城郭 長谷川博美 基本記録

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異能の城郭ブログ

2019-11-14 16:18:26 | 城郭
この記事のおおすめ度
五段階で★★★★★星5

異能の城郭ブログ

一般者
あの近世の幕開けの契機を創ったとされ
る織田信長自身は縄張りと言う原始的な
城郭に伴う作業など全くしてませんね?

長谷川
天正3年の『信長公記』には信長が越前
北庄城の縄張りに関わった記録あります。

九月二日、豊原より北庄へ、信長御越し
なされ、城取りの御縄張させられ、御
要害仰せ付けらる。北庄御普請場にて
高島打下、林与次左衛門、生害させ
られ侯。子細は、先年、志賀御陣の時、
浅井・朝倉引き出だし、早舟にて渋矢
を射懸け申し、緩怠の条々、御遺恨に
侯ひしか。越前国、柴田修理に八郡
くださる。

城取りとは築城の事です。
縄張りとは築城の縄張り。設計の事です。

長谷川
この一文を読んでも縄張りが如何に重要
かが理解出来ます。しかも織田信長です。

対話者
現代人が長谷川先生が言われる土の城の
実際の現場つまり地面を見学されないの
は何故なんでしょうか?石垣ばかりです。

一般者
それは人間が最初に城を学習したテレビ
や観光パンフや観光地の近世城郭の映像
が脳内に幼少期から、繰り返し繰り返し
た無意識化に刷り込まれた石垣城の姿で
記憶や印象は脳内神経記憶物質シナプス
で形成されているからです。石垣の無い
時代の人の城の常識とは石垣などは全く
ない土+成=城の漢字を見ればわかります。
古代から城の工事とは土木工事つまり普請
し作事建築の文字通り、土木工事そのもの


一般者
私は城址に行ったら歩測でおおよそ城址の
規模を計測致します。これが最高の計測法。

対話者
私はメジャーや電子測量機で城址計測です。
現代では赤外線航空測量も実際にあります。

対話者
400年500年前の人は現代と比べて測量技術
が劣っていたでしょうか?私達の先祖が持っ
ていた過去の高度な技術とは城址を歩測する
そんないい加減な泥臭いものですか?例えば
400年前の城址普請をする普請を担当する人
に歩測で城を計測しましたなどと報告したら
普請奉行や作事方の統領は許してくれると
思いますか?統領は計測尺、尺間棒を持って
厳しく現場の尺寸棒でチェツク検査監督して
いた事と思います。それが現場のリダーです。
おそらく城に精通する現代人が来たら統領は
お前は物見遊山にでも来ているのかと烈火の
如く怒ると思います。もしタイムマシーンと
言う物が有ったとして現代の城址のオソーリ
テイと称する人が当時の現場の統領の前で
城を解説したら統領は、何尺、何寸、何分と
言う尺度で城を造っていたので、全く相手に
してくれない事でしよう。貴様、城郭をナメ
とるのか未熟者と一喝された可能性がある。
現代まで残る400年まえに作られた城址とは
平成令和の人が作っている訳が絶対ないです。
400年前の現場を理解できる人こそ、それは
現代から見たら異様、異能の人だが当時の人
はそれが極めて常識スタンダード標準でした!

長谷川
そんな厳しい事を言うのは、止めましょう!
のほほん、のほほん令和の城はリラックス!

対話者
茶化さないで下さいよ!500年前700年前の
日本の名刀の高い技術を即刻際限出来る技
は失われてしまってる。城郭だってそうだ!

対話者
見ましたよ。志賀郡の野々口丹波城の縄張図。
一般的縄張図とは異なる異能の世界を感じる。

長谷川
ありやそうなんですか?
対話者
しかし山城を研究している人や山城愛好家様
からは全く理解されずに孤立している長谷川
先生の孤独な世界が浮き彫りになっています。
この記事に「良いね」が少ない!と言う事は
長谷川先生に全く人気がないと言う事の証明
長谷川先生が立ち直れるキッカケ契機が全く
無いとという事です。長谷川先生は世の中に
必要とされていない証明ですよ!

長谷川
そのとおり私の理解者様は世の中に全く居な
い。暗く辛くブログを書く度に落ち込みます。
対話者
しかし1名様だけ社会から見て不可解で異能
な長谷川先生の図面を理解しようとする人の
慧眼や洞察力には、私は驚きを隠せません!

対話者
城址に行きたい人々と先生には、大きな思い
の違いや、隔たりがある様に思えます。城に
行きたいと願う人の思いと人とヒヨンな記事
に「良いね」を、多数入れている事に対して
長谷川先生がシャカリキに必死になって書か
れている投稿記事とには明らかに城への思い
のズレや矛盾が大きく露呈しておりますよ!

長谷川
そうなんですか?お気楽に行きましょうね!

対話者
私は先生の野々口丹波城の図面には遠い遠い
はるか彼方の中世に生きた職人達の現場に
生きた人達の息吹きや生々しい現場感覚を
ヒシヒシト強く感じてしまう。野々口丹波城
の図面書いている長谷川先生とは昭和、平成、
令和の人じや無くて400年も500年も600年も
遠い遠い昔から現代に来られた人ではないかと?
中世の職人や地面に「縄打ち」をしている事
に当時の職人達のハイテク技術を強く感じる。
やはり私は長谷川先生のこの図何度みて寒気
を感じる異能の世界全く私達が知らない世界!

