近江国坂田郡大字万願寺 1
賀茂神社の由緒書
1408年に室町時代の守護大名であった
京極高光によって建立された。以後、
彦根藩主の井伊家より信仰も厚かった。
◆長谷川
米原市の旧山東地域、万願寺
を訪問した『角川地名辞典』
によると以下の様な記載ある
◆長谷川
京極高数をウイッキペデイア
から引用すると。高い身分だ。
授元年/永和元年(1375年)、京極高詮の嫡男として誕生した。
応永8年(1401年)に父が亡くなり、出雲・隠岐・飛騨3か国の守護を継いだ。応永12年(1405年)に出雲大社の造営を幕府から命じられ、出雲の豪族である松田掃部入道に、大社の宮司である出雲国造と相談し完了させる様に命じている。また応永年間には近江国の日撫神社に伽藍を建立している。応永16年(1409年)に侍所頭人を務め、応永18年(1411年)に飛騨国司姉小路尹綱が幕府に背いた飛騨の乱が起きると、弟・高数を総大将として兵を出し制圧している。
応永20年(1413年)、死去。享年39。嫡男の持高が家督を継いだ。
◆長谷川
万願寺区をあるくと武家の墓石
宝篋印塔の台座も残りその年号
が天文年間である事にも驚いた。
◆長谷川
徳永眞一郎氏著
『近江源氏の系譜』には
京極高数の系譜を記して
いる。京極加州家と呼ば
れる系譜と考えられる。
これは上平城古図に加州
屋敷記載があり浅井備前
饗応記に京極加賀守が見
える。
◆長谷川
万願寺集落は小さいがその山林
は広大にして今後中世城郭遺跡
を発見する確率が高いと思われ
る。先ず発見する前に万願寺の
小字名を『山東町史』より検討
をしたい。概して赤ワクによる
寺院関連地名が多い傾向にある。
◆対談者
万願寺の小字が文献に登場
していますか?滝土とは?
◆長谷川
滝戸「たきど」言う小字が
天正11年2月13日付けで
郷新右衛門尉宛てに堀秀政
書簡から出されています。
山屋敷とは山中の武家屋敷
つまり城郭仕様の城館の事
◆長谷川
さて私は某氏の紹介により
万願寺の中世城郭を射程圏
内に補えたしかし油断禁物
です社会に迷惑かける事を
未然に防いで公序良俗に鑑
みた有意義な学習会開きた
い。城址探訪組織には残念
ながら派閥意識存在ローカ
リズム意識が存在し私の様
な弱小会派は時に被害牽制
や言葉の暴力を受ける事も
存在する素朴な学問的見地
からは城址見学を許さない
社会情勢も当然存在する事
確かで素朴に学習し見学し
知らない間に巨大な城址を
見学認識する事は時に困難
に遭遇する事さえもある事。
◆助言者
当り前の事ですが行政との
コンセンサス「合意」地元
住民様のコンセンサスそし
地域外の善良な学習者様の
総合的合意が必要ですね。
◆長谷川
解っております。場所により
行政、民間、地主、3者様の
合意調停すべて調って学習会
見学会が有意義に進めらます
が地元に城郭探訪組織等存在
する場合には人間の集団心理
として常に同調圧力派閥妨害
心理が働く場合があり注意が
必要です。それは著書多数を
有する著名な学府の先生が某
所の見学学習会を実施計画を
しても既に地元に既存組織が
存在する場所は地元リダー様
の趣旨や採択や決断の結果で
全く草木の中に城址が埋もれ
忘れられる事は常に存在致す
事。それが現代社会の現実。
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