城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

延喜式内 意太神社考 2

2019-07-09 06:51:05 | 比較研究論
延喜式内 意太神社考 2
滋賀県長浜市西野隧道の近辺で意太橋なる橋名を見て驚いた私であるが、西野には若狭街道の石柱や
海老の坂と呼ばれる山道や古保利古墳の一郡たる西野古墳や大谷古墳が存在しやがてその道は水没した
とされる阿曽津千軒や漏有神社へと続いていおり真に神秘的である。淡水湖琵琶湖なのに海老の坂また
若狭街道の謎が深まるばかりだ。意太橋なる橋名は神官「大音氏」に関係する私は推測する。以前私は
常神なる若狭の漁村を訪れ格別美味なる魚介類を食べた記憶がある。さて若狭には常神や神子「みこ」
なる地名がある事を記憶していた。

神子神社
 三方上中郡若狭町神子の神子神社 御祭神と由来
大山咋命
比叡山の地主神として崇敬され日吉大社の祭神で、伊香具神社の山王社に大音明神として祭られていたの
を大音家の祖で伊香具大社(滋賀県木之本町)神主、安助の四男、安崇が嘉応二年(1170)神子、常神の
領主に任ぜられ、この縁で、弘安六年(1283)伊香具神社から山王社を勧請し当社殿を建立し、以後左記の
御祭神が奉祀されたとある。

意太橋や若狭街道から、忘れ去られた、神社史が甦るとは私は夢にも思わなかった。

※余談
 伊香氏からは布施氏、西山氏、大音氏が分流して武家として活躍しているとも言う。


意太神社

香具土神相殿二意富々杼尊、当地二鎭座ス、其創立年代詳ナラスト雖モ往古継体天皇四世ノ孫二當ラセラル意富々杼王ノ裔孫此ノ地二住居繁榮シ設祖廟ヲ創立セシモノニシテ今尚ホ鎭座ス地ノ字ヲ香具山接続地ヲ上ノ山ト称ス、此ノ地往古ハ総称シテ伊香ノ縣ト云ヒシカ後チ大音村ト改村セシモ全ク當神社ノ社名二起因ス、抑モ当社ハ往古伊香具神社ト並ビ隆盛ナリシモ彼ノ天正年間賎嶽ノ役二兵焚二罹り社殿記録宝物等鳥有二帰ス後チ慶長年間一小祠を再建セリ、後チ明治二十七年再建ノ議起り同二十八年三月竣功ス、現今ノ社殿、梁行四尺五'桁行四尺五 )是ナリ、當社鎭座ス山ノ総名ハ伊香胡山ト称へ和名抄二伊香胡山近江國伊香二在リト見ユルハ此ノ山ナリ

意太神社御由緒調査書より


意富富杼王とは?
 意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)は、『古事記』・「上宮記」に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。大郎子(おおいらつこ)、意富々杼王、意富富等王、大大迹王とも。祖父は第15代応神天皇、父は稚渟毛二派皇子(応神天皇の皇子)、母は河派仲彦王の女・弟日売真若比売(おとひめまわかひめ、百師木伊呂弁とも)で、同母妹の忍坂大中姫は従兄弟にあたる允恭天皇妃である。意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが、『古事記』には息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君・筑紫米多君(めたのきみ)などの祖としており、また「上宮記」逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫すなわち意富富杼王の曾孫にあたるのが第26代継体天皇とされる。意富富等(オオホド=大ホド)という名は継体天皇の諱男大迹(オホド=小ホド)と対応するため、本来は別人の名で実際は大郎子と称されていたのではないかとする意見もある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする