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鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察(室町戦国江戸編)

2019-04-24 00:02:04 | ユーモア
鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察(室町戦国編)
※①足利義満
 金閣鹿苑寺つまり豪奢な山荘、鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。
建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院
全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院で寺名は開基(創設者)です。
室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿に起因します。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。
足利義満の北山山荘をその死後に寺としたものです。足利義満は明国の永楽帝との間に勘合貿易を
実施して永楽帝から「日本国王印」を授けられ室町殿と呼ばれた日本の歴史に残る(鹿)の人物です。
鹿苑とは鹿のいるところ。曽我入鹿も足利義満も天皇を超えようとした人物でしょうか?

※②織田信忠
 父の織田信長から実質家督を相続した織田家継承を担当する役割を担当した人物です。織田信忠
と(鹿)は全く関係ないように思われますが、大和の信貴山城に松永久秀を攻め滅ぼす戦功を治め
ています。文献資料『信長公記』には鹿の角の兜を着用したとあり、当時の人々は松永が滅んだの
は大仏殿を焼失させて春日大明神の罰が当たったのだと噂したと伝わります。奈良の春日の神様の
使いが鹿と言う事になります。ちなみに春日大社(かすがたいしゃと)は、中臣氏(のちの藤原氏)
の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社です。全国の春日神社の総本社で
武甕槌命タケミカヅチ(の命)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使としています。

春日大社の主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神です。
武甕槌命タケミカヅチ  藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命フツヌシノミココ    同上(下総国香取の神)
天児屋根命アメノコヤネ  藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 ヒメカミ     天児屋根命の妻(同上)

③塚原卜伝 ツカハラボクデン
延徳元年(1489)に常陸国の鹿島郡に、鹿島神宮に使える卜部(うらべ)吉川覚賢(あきかた)の息子と
して生まれる。兄弟に、双子の兄である常賢(つねかた)が居る。卜伝の初名は朝孝(ともたか)という。
卜伝の祖父・呼常は鹿島七流の使い手として知られ、父もまた鹿島の剣の使い手であり、鹿島神宮の
神主や近隣の者など多くの門人を擁していた。塚原卜伝の剣術は鹿島神道流とも呼ばれ経津主命フツヌシ
(下総国香取の神)の神威を背景にした剣術と思わる。
※経津主命フツヌシノミココとは?
経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切
られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説のほか、「フツ」は「フツフツ」と沸き上がり
「フルイ起す」フツであるとする説や[。神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま
の剣を神格化したとする説がある。
※鹿卜とは?
日本古代の占法の一つ。「太占」(太兆とも書く)「フトマニ」ともいう。鹿の肩骨を波々迦「ハハカ」
(バラ科サクラ属落葉高木の上不見桜)で焼いて、できた裂け目で吉凶を占う法。中国から亀卜
(亀甲を使用)が伝わってから衰微したが。今でも年中行事として行う神社がある。→ 占い

※塚原卜伝考
 塚原卜伝なる剣豪の名前は中臣氏の奉斎する経津主命フツヌシノミコトや「フツ」は刀剣で物が断ち切
られる様を表し、刀剣の威力を神格化したイメージと重なる。また占いの結果を伝える「卜部」うらべの
イメージを感じさせる名前が塚原卜伝ではないだろうか?

※中臣鎌足の曽我入鹿退治の場面を回想する。
中臣鎌足は大化の改新で曽我の入鹿を一刀両断に切る図があるがこれも中臣氏の霊力「フツノみたま」を
連想させる内容である。

※再度近江伊香郡伊香具を回想する。
『近江国風土記』(おうみのくにふどき)は、近江国の風土記。逸文、内容は『帝王編年記』などの資料による
しかないが、伊香刀美(イカトミ)と刀を名前に使っている事に留意したい。「近江国風土記逸文」の伊香津臣命
烏賊津使主(いかつおみ)、伊香刀美・雷大臣命とも書く。





④豊臣秀次
秀吉の後継者となり豊臣家を継承して関白となるも高野山で自害した。秀次所用の兜と伝えられるものは
鹿角のついており本来は国家の政をとるべ後継者と目されていたのが豊臣秀次であろう。

⑤山中鹿之助
出雲の尼子氏を再興せんとした武将であるが彼が実際に鹿角の兜を着用していたかは不明である。

⑥真田幸村「源次郎信繁」
大坂合戦図屏風には鹿角を被った真田の絵があるが果たして本当に彼が鹿角兜を着用したかは不明である。

⑦本田平八郎忠勝
徳川家康の家臣で鹿角を付けた兜像や甲冑も残る。先祖はやはり
本多氏は、藤原北家太政大臣兼通の子、左大臣顕光十一代の後胤 右馬允助秀が 豊後国本多郷に住し 
本多を称したことに始まるとも言われる。

※鹿鳴館ろくめいかん
鹿鳴館は、明治政府が建てた外国からの賓客や、外交官を接待するために使われた社交場です。
明治になり、世の中が急激に西欧化していることを象徴している存在でもありました。鹿鳴館を
中心にして行われた外交政策を『鹿鳴館外交』とも呼んでいます。現在の迎賓館の役割です。

※平安時代の鴻臚館 こうろかん
平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院
(石川県羽咋郡志賀町か)や松原客館、越前角鹿(福井県敦賀市)に滞在して都からの使者
を迎え、使者に伴われて都に上り、鴻臚館に入った

やまが‐そこう【山鹿素行】
江戸前期の儒者、兵学者。古学の開祖。名は高興、字は子敬、通称甚五左衛門。会津若松の人。
儒学を林羅山に、兵学を小幡景憲・北条氏長に学び、「兵法神武雄備集」で名声を高め、大名・
旗本に兵学の弟子が多かった。赤穂藩江戸屋敷に仕えて朱子学を奉じたが、後、古学を提唱し、
朱子学を批判した「聖教要録」によって赤穂に配流された。延宝三年(一六七五)に赦免され、
江戸で松浦藩の援助を受けた。山鹿流軍学の始祖。著「武教要録」「武教全書」「中朝事実」
「原源発揮」「山鹿語類」など。元和八~貞享二年(一六二二‐八五)
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