長谷川
もし対話者のあなただけが私を理解している
と仮定すれば、私は世の中や社会に全く孤立
した孤独な存在であると言え城址見学さえも
する意義や意味が全くなくなってしまいます。

対話者
そうですか?それでは、遠い遠いはるか昔の
中世の人々の現場を見る為にフリー百科事典『
ウィキペディア(Wikipedia)』を引用して
※『春日権現験記』(高階隆兼筆)を観察します。

※『春日権現験記』(高階隆兼筆)
春日権現験記(かすがごんげんげんき)は、
藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の
霊験を描いた鎌倉時代の絵巻物。春日権現
験記絵巻、春日権現霊験記絵巻などの別名
がある[1]。絹本著色、巻子装、全20巻
(他に目録1巻)、三の丸尚蔵館所蔵。
1309年(延慶2年)に時の左大臣・西園寺
公衡の発案で、宮廷絵所の長・高階隆兼に
よって描かれ、春日大社に奉納された。
全21巻(うち1巻は目録と序文のみ)。
最高峰の大和絵で描かれた社寺縁起絵巻の
代表作であると同時に、全巻が揃い、制作者
が判明していることや、当時の風俗が細かく
描かれていることなどから、日本の中世を
知る貴重な歴史的資料とみなされている[2]。
とあります。

対話者
すごいです!やはり中世の人々は水糸を地面
に引いて、長谷川先生の城郭図にあるような
謎の縄打線を地面に引いていたんですね!
対話者
すごいです。地面にグリッド線を引っ張り
礎石を据えています。また水平を出す為の
水張も行っています。中世の人はカシコイ!

対話者
つまり2019年から1309年を引くと今から
710年前の事になります。考えても見て下
さい。通常の人間が710年も前の世界へ行
けますか?もし長谷川先生が710年前に近
い感覚で日本の伝統文化の寺社仏閣や城郭
平面構造を看破できる割り出せる異能の力
があるとしたら長谷川先生のこれ等の図は
私にとり腰を抜かして驚くべき事なのです。

対話者
長谷川先生を講師として看破した数人の人
の洞察力は私にとり、よくぞ見破った人々で
さすがの数人様だと驚くべきばかりです!



長谷川
過分の御理解と過分のお褒めを賜り感謝
いたします。でも私にとり子供の頃から
城址を計測してきた行為は平凡な事です。


対話者
平凡ではありませんよ!賎ケ岳城塞群を
近年ハイキングする事になった私として
は、長谷川先生の大昔からの活躍に驚愕
をせざるを得ないんですよ!やはりそう
だったのか?噂には聞いていたけれども
と言う驚きは隠せません!長谷川先生が
賎ケ岳城塞群を1970年後半や1980年代
初頭にもし現地計測しておられなければ
玄蕃尾や賎ケ岳城塞群は未だに藪の中に
眠ったままだと思うんです。

対話者
一つ質問いたします?天正11年1583年
の賎ケ岳合戦で陣城の中に居た人糞尿
は一体どこに捨てていたのでしょうか?
戦陣での糞尿は伝染病の元なんですね?

長谷川

天正9年の関東後北条氏のはまいば城の
掟には、以下の如くの文言があります。
まあこれ誰でも知っている事だと思う。



コメント (1)
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おどろき!城郭質問

2019-11-14 06:33:39 | 城郭
この記事のおおすめ度
五段階で★★★★★星5

おどろき!城郭質問

質問者
長谷川先生に、御質問を数件を致します。

長谷川
何分私は何分無知なので簡単な質問の内容
にして下さい。

質問者
正直言って
1987年の『滋賀県中世城郭分布調査5』
の佐和山城本丸の長谷川先生の図面には
驚きます。この図はアバウト縄張図だと
最初思っていたのですが。。。



質問者
ところが、この様な遺構の中軸ラインを
なす城郭設計のプラニングを観察する事
が可能な事に驚きを覚えるんです!


質問者 ▲
さらにこんなプラニング線を提示される
と、私は驚いてしまうんですよ!私の図
にはこの様な形状が現れて来ないのです。

質問者
おそらくこの図を理解されているのは1名
様だけだと思うんです。そこで、この図は
石田三成時代の佐和山城図なのでしょうか?

長谷川
佐和山城は様々な城主が居城としましたから
この図が何時の時代の城主のものなのか私は
断定は致しません。



▲長谷川
と言いますのは、長く城郭として、使われて
きた事を考え合わせると、上図の様に様々な
時代の古城が1、2、3と過去に存在していた
可能性は否定できません。考古学で言う層位
で通常は古い遺構ほ、土中深く検出されます。



▲長谷川
西アジアの遺跡なども町の壁が①②③の様な
順の、層位で検出される事例がありますから

質問者
佐和山城本丸は一部に試掘トレンチつまりは
前面発掘ではなく、本丸周囲の一部の石垣が
発掘確認されています。ので佐和山城の本丸
には石垣が普請された事は残存石垣も考えて
確実と思われます。

▲質問者
図の1、2、3の様な層位の様な石垣が、発掘
された事例は現実にありますか?例えば土中
石垣がサンドウッチ状態で発掘の事例とは?

