城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

天正安土城と天正大坂城の幾何学城郭研究論

2023-10-25 20:39:37 | 近畿の城 ビイスタ工法

天正安土城と天正大坂城の幾何学城郭研究論

 

◆対談者

田信長の政権

臣秀吉の政権
両者の政治権力者の時代を

織豊期と近年は歴史表現し

ています。

 

◆意見者

それなら

信長=安土城

秀吉=大坂城

の両城を比較研究すべきです。

 

◆長谷川

それでは私は幾何学測量の見地

から見た両城を比較研究します。

先ず安土城天主台の石蔵内部の

設計は楼閣の礎石芯礎を中心と

した中央を測量起点縄張をして

ます。これを私は中央ビイスタ

と呼称しています。▼安土天主

◆質問者

それならば天正大坂城にも中央

から測量した中央ビスタが存在

するのですか?

 

◆長谷川

羽柴秀吉は天正11年1583年柴田

勝家に勝利して本格的に天正期

大坂城を築城始めます当時大坂

城は中井家の大坂城図を用いて

凡そ秀吉期の大坂城本丸中央部

から放射腺状測量縄張した状況

を伺い知る事が可能です。安土

城天主台の中央ビイスタに対し

天正大坂城本丸中央ビイスタと

私は呼称致します。▼大坂城

◆対談者

織豊の両権力者の両城に縄張

設計の共通点がある事が達観

◆一般様

こんな事初めて聞く城郭理論

です長谷川先生は何処の学府

でこれらの教鞭を執られてい

ますか?

◆長谷川

今米原学びあいステーシヨン様

唯一城郭講座を担当させて頂

ております講座御参加の皆様

には謹んで御礼を申しげます。

 

◆質問者

安土城の他に織豊城郭で城郭

中央に測量縄張起点を持っ城

は何城でしょうか?

 

◆長谷川

豊臣政権と提携関係にあった

宇喜多氏の備前岡山城も中央

ビイスタが読み取れ、従って

岡山城天守はビススタの法則

に従って正方形の天守閣では

ないと思われます。▼岡山城

 

◆専門的質問者

安土城の天主地下蔵は歪な形状

です。どの様に設計縄張された

のか先生の独自の分析をお願い

致します。

 

◆長谷川

13456の測量起点を用いて

天主地下蔵を設計している

と私は考えています▼安土

 

◆専門的質問者

上記解説は一般の方には理解し難い

と思われますがウイッキペデイアを

参照しますと安土城の普請奉行担当

は丹羽長秀、縄張担当は羽柴秀吉と

ありますが?

 

◆長谷川

確実に秀吉が安土城の縄張を担当

したか良質の文献にはみえません

しかし天正大坂城の本丸には6箇所

の放射状ビイスタが読み取れます。
▼天正大坂城本丸複合ビイスタ

▼長谷川

安土城の前身的織豊城郭

美濃小里城天守の幾何学

◆長谷川

民俗学的な発想で脱線しますが

「図星」と言う言葉の根源を考

ます。星形に設計すると言う言

かと考えますズバリと言う言葉

も「図張」語源かと推測します。

調子に乗る事を図に乗るとか?

 

◆質問者

秀吉とは一種土木技術の天才的

な才能を持った人に感じますが

小谷城攻めの際の秀吉の陣城の

形状とは如何なるものですか?

 

◆長谷川

伝 木下藤吉郎陣跡もビイスタ

工法の一種と私は考えています。

◆対談者

おもしろいですね!突飛な着想

と一蹴しない長谷川先生の分析

力には傾聴の価値があると思う

しかし天正織田信長の安土城は

長谷川先生の説は扇型ビイスタ

 

◆長谷川

扇型ビイスタは城郭縄張の王道

かもしれません。秀吉は太閤と

なり肥前名護屋城を築城する事

になり文禄慶長の役を引き起こ

していますが織豊城郭の王道の

縄張が扇型ビイスタと仮定する

なら秀吉の名護屋城も典型的な

扇形ビイスタと言えるのです。

▼太閤秀吉 肥前名護屋城のV

▼太閤秀吉晩年の城

  木幡山伏見城 扇型ビイスタ工法

◆質問者

非常に興味ある論考です。さて

天正10年本能寺の変の後に安土

城天主は火災で炎上消失します

織田家の遺族はその後安土御殿

と呼ばれる御殿で生活保護され

とされます。安土御殿とは天下

の織田家の遺族の為の御殿かと

考えられますえられます。それ

ならば必ず安土御殿には縄張の

王道と言えるビイスタ構造自体

が存在したと私推理致します?

 

◆長谷川

難しい問題ではありますが伝秀吉

邸宅と伝利家邸を総合した屋敷群

が扇型ビイスタを駆使した織田型

の扇型ビイスタであると言えます

城址形状や礎石の巨大さから推定

すると秀吉利家の安土の邸宅群が

安土御殿として威容や風格や体裁

を備えて安土御殿として機能した

可能性を私は考察したいと思います。

◆一般者

素晴らしい論説ではありませんか!

長谷川先生の米原講座一聴の価値

は十二分にあると私達は思います。

 

◆長浜住民様

米原では長浜学もしておられるの

ですか?もしも?城郭ビイスタ論

の研究が進捗して行くならば秀吉

の初期居城の長浜城も扇型形状の

ビイスタ工法を駆使してると思い

ますが?

 

◆長谷川

素晴らしい指摘や質問だと思いま

ます。人間は考える知的生命体で

す米原でも長浜城本丸ビイスタ

解析や解説も時々行っています。

そもそも何故?長浜城の古図が

この様な形状なのか疑問を常に

感じる感性こそが学問を発達さ

せる根本要因になってる事です。

◆長浜住民様

素晴らしい応用学問の展開です!

比較研究論が有効に働いている!

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山形 鶴ケ岡城 ビイスタの輝き | トップ | 塩津 夏祭り  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

近畿の城 ビイスタ工法」カテゴリの最新記事