東京の佐藤さんが青梅今井城の電撃質問
◆佐藤「匿名/仮称」
多摩に住まいする佐藤と申
し上げます。ビイスタ工法
読取れる城址が一流の城だ
と友人から聞き及びました
我が町の今井城址は一流の
城なでしょうか?ビイスタ
工法は存在るのでしょうか?
◆反論者
ふん!何がビイスタ論じや!
素人の長谷川なんぞが城郭
を解説しおって生意気な奴!
ビイスタ動画絶対見るなよ!
◆対談者
佐藤様は実直素朴を愛される
郷土多摩古城を学ぼうとする
「初心者様」でしょう。私達
余呉城郭研究会は長谷川先生
をはじめ全員が素人の初心者
です。学問は高い所から強要
されるだけが学術では無い事
民衆が民衆の為に学問の道を
切り開いて行くのがビイスタ
工法つまり城郭ビイスタ論!
この動画は最初アップ不許可
の、お蔵入りボッ動画でした
しかし私は民衆の学問切り開
く、この動画のアップ嘆願を
したのです。この動画は必ず
や日本の城郭研究を進捗させ
ると私は強く確信しいます!
学びとは高いところから授け
らるものが高尚だと誤認する
傾向が多数世の中に存在しま
すが「学」「民」より興る!
◆長谷川
私は歴史城郭研究家として
著書=なし
人気=なし
支持=なし
知名=なし
仕事=なし
の5なし人間なのです。
当ブログ読者も20人弱
城郭ビイスタ論などは
視聴数50人予想でした。
◆佐藤「匿名/仮称」
あのう~そんな お話で
はなく、日本城郭研究史
に巨大な足跡を残す大論
と話題になっている城郭
ビイスタ論が武蔵今井城
にも適応するのか長谷川
先生に是非検討願いたい!
◆反論者
だから 何度も言っておろうが!
城郭ビイスタ論などありやせん!
◆一般者
反論者さん貴方は常に学問進捗
を阻害する心なき暴言を吐く人
「学」真心より生じる真心です。
◆長谷川
武蔵今井城見事なる城郭
扇型ビイスタ工法の城址
各曲輪の構成は測量によ
り縄張されたる人口城址
◆佐藤「匿名/仮称」
うわあ!やっぱり多摩の城
流石に一流感激致します!
◆長谷川
別方向からもビイスタ存在
しこれも見事完璧なる縄張
◆長谷川
下図は私が作成しました
城郭ビイスタ一覧表です
武蔵今井城は扇型ビイス
タが重なる重複ビイスタ
で縄張された見事なる城
▼武蔵今井城 重複型ビイスタ工法
▲武蔵杉山城ビイスタ工法
◆向学心
まさかこの様なる城郭の学術
あるを知らず半世紀も期間を
過ごして参りました私は城郭
知識に熟達したる賢者である
と自尊の念ばかり強く初めて
知る城郭ビイスタ論に驚愕!
◆一般者
来年の大河はどうする家康
と言う事ですが徳川幕府の
巨大城郭江戸城にビイスタ
工法は存在するのですか?
◆長谷川
家康の江戸城にもビイスタ
◆長谷川
信長の安土城にもビイスタ
が存在し日本の城の研究進
歩の為に皆様の助力協をば
謹み申し上げる次第です。
以下ウイッキペデイアより引用
今井城(いまいじょう)とは、かつて
東京都青梅市に存在した城である。青梅市指
定史跡。
山根通り沿いに存在する。石垣と竹が綺麗に
残っており、歴史を感じられる。石垣の周り
は宅地化されてしまったため、住宅地である。
城の構造には片倉城や小机城との類似が見られる[2]。
児玉党の今井氏が城主であったと言われている。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に際して
今井氏は反乱側についたものと見られ、乱の後は
附近に三田氏が台頭する中、今井氏は所領を没収
されながらも細々と続いた。後の発掘調査によれ
ば、文明14年(1482年)以降のいずれかの時点で
城の墳墓が埋められ、その上に新しい城が築かれ
た痕跡があり、第三の勢力の進出を示唆している
。この第三の勢力とは北条氏であり、新城築城は
大永4年(1524年)の北条氏綱による江戸城攻略
以降のことと考えられる。その後北条氏が上杉氏
と対峙する中、今井城は北条氏が攻略線上に等間隔
で配置した支城の一つとして機能していたが、天文
20年(1551年)の平井城落城でその機能も無用
となった。今井氏は天正年間までは続いていたとされ
るが、その後は城の存在は忘れられ、江戸時代に編
まれた『新編武蔵風土記稿』にも「堀ノ内」の地名
があること以外は何の言及もない[3]。