ヤマトタケル神話と母系制社会の民俗学的考察 4
※ヤマトタケルの叔母「倭姫命」由縁の坂田神明宮訪問
私は旧滋賀県坂田郡近江町の住人でもある。現在は米原市に編入されて近江町は存在
しない。ある年私は近江町宇賀野の宇賀野農協を訪れて新米の御握りを食した事を記憶
している。その米は全く味付けがされておらず、米粒は光り輝いていた。その米の美味
さは私の人生の最高の御飯でもあった。また宇賀野の地名は日本神話の宇迦之御魂神
(うかのみたま)の如く穀物神に因むものと私は考えていた。中世にはこの地に宇賀野
氏が居館を構えていたと伝承され宇賀野館と思われる地名「親方」も残っていると聞く。
余談であるが信長に姉川の肉薄戦死した浅井の勇将遠藤喜右衛門も宇賀野出身とされる。
※余談
『新古今和歌集』00753 には
[詞書]仁安元年大嘗会悠紀哥たてまつりけるに稲舂哥
皇太后宮大夫俊成
あふみのやさかたのいねをかけつみてみちあるみよのはしめにそつく
あふみのや-さかたのいねを-かけつみて-みちあるみよの-はしめにそつく
と見えて灌漑深いものがある。この和歌は本稿では大きな意味合いをつ驚くべき内容でもある。
坂田:近江国坂田郡。1166年(仁安1年)の大嘗祭で藤原俊成が「あふみのや坂田のいねをかけつみて
道ある御世のはじめにぞつく」と詠んでいる事である。大嘗祭とは、天皇が即位の礼の後、初めて
行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じたが、現代においては
「だいじょうさい」と音読している。皇太后宮大夫俊成とは藤原俊成は大変な高位の歴史上の人物だ。
※ヤマトタケルの叔母「倭姫命」の元伊勢探し
神社由緒
垂仁天皇8年の、天照大御神を淡海甲可日雲宮より、此地に2ヶ年の間奉斎され、分霊の旧社として、
古より坂田宮又は坂田大神宮とも称し、坂田郡の総社として信仰が厚かった。 また天皇の命をうけて
天照大御神鎮座の地を求めた倭姫命の御神徳を偲び、命を祀ったのが坂田神明宮の起源とされる。祭神
は天照皇大神 豊受昆賣命とされる。
※叔母褌の民俗学
叔母褌はヤマトタケルが難渋した伊吹山中の集落甲津原に伝わる民俗伝承に収録されている。ヤマトタケ
ルの叔母倭姫は約2年近江坂田に滞在して伊勢へと向かったとされる。何分神話世界の人物なのでヤマト
タケルや叔母の倭姫の実在は謎に包まれている。また甲津原は現在米原市に属しているが元来は近江国
東草野谷であった事は良く知られている。古代の近江国浅井郡が伊吹近辺から高島市近辺まで広がる広大
な地域であった事がわかる。西浅井の事は私は『剣熊考』として当該ブログで継続して書いているので併
せて読んで頂きたい。
※伊勢斎宮に仕える斎王は内親王とも表現されている。内親王は「ひめみこ」と和訓する。宇迦之御魂神
はその身体が蛇身ともされる神である。豊受の神とも言われている。『魏志倭人伝』の東夷の条に卑弥呼
が登場し卑弥呼の死後には宗女台与が女王として邪馬台国に君臨した事が記されている。台与は豊受の神
と解釈する人もある。倭姫は伊勢に参宮したヤマトタケルに草薙剣を贈与するが、その剣自体が神代出雲
の蛇身のヤマタノオロチの尾から出たものであり蛇身である事がわかる。さて九州の志賀地方で発見され
た金印の取っ手は蛇である事は有名である。古代邪馬台国連合は、謎に満ち満ちた不思議さを湛えている。
※驚愕2世紀の伊勢遺跡
斎王倭姫による元伊勢探しは長く続けられ結局は発見されず、伊勢国にその鎮座地を選定されたのだが
近江国には伊勢遺跡なる驚愕の古代祭祀遺跡が発見されしかも伊勢神宮と同じ建築様式の巨大な棟持柱
も発掘され世間が驚愕した事例がある。もし伊勢遺跡が完全発掘されその壮大な祭祀遺構が出現したら
日本の人々は必ず言う事だろう。神代の時代のそれ以前の謎の宗教施設の神宮が存在したのだと!
