城郭 長谷川博美 基本記録

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「長浜市」浅井の二元神社考3 二つの浅井郡の式内社

2019-06-02 12:10:37 | 比較研究論
「長浜市」浅井の二元神社考3 二つの浅井郡の式内社
世の中には同じ郡の中に同じ名前の式内社が存在する場合があります。どちらが本物の式内社なか?
を今回は是を考えない事に致します。常識から言って神社の新旧はどちらかの神社から分祀されたか
を調査すれば決着がつく場合があるのですが、今回は西浅井と東浅井の二元論で考察していきます。
※式内社の遷座地の変遷
 延喜式内社でも山の山頂や中腹や山麓と祭祀の場所が変遷した例が多々あります。
※無境内社
 延喜式内社でも未だ神社建築を伴わない祭祀の為の森や巨岩や噴火口や瀑布つまり滝をまた、
 岩境/磐境(読み)イワサカ等の自然の巨岩を祭祀の場とする場合もあります。
※本社から分祀「御魂分」みたまわけ、した神社が本社より隆盛する場合も多々あります。
 それは人口が時代の変遷により増加した場合には本社より社殿も大きくなり祭礼も隆盛
 し神社は繁盛し長年にわたり神宝も充実する事もあります。また元来の本社が衰退する場合も
 有り得ます。神社とはその土地に集まる氏子集団や一般参拝者により形成されて行きます。
 式内社に限らず神社とは市街を壊して突然神社を作ったり遠方の神社より分祀したりする場合や
 海外に存在した神社が突然政情の変化により姿を消す場合もあります。
※今回は二つの同名神社、矢合神社を訪ねてみる事にしました。誤解を招くと困りますから事前に
 どちらが延喜式神名帳に記載された矢合神社かは述べません。二元的に神社を並行考察致します。

所在地 滋賀県長浜市中野町です。
神社名 矢合神社 (ヤワイ)です。
原典の延喜式神名帳には(ヤアイ)と記されています。
南北朝期に八相山で合戦もあったとの事。

御祭神 葦那蛇迦神 アシナダカの神です。亦の名を八河江比売ヤカワエヒメといも言います。
『日本書紀』には登場しません。『古事記』に登場致します。 「葦那陀迦神」は 別名の「八河江比売」の名義は「多くの川の江の巫女」
で、神や命といった神号がつかないのは巫「ミコ」の女性を表すとされます。この山全体は虎御前山とも呼びます。虎姫でしょうか?

当地は古くから水利に恵まれなかったので主祭神を始め境内社の岩上神社祭神浅井姫命、更らには世々開長者の伝説、
清水清介翁の祭祀など水利にかゝわる祭儀が多いとの事です。祭神に「蛇」の文字があります。

虎御前山には城址も古墳も多数あり、特に南麓の三川には丸山古墳と呼ばれる古墳が整備されています。
虎姫時遊館の場所です。ここでは丸山古墳の名前を憶えておきましよう。

※矢合神社 やあいじんじゃ 滋賀県長浜市西浅井町岩熊へ探訪。
ここは「ヤノクマ」と読みます。

この神社の近辺にも丸山古墳が存在します。古墳はJR湖西線の橋脚の下に所在します。案内版は以下の通りです。
虎姫の矢合神社にも虎御前山城や古墳が存在しますが西浅井の岩熊ヤノクマにも城山城址が存在致します。私は昔日
滋賀県の中世城郭分布調査員の時に、岩熊の城山城址を調査させて頂きました周壕横堀や土塁や竪堀も存在致します。

岩熊の矢合神社の石柱にも式内と記されています。

岩熊から見える山本山や古保利古墳群や山本山城址や若宮古墳の等がよく視認できます。ここは元は浅井郡の奥琵琶湖です。
多くの船人が古代からここから旅をした事でしょう。古代には琵琶湖も深く北に入り込んでいて、塩津丸山古墳近辺にも
古代の港が存在した事でしよう。そうです西浅井は本来古代から浅井郡なのです。虎姫にも西浅井にも偶然にも丸山古墳
が存在する事は興味深いです。

岩熊の矢合神社から望む昔の権現坂です。昔は祝山の大きな常夜燈も水陸を行く旅人が伊香郡へ北陸へと旅をした事でしょう。
西近江のマキノからは万字峠、山熊峠、権現峠を越えて余呉経由で伊香郡の木ノ本の牛馬市に牛馬が運ばれたとも言います。
権現坂にも小規模な常夜燈が残されています。まさにこの地は水陸の要衝だったと言えましょう。万葉集でも読みましょうか?

