山東町の赤尾の殿さん
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赤尾氏は小谷城赤尾屋敷や伊香郡赤尾
城に割拠した武将で、長浜市赤尾には
平地城館や山上の山城の▼土塁も残る。
赤尾氏
『続山東町昔ばなし』には以下の
伝説が記録されている。名族赤尾氏
は一級文献資料『信長公記』に登場
する名族である。この本にも赤尾氏
▼が登場している。
さて一般に坂田郡長岡郷の赤尾氏は
湖北で聞きなれない事であるが私は
この赤尾氏追善供養墓碑と思われる
ものを現地に現地見学する事なった。
『信長公記』天正元年の記録
八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、
京極つぶらへ取り上り、浅井下野・
同備前父子の間を取り切り、先ず、
下野が居城を乗つ取り候。爰にて、
浅井福寿庵、腹を仕り侯。さる程に、
年来目を懸げられ候鶴松大夫と申し
侯て、舞をよく仕り侯者にて侯。
下野を介錯し、さて其の後、鶴松
大夫も追腹仕り、名与是非なき次第
なり。羽柴筑前守、下野が頸を取り、
虎後前山へ罷り上り、御目に懸けら
れ侯。翌日、又、信長、京極つぶら
へ御あがり侯て、浅井備前・赤生美作
生害させ、浅井父子の頸京都へ上せ
、是れ又、獄門に懸けさせられ、又、
浅井備前が十歳の嫡男御座侯を、尋ね
出だし、関ケ原と云ふ所に張付に懸け
させられ、年来の御無念を散ぜられ訖
んぬ。爰にて、江北浅井が跡一職進退
に、羽柴筑前守秀吉へ、御朱印を以て
下され、悉く面目の至なり。
の貴重な、いいねに!
に感謝を申し上げます。
なぜなら私の古城発見
は伝承から出発して現地
遺跡を測量するしその城
に行く事ですから最も私に
とり基本的行動と言えます。