城郭 長谷川博美 基本記録

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鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察

2019-04-20 17:39:08 | ユーモア
鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察
今回の私の文章は仮説や推理の様な意味で自由に書いてみます。ときに自由奔放に書いたメモから新たな
比較研究課題や新たな学問的テーマや視点の着想を得られる場合には、研究が進捗するる場合もあります。
要するに、日本史のなかから鹿や角を冠するまたは角を連想する名前の人物を連鎖的に私的に考察します。

鹿深臣(かふかのおみ
584年(敏達13)9月、鹿深臣(かふかのおみ)が百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらします。近江
の甲賀郡を開拓したとされます。

『日本古代と百済』より引用

言うまでもなく『延喜式』の原典をみると伊香郡は伊香胡(いかこのこおり)と読み。伊香具神社は神明大社、伊香具と
書いて(いかこ)と読んでいた事が解ります。ちなみに滋賀県犬上郡の多賀神社は延喜式神名帳に近江国犬上郡 多何神社
二座』とある一般的な式内社の社格となっています。さてさて今回は伊香胡(いかこのこおり)の「かこ」の表音に注目
しましよう。

⑥曽我入鹿
蘇我蝦夷(えみし)の子。蝦夷から大臣(おおおみ)の任を譲られ,権勢は父をもしのいだ。舒明(じょめい)天皇没後,古人
(ふるひと)皇子を即位させようとし,聖徳太子の子山背大兄(やましろのおおえ)王を殺したが,その専横を憎まれ大化
改新の手始めとして645年中大兄(なかのおおえ)皇子らに暗殺された。 乙巳の変 とも言います。入鹿と名前にあるだ
けで鹿には関係ないかもしれません。しかし中大兄皇子 (のちの天智天皇) と中臣鎌子 (のちの藤原鎌足) は,反対派
の豪族たちと蘇我氏討滅の計を進めていたが,三韓朝貢の日,クーデターを断行。入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で殺された。
とありますし何も三韓朝貢の日に入鹿を討伐しなくも良いと思いますが私にはその深意がわかりません。

⑦役 小角(えん の おづぬ /おづの /おつの、舒明天皇6年(634年)伝
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんの
うばそく)といった呼び名でも広く知られている。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる
人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖と
していたり、修行の地としたという伝承があります。

⑧鬼室集斯(きしつしゅうし)
生年:生没年不詳
百済滅亡(660)後に日本に亡命した百済の貴族。天智4(665)年2月,百済の官位と日本の冠位がどのように対応するか
を定めたとき,本来は日本の山位に相当するはずの百済の達率であったが,百済復興戦に尽力した鬼室福信の功によって
小錦下の位を授けられているので,あるいは福信の子か。同8年,余自信ならびに男女七百余人と共に近江国蒲生郡
(滋賀県蒲生郡)に移住させられた。同10年1月にはのちの令制の大学寮の長官に相当する学頭職であったことが
『日本書紀』にみえる。墓は滋賀県日野町の鬼室神社の境内にある。
<参考文献>胡口靖夫「鬼室集斯墓をめぐって」(『日本書紀研究』11号) (清田善樹)

⑨鹿我別(かがわけ])は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。
上毛野君の遠祖で、神功皇后の時に朝鮮へ派遣されたという武将である。応神天皇年間に派遣された「巫別(かんなぎわけ)」
は同一人物とされる。

※巫かんなぎとは?
ふ‐げき【巫覡】
〘名〙 (「ふ」は「巫」の慣用音、「ぶ」は漢音。「ぶげき」とも) 神仏を勧請し霊の口よせをする者。神がかりとなって、
人の未来、吉凶禍福を予言する者。女を巫、男を覡という。巫、かんなぎは?男性シャーマンの事。
※続日本紀‐天平勝宝四年(752)八月庚寅「捉二京師巫覡十七人一、配二于伊豆、隠伎、土左等遠国一

※曽我入鹿とは神掛かりな状態となった、巫かんなぎの事か?皇極天皇3年(644年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これを
それぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、
皇室行事を独断で代行したとされるが? 
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