笠金村(かさのかなむら)伊香山(いかごやま)、野辺(のへ)に咲きたる、萩(はぎ)見れば、君が家なる尾花(をばな)し、思ほゆ
塩津(しほつ)山うち越え行けば我(わ)が乗れる馬(うま)そ爪(つま)づく家恋(いへこ)ふらしも
ああ、なつかしき、私の故郷の西浅井と伊香の景色でもあります。
↓塩津の矢合神社は御祭神が虎姫の矢合神社とは異なるようです。

社頭の鳥居の様子です。

山麓の社殿の様子です。

さて岩熊の矢合神社の事ですが
式内社 近江國淺井郡 矢合神社です。
御祭神は猿田彦神 應神天皇です。
滋賀県長浜市(旧西浅井町)岩熊に所在します。
創祀年代は不明です。
社伝によると醍醐天皇の御代には、
すでに存在していた古社であるとしています。
もともとは山腹に鎮座していたが、
後に現在地である山麓へ遷座したとの事です。
「矢合」の名称について。
昔、浅井姫命と気吹雄命が争った時、
気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、
防矢を射たとも言われています。これは伝説です。




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「長浜市」浅井の二元神社考2

2019-06-02 06:29:27 | 比較研究論
「長浜市」浅井の二元神社考2
※鹿島神社を求めて、麻曾田の地名を求めて
前回の記事で私は旧浅井郡の香取神社について書きましたが、今度は鹿島の神社を級旧浅井郡の
鹿島神社を探す事にしました。香取鹿島の神社名を考察する事は過去の水運を考える上で意義が
深いと思ったからです。

※麻蘇多地名を求めて
『延喜式神名帳』には麻蘇多神社を片山神社と併記しています。つまり横並び書いてます。是は
は一夜にして琵琶湖に沈んだ阿曽津千軒伝説の残る有漏神社と私は推定した事もあります。また
滋賀県長浜市益田町(旧東浅井郡びわ町益田)は麻蘇多神社とも考えらます。式内社とは千年の
長い歴史があり分祀「御魂分け」が複数回されたり消滅したりまた復興されたり神社名が変更を
される事もあり式内社の位置を正確に決定する事は物理的に学問的にも限界や無理があります。
ちなみに 平安時代後期の公家 藤原顕輔の詠んだ和歌に「すべらぎを まもりますだの もりなれ
や あから柏のあからめもせず」があり、益田の杜と推定されます。しかし、別の地名も候補地も
あり決定できない場合もあります。
※浅井郡の鹿島神社を求めて
 江塩津の香取神社近辺は中世琵琶湖の水運で栄えた場所と言われ、水運の港の神社香取神社が
関東から勧請されても自然な事と言えます。中世の神社の分祀は限りなく遠くから実施される事も
あるのです。全国に散在する日吉、山王、日枝、八王子などの神社名は近江坂本から分祀されてい
ます。
※水利水運の神社立地条件
鹿島神社は水辺が存在した。つまり港が存在した場所に設けられる場合が常です。浅井郡中野の
湊の伝承は東川と田川の合流点である事や田川の水運を利用した船場が浅井郡の伊部に存在した事
や中世の『嶋記録』には伊勢長嶋から鈴鹿山系を超えて彦根市の石寺を経由して琵琶湖を遡上し
て小谷城下に至る経路が記録されています。また『信長公記』には宮部に築塁して虎御前山東麓
に水を注いだ記録があります。また江戸時代の小谷山や大依山の南麓に沼沢地が記された絵図も
残されていて小谷城下は沼沢により防御された要害の地勢であった事が解ります。よって田川に
は水辺の神を祀る神社が存在する可能性があります。

※浅井の鹿島神社探訪
私は中野から往昔、東中野が存在した道を北上して別所にいたり留目「とどめ」に至りました。この
集落は昔ここで船が止められた意味もあるとか?聞いております。鹿島神社の鳥居が見えて来ました。
また神社由緒書には私を喜ばせる文字があり気分は明るくなりました。
第一に
当該鹿島神社は元は田川の「麻曽田山」です。延喜式内社の麻蘇多に極めて近い音韻です。この
場所に鹿島神社が祀られていた伝承です。神社由緒書なので伝承と言えますが、、素晴らしい!
第二に中臣 金連「なかとみの かね むらじ」が神社の創建に関わった伝承です。
(なかとみ の かね)は、飛鳥時代の官人。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓は連。中臣糠手子
(なかとみのぬかてこ)の子。鎌足の従兄弟にあたる。天智天皇、大友皇子(弘文天皇)に重臣
として仕え壬申の乱で敗れて処刑された。冠位は大錦上・右大臣。彼は悲運の人でもあります。

