驚愕 城郭ビイスタ論 上文字クリック
北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック
峠の歴史民俗学 権現坂の考察
急報
令和3年4月17日ウッデイパル余呉権現坂見学!
は令和3年5月29日に延期決定!
ウッデイパル予約 ☎0749-86-4145
本邦初公開!勝山城主 柴田勝政「勝安」陣所見学会
◆延期理由
①柴田勝政の陣があまりにも長大な為に
別日を改めて5月29日に見学を延期!
◆延期理由
①柴田勝政の陣があまりにも長大な為に
別日を改めて5月29日に見学を延期!
②素晴しい遺跡名所新発見城郭は慎重に
晴天のもで確実に遺跡見学したい!
③延期し5月29日に実施する事を決定!
ウッデイパル余呉城郭フオーラム案内
屋内講演は無し、風通良い野外見学会
余呉の湖「うみ」は晴天ならば碧玉色
◆長谷川
この長浜余呉町文室と同西浅井町祝山間
にある権現坂には様々な民俗学的また歴
史的記録天正11年1583年の賤ケ岳合戦』
に関する諸記録に残されてこの峠を訪れ
る人には興味尽きない深い場所とされる。
▼柴田勝政陣跡より琵琶湖の荘厳な景観
先ず約1200年前の延喜式神名帳に記録された
近江国伊香郡の足前神社候補地として、往昔
より取り上げられて延喜式神名帳には足前と
記載され「アサキノカミノヤシロ」と記され
る。ヤシロとは社の文字を当てる。元来は道
の神を峠の神を祀る手向けの民俗が存在した
事が偲ばれ道の民俗学も見学日に堪能したい。
この峠は高島マキノの万字峠。西浅井岩熊の
岩熊峠そして権現坂、樽見峠の三砦を結ぶ為
西近江路と北近江を湖西と湖北を結節する重
要な役目の三峠と言う事は歴史地理上におい
再評価されるべき重要な峠道た。権現坂とは
余呉と塩津を結ぶ最短距離の間道であり。江
戸期に足海「たるみ」樽見「たるみ」とも表
記された峠の蔵王権現は現在余呉町文室へと
勧請されて今は北野神社へと合祀されている。
さて山中ながら交通の要衝の地でこの地とは
壬申の乱の湖北湖西戦線の通過点ともなった
と考えられ北近江の要港「塩津港」が山麓に
も存在する。
万葉歌人として著名な笠朝臣金村の詩が
ある金村は、おそらく天平六年(七三四)
ごろ、越前国守となった石上朝臣乙麻呂
(『続日本紀』などに越前守補任の記事は
みえない)に従って越前に来たものと考え
られる。
(以下、引用は『万葉集大成』本文篇)より
塩津山うち越え行けばわが乗れる
馬ぞつまづく家恋ふらしも
この一首は金村が近江の塩津山で作った歌
である。塩津山がどこを指すか正確には明
らかでないが、近江塩津から角鹿(敦賀)
へ向かう道の途中であることは確かだろう。
★
明智十兵衛尉光秀の余呉湖余呉庄への侵入
文献『信長公記』元亀元年1570年条より
海上は打下(うちおろし)の林与次左衛門・
明智十兵衛・堅田の猪飼野甚介・山岡玉林・
馬場孫次郎・居初又二郎仰付けられ、囲舟を拵へ
海津浦・塩津浦・与語の入海、江北の
敵地焼払ひ、竹生嶋へ舟を寄せ、火屋・大筒・
鉄砲を以て攻められ候。」とある
与語の入海「よごのいりうみ」とは余呉湖
の事で余呉侵攻に最も利便な琵琶湖側の道
とは飯之浦切通権現坂が最も地理的に有力。
つまり明智十兵衛尉が余呉に来ていた事だ。
賤ケ岳合戦に登場する『権現坂』蔵王の杜。
天正11年1583年の賤ケ岳の戦いにおいて
佐久間玄蕃盛政は叔父柴田勝家と分断され
おまけに前田利家は茂山陣から佐久間軍の
後ろ権現坂を裏切って佐久間勢は柴田勝政
と合流する事が出来ず無念の賤ケ岳崩れを
起こしてさしもの北国一の猛将鬼玄蕃こと
佐久間氏も敗北!歴史回廊現場そのものが
権現坂でもある。姑息卑怯!茂山陣からは
権現坂を裏切って越前に逃亡して秀吉から
加賀百万石を拝領した前田利家の退却路▼
質問1 賤ケ岳合戦で柴田方の佐久間玄蕃盛政
は行市山から塩津谷に下山しているか?
解答1 以下の資料は全く塩津谷に下山せずに
行市山の峰筋を権現坂へと通過してる。塩津
谷迂回説は根拠のなき旧日本陸軍が編纂した
『日本戦史』柳ケ瀬の役による根拠なき捏造。
『賤嶽戦記』には
「今晩夜中に此尾つつきより たるみ峠へ掛り」
※たるみ峠=足海峠の事=権現坂とある。
「天正十一年四月一九日之終夜支度して。
廿日の明丑刻に、己か陣所行市山を打立る
道筋へはかからす。峯通を忍て、たるみと
云所へ下り。余吾の海辺へおしまわす。
道筋=塩津街道北国街道 かからず=攻めかからず=通過しない
※たるみは樽見とも書く▼余呉のうみ 水上勉の小説 湖の琴
◆京極高次の関ヶ原合戦の去就
天下分け目の関ヶ原合戦でホタル大名と
揶揄された京極高次も権現坂を超えて
琵琶湖水運を利用し大津城に籠城した。
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