▼八幡山城論文2008/6/5長谷川博美より
東北の仙台城も三段階の石垣が発掘されて
います。


▲長谷川
近江八幡市の秀次居館の家臣団屋敷の石垣が
内側に中世寺院、中に戦国期、外に近世と
三段階で発掘されていた、事例があります。

質問者
現在表面観察できる近江八幡山城は京極氏、
京極高次の時代だと私は思います。江戸期
の八幡山城絵図にも小さな天守櫓らしきも
のが描かれていますから。

質問者
本当の羽柴秀次の八幡山城や六角氏綱の次男。
五郎次郎。佐々木左馬頭、「八幡山義昌」の
八幡山古城は鶴翼山の山中深く埋もれている
可能性はありますか?


長谷川
なんとも正確にお答え出来ませんが、
八幡山城論文2008/6/5長谷川博美を
是非拡大して熟読して参考にして下さい。
八幡山城本丸の謎の土中石垣よくよく
監察すると小さな野面積みまたは牛蒡
積みとも思える、中世城郭の石垣とも
本丸面積拡大の為の捨石垣とも二重
石垣とも判断はこの写真では判断は
出来ないと思いますが?

長谷川
しかし写真には人間が写り込んでおり
また人間は露出した、古い石垣の犬走
りに立っている様にも見えます。犬走
当該ブログで何度も取り上げています。
たかが犬走りと軽視しない事を城址を
見学される人には老婆心ながらお勧め
致します。

長谷川
思い切って拡大してみます!
これはスゴイです!
するとこの石垣は羽柴秀次の石垣か?
石垣の大きさから察するに
永禄期の城郭石垣の可能性があるかも?

すると、六角氏綱の次男。
五郎次郎。佐々木左馬頭、
「八幡山義昌」の城の可能性もありか?
大変な歴史的写真と言う事になるのか?


質問者
▼もう少しこの写真を解説して下さい!


長谷川
先ず写真の左側は現在表面に見えている
「新城」の石垣の断面です。最も最上の
石が天端です。この「新城」の石垣内部
の裏込石も石垣の内側に観察できます。
次に写真の近世城郭八幡山城の石垣です。
次に人間が写真に写りっているのも確認
下さい。そして右の石垣面が比較的狭い
ものが「旧城」の石垣かと推測されます。
「旧城」の最上部の天端も確認下さい。
次に再度写真の黒い土を観察して下さい。
これは長年に積もった堆積した胎土です。
借りにこの黒い胎土が40㎝と仮定すると
「旧城」の石垣は400年以上前あるいは
「新城」を築城した時の封土の可能性が
あります。「新城」の石垣と「旧城」は
明らかに異なりますから別の時代の石垣
でしょう。

質問者
この石垣が崩壊する前の近江八幡山城の
略図がありますか?

長谷川
1986年3月に編纂された
『滋賀県中世城郭分布調査報告4』
では昭和50年崩壊前の略図が収録され
ています。



質問者
さてこの「新城」の石垣崩落により出現
した「旧城」石垣を概略的に復元可能で
すか?

長谷川
1986年3月に編纂された
『滋賀県中世城郭分布調査報告4』
に収録された私の八幡山城図には
崩落し現在はコンクリート吹付が
施されている場所を特定していま
すので本当に概ね概略的に「旧城」
の石垣位地は復元できます。



質問者
現在この崩落場所を見学できますか?

長谷川
村雲瑞龍院さまの私邸ですから是を
見る事は出来ません。近年八幡山城
に外周路が出来ましたので外からは
観察が可能かと思います。

質問者
この石垣崩落写真を観察する上で
重要な事とは何でしょうか?

長谷川
やはり基本と言える中世城郭でも
必ず石垣に伴う犬走りを確認する
事にあります。


長谷川
また中世城郭に敷設された佐々木六角の
重臣後藤但馬守の佐生城の図も大切です。
中世の城から如何様に石垣の城へと変遷
して行ったのか?過渡期の城郭遺跡見学
は非常に重要かと、私は思います。


質問者
もう少し「旧石垣」の様子を観察され
現在の石垣の
縄張りとの共通性を御教示下さい!


長谷川
やはり旧城の本丸周囲には犬走りが巡り
私達の全く知らない未知の城が埋まって
いる可能性があり、一種の歴史ロマンが
潜在しているのかと想像したり致します。

質問者
村雲瑞龍院さまが建設される前の資料が
全く無いのでしょうか?

長谷川
過去の、記録資料が紛失されたと聞いて
おります。


長谷川
▼『日本城郭体系』第十一巻には以下の
八幡山城本丸の礎石写真が載っています。
しかし肝心の例の江戸時代の鶴翼山を記
した天守閣の石垣櫓台は写真には収録され
ていません。




コメント (2)
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