※魏志倭人伝幻想
 さてさて私が注目したいのが彼の父の名前の中臣糠手子(なかとみのぬかてこ)ですが
時代は全く違うのですが『魏志倭人伝』の記述にある。邪馬台国の卑弥呼を補佐する4官
の名前ととして倭人伝では奴佳鞮ヌカテイと言う臣がいますが私はこの古代の名前にも惹
かれます。しかしまあ時代の異なる邪馬台国幻想は是ぐらいにしておきましょう。「微笑」

※浅井郡と鉄 浅井郡の西部の広がりを考える。
天平18年(745年)近江国司の藤原仲麻呂(恵美押勝)は鉄穴を独占していたようです。
製鉄の、技術者を集めた内容の「近江国司解文〈コクシゲブミ〉」が残っています。
『続日本紀』天平宝字 6 年(762)2 月 25 日条には、「大師藤原恵美朝臣押勝に、
近江国の浅井・高島二郡の鉄穴各一処を賜う」の記載があり浅井郡・高島郡の鉄穴に
相当するもの と考えられ、全国的にも高品質の鉄鉱石であった事が知られています。
※再び浅井鹿島(カシマ)神社の事
御祭神は

武甕槌神 天児屋根命 斎主命 姫大神
〔配祀神〕猿田彦命 宇迦之御魂神 彦多都彦命です。
※御由緒

仲哀天皇越前角鹿へ行幸の途次勅し給いて武内宿禰が勧請し、天智天皇9年右大臣中臣金運社殿を造営、
降って神護景雲2年荘司公文社殿を再び造営した。武家の尊敬篤く建久4年源頼朝は社領を寄進し、鎌倉
政所は禁制札を建てている。京極持清は社領300貫を寄進するとともに浅井氏小谷山に城を築くや産土神
として代々祈願社として留目村の地五百石を社領として奉納する。元亀天正の戦火によって建造物旧記
什物等悉く烏有に帰したが、豊臣秀吉神威を畏み、片桐東市正、木下半介の両人に命じて復旧せしめて
天正19年朱印社領二百石を寄進し同20年には更に五十石を加え幣帛料を献納している。慶長7年徳川家康
も社領二十石を奉じ、江戸城本丸造営役徒に際しては遠国の故をもって祝儀として参府に及ばずとの通牒
をせしめている。文化3年九条摂政より白銀を献ぜられ祈願所として年々幣を奉られ、文政5年には仁孝天皇
御撫物を下附せられるなど皇室の尊敬も篤かった。浅井氏縁りの豊臣秀吉の室淀君を始め、徳川秀忠の室
、京極高次の室等母方の氏神として徳川氏は大巡見使派遣の際は幣帛を奉納している。旧来神主2人、神部6人
奉仕の制が明治4年まで続いたとされます。
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「長浜市」浅井の二元神社考

2019-06-02 00:08:49 | 比較研究論
「長浜市」浅井の二元神社考

※はじめに

 現代の東京の皇居で皇室の行事が執り行われる。
 京都御所に於いても皇室の行事が執り行われる。
 東京も京都もどちらも、たしかに「京」である。

※古代において
 東漢氏
 西漢氏 の両氏が存在した。

 東漢氏は やまとの あや うじ と読む。大和を 本拠地とする氏族だ。
 西漢氏は かわちの あや うじ と読む。河内を 本拠ととする氏族だ。
 両者の読み「訓み」は現実であり、真に不思議に感じまた深いと言えよう。

※近江国ノ浅井郡の訓み「よみ」
 
 10世紀前半に成立した百科事典『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』
 には「浅井」の読み仮名として「アサイ」と書かれている。

 
 『延喜式神名帳』(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた
 『延喜式』の巻九・十の事で、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧であるが。
  この書物には確かに「アサイ」と書かれている。

  私は長浜市余呉町出身なので「アザイ」と濁音で発音する習慣を持っているが、少なくとも
  10世紀に編纂された書物『和名類聚抄』と『延喜式神名帳』では「アサイ」と記されている
  ので10世紀頃は「アサイ」と発音されていた可能性はあろう。しかし諸説あり此の件に関し
  て今回は私は言及しない事にする。

※『延喜式神名帳』近江国浅井郡の筆頭、神社塩津の意義
 先ず神名帳の浅井郡の筆頭に「塩津神社」が登場する事は古代浅井郡の本質や地理を理解する
 上で重要な事であろう。また現代の米原市奥伊吹スキー場の所在する甲津原はれっきとした旧
 浅井郡、東草野谷である事はよく知られている。つまり浅井郡は元来広大な領域の郡と言える。
  
※二元思考とは?
  人間とは時に白黒を明確に断定してAとBを区別したい傾向を強く持っている。つまり断定
  や決定を強く望む。本当はどちらかだと断定を強く望む。ところが学門は継続され研究され
  続けるられと事に意義がある事もある。断定せずAもBもありと得ると研究し考え続ける事。
  研究の本質とは研磨し続ける事が「研」トギや「究」のキワメの本質であろう。

