浜松城天守曲輪のビイスタ工法
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論はおそらく戦前
戦後の城郭研究論中でも傑出した理論です!
丸岡城にも「ビイスタ工法」が潜在してます。
なんと言ってもビイスタ線の中軸線センター
インが天守を突き抜けて計画されている事!
◆長谷川
江戸期の享保18年までは放射線城測量方法が
日本国に伝承されていたのですが現代城郭論
としは語られる事がなくなった消滅文化また
は日本の土木建築史に潜む、潜在文化です。
◆長谷川
日本語を深く、あらためて再考致しましょう。
「みため」は見た目=外観を意味する日本語
「かなめ」は集約点=放射線が一点に集まる。
「ながめ」は遠くを長い目で見晴らす事です。
「ななめ」は斜行線の事を言う日本語ですね。
旧来の和語の先祖「ながめ」は本来「長目」
つまり遠い所を目測する見晴を意味する言葉
で「ながめ」を漢字転換する時に眺めの文字
を用いて日本に存在した「見た目」の文化論
を考察する事が大切です。日本の庭園を鑑賞
する場合は「要石」「かなめいし」が大切!
◆長谷川
安土城の石垣墨書に惟住内九
と言う文字が残っていますが
これは放射線測量をした
惟住=丹羽長秀
内 =内衆=内部担当者
九 =九番目の測量線の意味
◆長谷川
なががめが長目か!?江戸の測量方法図では遠距離
の測量視点が必要であり存在したと言う「長目」!
▼竹生島宝厳寺の堂塔伽藍配置
▼竹生島宝厳寺のビイスタ工法「見放ち工法」
◆対談者
いやいや琵琶湖の竹生嶋宝厳寺の極楽橋や堂宇
配置構造にビイスタ工法が駆使されている事を
御教示されて私は衝撃を受けています。私達が
気が付かない視点なんですよ!普段土木建造物
何故?力強い迫力をともなって我々城址を見学
する者を圧倒するのか?戦国時代の変わり兜も
異形を放ち変形した異形の形状は何故均整の取
れた形状とは異なる異常な迫力を放つのかと!?
あの織田信長の安土城天守の異形の天主台石垣
の異様な形状はただ単に自然地形に石垣補強を
しただけの未発達な縄張りと戦前戦後解釈され
て来た訳ですが、長谷川先生の安土城ビイスタ
論の動画を何度、見て衝撃を禁じ得ないのです。
これってスゴイ!日本史の新規観察点の大発見!
と言うか?日本の歴史学者が見落としていた事!
これを発見再考するのは民主主義の善なる民衆!
▼米原学びステーションでの安土城ビイスタ工法
◆みんな
これはスゴイ!まさに青天のへきれき衝撃!
▼安土城 天主台のビイスタ工法
たしかに元の地形は自然なのですが当時の権力
者や土木建築者は自然地形を如何に見栄え良く
強烈な異形の形や光背効果を含めて家臣領民
そして隣国大名間に己の拠点城郭を城示すか?
力強く物々しい迫力こそ戦国城郭の見せ方!
▼丹波 亀岡城のビイスタ工法
◆対談者
長谷川先生と浜松城を見学した際にも浜松城
の天守曲輪の石垣の歪「いびつ」異常な迫力
を感じました。まさか?浜松城天守曲輪にも
ビイスタ工法を密かに採用して築城されてる
可能性はないのでしょうか?私達、日本人の
思考方法は前例の踏襲に固執する模倣型思考
戦前戦後の城郭研究ではビイスタ工法の存在
を顧みない!否定の学問!否定する事により
学問の保守が図られ出版物が販売されて来た
と最近感じます。さあ!あの歪「いびつ」な
浜松城天守曲輪にビイスタ工法があるのか?
◆長谷川
困りましたね。浜松城天守曲輪にはビイスタ
構造が絶対ないと否定論を述べる事は子供で
も「イヤ」と簡単に否定論を口先で否定可能
しかしビイスタ工法の存在を発見検証する事
の方が何百倍も難しいと私は考えています。
しかし貴方は浜松城天守曲輪のビイスタ工法
はどうなんだと質問をされたら私は積極的に
検討を試みる事に致します。検討しましょう。
先ず
A赤線の起点から放射状に縄張
B薄緑色起点から放射状に縄張
C青色の起点から放射状に縄張
D赤線の起点から放射状に縄張
以上浜松城天守曲輪はビイスタ工法で縄張された
可能性と天守台が何故?直角を用いた正方形でな
く歪いびつな天守台なのかを検討いたしましょう。
◆一般者
すごいですね!?何故?浜松城の天守台が正方形
でないのか?即刻素人でも解りました納得です!
◆城郭研究者
そんなの絶対認めんよ!ふんそんな空論などを?
◆一般者
何処かの国の独裁者じやなくて素晴らしい事には
民衆とは率直に純粋に耳傾けるものよ!研究とは
権力や独裁や高慢な精神を行使しようとする人達
の特許や独占じやない訳でしょう?みんなの学問!
▼武田徳川の諏訪原城のビイスタ工法
岡崎城にはビイスタ工法があるのか?
◆質問者
岡崎城にもビイスタ工法が存在しますか検討を!
◆長谷川
いやはや更に難題の質問をされると私は困る!
◆質問者
保守的で消極的な事で日本国の城郭ビイスタ
論は発展進捗しませんでした。長谷川先生の
ような彗星の如く登場した謎の城郭研究家が
是を鮮やかに解明する事を否定されたら学問
本当の進歩はないのですよ!城郭の深淵さえ
解らなくなってしまう!幕末の吉田松陰さえ
日本の城郭には規矩そなわりと城郭幾何学を
佐久間象山のへの書簡で述べてます。規矩は
現代日本語に直すと「幾何学」の事です!
日本男児が日本の城郭の幾何学を解明出来て
いない事自体が日本国の保守性や閉鎖性を
また日本国民の頭脳の硬化を感じさせます。
長谷川先生ならば岡崎城の城郭ビイスタを
解明できるだけの研究家として資質がある!
◆長谷川
そんなもの絶対ないと考えてしまうと人類
とは脳内に強烈な否定の論理や概念が固定
されてしまいます。岡崎城にも三角デルタ
の理想的根本形状を形成する「赤線」また
「青線」の縄張設計基盤を読み取る事可能!
◆みんな
すげえ!やはり長谷川先生はだれも気付か
ない特殊な能力を持っておられる事に驚く!
ウイッキペデイアより引用
概要[編集]
浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、
築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏
支配下の飯尾氏が城主を務めていた。この頃の曳馬
城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記さ
れた部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたる。
浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町
の形成を進めた。徳川家康在城時における浜松城の
具体像は不明確であるが、古文書や出土遺物から現在
の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺える
。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城
であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を
通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から
豊臣色は失われる。江戸時代の浜松城主は九家二十二代
に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変
・改修が進められた。堀尾氏在城期に創建された天守
は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わ
る。以降、天守門が浜松城の最高所に位置する建造物と
いえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であった
ことが窺える[2]
そういえば長谷川先生の図面には鳥観図が多い。