城郭 長谷川博美 基本記録

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弥生の山城を考察する。田和山遺跡。

2024-09-14 00:37:53 | 古代日本 ビイスタ工法

弥生の山城を考察する。田和山遺跡。

 

◆対談者

弥生の出雲の山城はあります

か?

 

◆長谷川

田和山遺跡がそれに該当しま

す。山頂部は狭小ながら建物

は正方形の柱穴でなくビイスタ

放射状に配置しており矩規術を

既に山城の縄張に使用した貴重

な遺跡といえましよう。また

遺構の中に蔀塀や蔀段や千鳥の

技巧と呼ばれる軍学要素がある

事や半島の硯が発見されている

事なども考え併せたい遺構です。

◆対談者
城郭ビイスタって既に弥生の
出雲の倭国にも使われていた
事には驚きます。長谷川先生
の指摘無ければ解りませんで
した。スゴイ観察視点です!
◆質問者
三重の環濠にはビイスタの
測量が確認出来ますか?
 
◆長谷川
三重の楕円円弧環濠は円コンパス
を使った同心円状の縄張を3カ所
使っています。放射状ビイスタは
4箇所ほど存在するようです。巧み
な弥生幾何学技術測量を用いた城
と言えると私は思います。倭国の
大乱の時の詰め城と思われます。

田和山遺跡(たわやまいせき)は、島根県松江市にある

弥生時代遺跡。国の史跡に指定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要

1997年から2000年にかけて、松江市立病院の建設に伴っ

て発掘調査された結果、丘陵尾根に掘られた弥生時代

前期末~中期後半の三重の環濠が検出された。弥生時代の

環濠集落は、通常、環濠内部に住居跡などが配置されるが、

田和山遺跡の狭小な環濠内部は建物跡が2棟検出されたのみで、

それ以外の建物跡は環濠の周辺から検出された。そのため、

なぜこれだけ膨大な労働力を投下して環濠を掘削したのか、

環濠内部には何があったのかが謎とされ、遺跡の性格・

位置付けが問題とされた。環濠内からは、つぶて石や石鏃

出土しており、弥生時代の戦争を物語る山城ではないかという説、

祭祀の拠点であったという説、環濠内部に銅鐸などの青銅祭器

が保管してあったのではといった想像も提唱された。そのほか、

弥生時代の遺跡では極めて珍しくの出土も認められている

(他例は福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で知られる)[1]。なお、

この硯には黒い線があり、で文字が書かれた可能性があると

学会で発表され、もし本当に文字であれば日本最古の文字が

200~300年さかのぼるとされてきたが、化学組成の分析などを

経て墨ではなく市販の油性ペンと成分が一致し、ラベルなどの

文字が転写した可能性があると結論付けられた[2]

2001年、国の史跡に指定。現在は、市立病院に隣接する遺跡公園

として整備され、地元のボランティアグループによって活用が

はかられている。2022年(令和4年)3月15日、既指定の史跡

「田和山遺跡」に神後田遺跡が追加指定され、指定名称が

「田和山・神後田遺跡」に変更された[3]

遺跡の山頂部からは、宍道湖や松江市街、茶臼山、大山などが

一望でき、大変眺望が良いロケーションにある。

標高約45メートルの山頂部は、東西10メートル・南北約30メートル

の狭い平坦地がある。この山頂部には9本柱の建物跡と5本柱の

建物跡がある。平坦地の外周には柵の跡とおぼしき柱穴が並ぶ。

これらを囲い込むように丘陵斜面に三重の大きな溝が掘

り込まれていて、その底には約3000個のつぶて石が残されている。[4]

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