※浅井の中世初期の香取と鹿嶋の神社を探す。
先ず香取や鹿嶋を冠する神社は水運に関する神社であり中臣氏や藤原氏に関係のある神社で
  もある。神職にも関係する神社とも考えられ『延喜式』神名帳(平安時代の官社一覧)では、
 「神宮」と記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみである。
 藤原氏からの崇敬強く、藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、
 香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。
 中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両神宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から
 信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸が掲げられることが多い。
※先ず長浜市西浅井祝山の香取五神社見学へ
 子供の頃から私はこの神社は余呉文室から権現坂を山越えで遠足に行った馴染のある神社でもある。
 
 祝山は「ほりやま」と発音「はふりやま」神職の山の意味がある。祝山には塩津街道の大灯篭
 があり水陸の交通の十字路を連想させるものがある。祝山から余呉町の川並へ超える峠には権現
 坂の灯篭があり樽見とも称している。『佐久間軍記』には賎ケ岳の合戦で佐久間玄蕃らが蔵王の
 森を通過した記述がある。権現坂は延喜式内社「足前神社」の比定地でもある現在長浜市余呉町
 文室の北野神社の摂社として権現社の祠が祀られている。祝山は祭祀の山、神職の山の意味があろう。
 
※香取五神社
創祀年代は、慶長十八年(1613)塩津中にある香取神社の氏子の間で、もめごとがあり、
祝山が分離して、現在地に社殿を建てたものとある。香取神社や香取五神社は、基本的に
 関東の香取神宮からの勧請と思われ、主祭神の・經津主神「ふつぬし」は、斎主の神とも。
 祝い主の神で鎮座地の祝山地名と関係が深いと思われる、明治までは香取五所明神と称したが、
 明治二年に、香取五神社に改称した。境内には古い大木があり創建は意外に古いと私は考察する。
 
※塩津の発掘された神社遺跡に驚愕 五体の神像に驚く
 香取五神社はともかく水中の地下深く平安時代の神社遺跡から五体の神像が出土した事に驚く。

 遠い平安の昔、大津波が奥琵琶湖を襲ったのであろうか?この遺跡は長大な起請文木簡そして
 生々しい注連縄「しめなわ」鳥居の柱根など生々しく昔、港に存在した神社を彷彿とさせる。
 この神社遺構こそ塩津香取神社だと私は断言はしないが、五体の神像は驚くべきものがあるだろう。

※有機物質の酸化について
 遺跡において水の中の木製品が出土する類例は多いのだが当該遺跡の「注連縄」「下駄」「神像」「炭化米」や
 「扇」などは生々しい。有機遺物は空気に触れると直ぐに腐る。つまり酸化して腐る性質を持っているのだが?

 当該遺跡の木製遺物は一瞬のうちに水没して空気に触れる事なく水底に沈んだ事を意味するのかもしれない。

※香取五神の神名を求めて現代の塩津中の香取神社探訪

 さて塩津の香取神社の五神とは何なのか?その五柱の神名を求めて塩津中の香取神社を探訪する事
にした。国道8号線に近い神社と思って現地に向かったが何故か?直ぐには神社には到着できなかった。
社殿の建築は眼を見張る素晴らしさだった。

塩津中の香取神社の主祭神は以下のとおりとされる。
経津主神 磐裂神 根裂神 磐筒男神 磐筒女神

長谷川的に解釈をすると
経津主神(ふつぬしのかみ)男神
磐裂神(いわさくのかみ) 男神
根裂神 (ねさくのかみ)女神
磐筒男神(いわつつのおの神)男神
磐筒女神(いわつつめの神)女神

※塩津中の香取神社の由緒
創立延暦8年と伝う。第10代崇神天皇の御宇当浅井郡楫取郷余村字池見に社殿を創建し、海北神と称し湖上の
船舶及び土地守護の神とした。往昔は附近の村落18村の奉斎する処湖辺の浦々から水上無難の祈禰祭祀を納めた。
延暦8年大洪水のため余村池見の社殿漂流し中村の田の中の現在地に止まり一大森林に変化した。依って当社
を大森という。郷名を楫取神社、或は、香取神社又は香取五社大明神と称した。明治2年社名を塩津神社と
決定あり、明治5年、香取神社と改称、明治9年村社に列格。昭和29年台風により拝殿全壊、30年拝殿を新築。
昭和36年台風のため境内木倒木折損し通称大森の姿を一変した。式内塩津神社未定社とされる。

境内社(摂社・末社)

川濯神社 かわそ
白山神社 はくさん
稲荷神社 いなり

  
  
  
 
 
 
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