※天智天皇の蒲生京遷都視察
大津から伊勢遺跡のある御神山「近江富士」の延長線上に天智は本格都城を建設しょうと計画した
のだが実現はならなかった。大津宮は離宮であり蒲生に天智は夢を抱いたのであろう。『記紀』には
大津高穴穂宮に住まいした天皇を三人記しているが神聖な壺笠山や野洲の三上山との因果関係は未だ
に謎に包まれている。よもや驚愕2世紀の伊勢遺跡など出土するなど誰も予想しなかった事。大津の
高穴穂に驚愕の遺跡が将来発掘される事を期待したい。
包まれている。
※ヤマトタケルの叔母「倭姫命」由縁の坂田神明宮訪問
私は旧滋賀県坂田郡近江町の住人でもある。現在は米原市に編入されて近江町は存在
しない。ある年私は近江町宇賀野の宇賀野農協を訪れて新米の御握りを食した事を記憶
している。その米は全く味付けがされておらず、米粒は光り輝いていた。その米の美味
さは私の人生の最高の御飯でもあった。また宇賀野の地名は日本神話の宇迦之御魂神
(うかのみたま)の如く穀物神に因むものと私は考えていた。中世にはこの地に宇賀野
氏が居館を構えていたと伝承され宇賀野館と思われる地名「親方」も残っていると聞く。
余談であるが信長に姉川の肉薄戦死した浅井の勇将遠藤喜右衛門も宇賀野出身とされる。
※余談
『新古今和歌集』00753 には
[詞書]仁安元年大嘗会悠紀哥たてまつりけるに稲舂哥
皇太后宮大夫俊成
あふみのやさかたのいねをかけつみてみちあるみよのはしめにそつく
あふみのや-さかたのいねを-かけつみて-みちあるみよの-はしめにそつく
と見えて灌漑深いものがある。この和歌は本稿では大きな意味合いをつ驚くべき内容でもある。
坂田:近江国坂田郡。1166年(仁安1年)の大嘗祭で藤原俊成が「あふみのや坂田のいねをかけつみて
道ある御世のはじめにぞつく」と詠んでいる事である。大嘗祭とは、天皇が即位の礼の後、初めて
行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じたが、現代においては
「だいじょうさい」と音読している。皇太后宮大夫俊成とは藤原俊成は大変な高位の歴史上の人物だ。
※ヤマトタケルの叔母「倭姫命」の元伊勢探し
神社由緒
垂仁天皇8年の、天照大御神を淡海甲可日雲宮より、此地に2ヶ年の間奉斎され、分霊の旧社として、
古より坂田宮又は坂田大神宮とも称し、坂田郡の総社として信仰が厚かった。 また天皇の命をうけて
天照大御神鎮座の地を求めた倭姫命の御神徳を偲び、命を祀ったのが坂田神明宮の起源とされる。祭神
は天照皇大神 豊受昆賣命とされる。
※叔母褌の民俗学
叔母褌はヤマトタケルが難渋した伊吹山中の集落甲津原に伝わる民俗伝承に収録されている。ヤマトタケ
ルの叔母倭姫は約2年近江坂田に滞在して伊勢へと向かったとされる。何分神話世界の人物なのでヤマト
タケルや叔母の倭姫の実在は謎に包まれている。また甲津原は現在米原市に属しているが元来は近江国
東草野谷であった事は良く知られている。古代の近江国浅井郡が伊吹近辺から高島市近辺まで広がる広大
な地域であった事がわかる。西浅井の事は私は『剣熊考』として当該ブログで継続して書いているので併
せて読んで頂きたい。
※伊勢斎宮に仕える斎王は内親王とも表現されている。内親王は「ひめみこ」と和訓する。宇迦之御魂神
はその身体が蛇身ともされる神である。豊受の神とも言われている。『魏志倭人伝』の東夷の条に卑弥呼
が登場し卑弥呼の死後には宗女台与が女王として邪馬台国に君臨した事が記されている。台与は豊受の神
と解釈する人もある。倭姫は伊勢に参宮したヤマトタケルに草薙剣を贈与するが、その剣自体が神代出雲
の蛇身のヤマタノオロチの尾から出たものであり蛇身である事がわかる。さて九州の志賀地方で発見され
た金印の取っ手は蛇である事は有名である。古代邪馬台国連合は、謎に満ち満ちた不思議さを湛えている。
※驚愕2世紀の伊勢遺跡
斎王倭姫による元伊勢探しは長く続けられ結局は発見されず、伊勢国にその鎮座地を選定されたのだが
近江国には伊勢遺跡なる驚愕の古代祭祀遺跡が発見されしかも伊勢神宮と同じ建築様式の巨大な棟持柱
も発掘され世間が驚愕した事例がある。もし伊勢遺跡が完全発掘されその壮大な祭祀遺構が出現したら
日本の人々は必ず言う事だろう。神代の時代のそれ以前の謎の宗教施設の神宮が存在したのだと!
※天智天皇の蒲生京遷都視察
大津から伊勢遺跡のある御神山「近江富士」の延長線上に天智は本格都城を建設しょうと計画した
のだが実現はならなかった。大津宮は離宮であり蒲生に天智は夢を抱いたのであろう。『記紀』には
大津高穴穂宮に住まいした天皇を三人記しているが神聖な壺笠山や野洲の三上山との因果関係は未だ
に謎に包まれている。よもや驚愕2世紀の伊勢遺跡など出土するなど誰も予想しなかった事。大津の
高穴穂に驚愕の遺跡が将来発掘される事を期待したい。
包まれている。