城郭 長谷川博美 基本記録

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安土城 ビイスタ(見栄え)論の意義

2024-08-26 07:09:56 | 滋賀の城 ビイスタ工法

安土城 ビイスタ(見栄え)論の意義

◆質問者

ビイスタを解明する意義は?

 

◆長谷川

放射状測量痕跡を読み取る

事で当時の城を見る視点を

読取る事が可能です。

 

◆質問者

六角の観音寺城城下町石寺と

安土城の城下町は設計的には

類似していますか?

◆長谷川

観音寺城の城下は石寺とよばれる

城下集落ですが上図の如く中山道

に面して多数の放射腺ビイスタが

読み取れます。佐々木六角は石寺

に楽市を開設して城下経営の経済

基盤を計画経営していました信長

は新たに中山道を通る商人を規制

してまで安土居その城下を新たに

形成致しました。安土城は下街道

と呼ばれた未整備の街道でしたが

織田信長はこれを改修し下街道を

京畿への道また佐和山城岐阜城へ

のロジステックな物流経路として

経営していきます。安土から美濃

に戻るには山崎に御茶屋を建てて

休憩所としています。近江山崎山

は宇曽が麓を流れ当時の佐和山城

は芹川が松原内湖に流れ込む水陸

の交通の要所であった事を留意を

すべきです。安土城は常楽寺港や

豊浦港とも密接にリンクした信長

の近江支配の新規城郭であつた事

は述べるまでもありません。従っ

て下街道側に安土城の武家屋敷群

の放射状測量痕跡ビイスタ工法の

測量の痕を見出す事は重要な事!

◆対談者

織田信長の安土城の東大手方面の

視座の中心が下街道にまで及んで

いる事が最重要だと思ってます。

下街道安土城下の楽市に集められ

た商人達は信長の安土城天主閣の

威容を全国の人々のもとへと自然

伝達しますから織田信長天下布武

のスロガーンやプロパガンダとは

自然と日本全国にその風聞が届く

事になると思われます。宣伝塔ね。

◆長谷川

未だ全国平定を成し遂げていない

段階の安土城に東北の伊達輝宗等

が信長に献上品を次々と献上して

くる様は『信長公記』に詳らかで

す。安土城の宣伝塔の役目は既に

効果を奏していた事になる訳です。

 

◆質問者

安土城を見物出来るヒエラルヒー

階層とはどの様な社会階層ですか?

 

◆長谷川

天正10年正月には安土城を一般

公開していますが下街道を旅す

る人、城下に住む武家、信長に

近く使える側近武士の安土城の

みえ方は其々違っていた事です。

 

◆長谷川   一段階

下街道を行く旅人にはこの距離

や角度から安土城の見栄え考慮

している。これは長目「眺め」

だと思います。長距離測量法。

◆長谷川 ニ段階

次のビイスタが伝秀吉邸近辺

からのビイスタ眺望ですよね

これは大手門内に入城出来た

階層が見た安土城のビイスタ。

◆長谷川 第三段階

信長の神体を祀った総見寺

や本城部も含めたビイスタ

 

◆長谷川 第4段階

安土城を身近に見る人々

の為の設計測量ビイスタ

 

◆質問者

長谷川先生と個人的に城に

行きますと笑顔や冗談全く

ないと思うのですが?

 

◆長谷川

私は城の縄張や設計について

城址に行くと深く悩んでます。

 

◆対談者

それが本物の研究家の姿勢ね!

城は本来行楽や観光の場では

なかった後世になり観光地や

憩いの場所としての立ち位置

を与えられた現代価値観です。

 

◆長谷川

城に行く人は普通5W1H

で物事を処理しています。

私の場合さこにDデザイン

Pプラニング「縄張設計」

が入力されているから城

に行くと急に顔面蒼白に

なるんですよ。城が恐い。

 

 

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