
日本の交通史に燦然と輝く極めて重要な天嶮の地であると考えています。




















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