城郭 長谷川博美 基本記録

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電撃! 天王山城 玄蕃尾城 賤ケ岳城の謎を解く!

2021-05-29 01:28:08 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック
長谷川博美の城鳥瞰図上クリック

電撃! 天王山城 玄蕃尾城 賤ケ岳城の謎を解く!

◆三条戻橋「匿名」
こんにちは梅雨に入りました。長谷川先生
は日本で一番無名だか、日本で一番スゴイ
「超実力派」の城郭縄張研究の先生ですよ
と私は京都山科盆地の志賀直也旧邸の近く
の御所の内町でその風聞を聞き及びました。

◆みんな
そんなの城郭解説がおそらく日本で一番深い!
だから滋賀県外から県外出身者の本格派の人が
長谷川先生の現地城郭解説に夢中になるのです。
先生の解説は図書館にも教科書にも全く載って
ないが現場の現実論で地道な城郭研究論の根幹。

◆感情的反論者
全く解せん長谷川さんなど城郭の異端者です!

◆みんな
さあ~異端はどっちかな?数の論理と知名度
勝負の人よりも私達は冷静な研究と論説評価!

◆京都市民
長谷川先生という城郭研究家に一度お会いを
致しました。解説も図面がものスゴイ人だと!
愛知、岐阜で長谷川先生は著名な先生ですが
滋賀でも全く無名なんて信じられない事です。
今度の5月29日に賤ケ岳城の見学会をされる
と聞いて仲間とこれは絶対参加だと言う事に
なり、この人は眠れる城郭研究の巨人だと気
付いた訳なんです!一度見て、この人の図面
解説ただものではないぞと腰抜かしました。

◆長谷川
今回の投稿は長いのですが城郭遺跡に歴史や
城郭に関心のある人は最後まで必ず読む事を
是非お勧め致します貴方の城郭スキルアップ
に確実に進化、深化すると私は確信してます。
今回の投稿要点はズバリ羽柴秀吉や丹羽長秀
の台形矢倉台縄張の理論を解説して行きます。
投稿の最期の最期に一大結論が飛び出します!
★秀吉の賤ケ岳城見学会は来る令和3年5月29日です!

★柴田勝家の内中尾山城見学会は来る令和3年
6月19日申し込は上記事業所へ直接電話して御
予約下さい。賤ケ岳城の見学会は5月29日に迫
っております。米原公民館様の長谷川城郭講座
は5月27日午前10時から500円で開始されます。



◆質問者
柴田勝家の玄蕃尾城の角馬が何故名護屋城や
丹波篠山城や広島城の様に直角90度を用いて
ないのですか?


◆長谷川
正方形に出来るのに何故正方形に作らないの
か?素晴しく意味の深い質問ズバリ玄蕃尾城
の縄張とは天守台は四角だが本丸南正面の角
馬出は放射線測量つまりビイスタ工法により
縄張設計されていると言えます。今度令和3
年6月19日玄蕃尾城見学会で是非見ましよう。
御参加申し込みの詳細は上記チラシを参照!

※京都の城郭 ビイスタ工法 秀吉の天守技巧

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ工法大変な話題です。

◆長谷川「わろうじ城」
丹波の笑路城の図面も特に素晴らしいのですよ。


◆対談者
この図は城郭図としては駄目じやないんです?
低土塁とか虎口も不明ですし意味ないと思う?

◆長谷川
この城は石積みも初期天守「小規模石積櫓台」
もあるまた何より等高線図1mコンター図だか
ら概略曲輪形状が把握可能で複数の放射線状
縄張も複数確認出来る非常に素晴らしい城だ。

▼搦め手にもビイスタ工法を認める事が可能。

▼東からも巧妙に放射状に城郭を測量配置してる。

▼勿論大手方面からの放射状縄張も読み取れる。
丹波黒井城にもビイスタ工法が施工されている。搦め手
丹波黒井城にもビイスタ工法が施工されている。大手

◆三条橋戻橋「匿名」
近江八幡山城の投稿これまた大好評衝撃的です。
秀次の城だからビイスタ工法が存在して当然と
思いました。秀吉は虎御前山城や天正大坂城や

天正小田原石垣山城や肥前名護屋城もビイスタ
工法を使っていると長谷川先生の解説でしたが
天正10年山崎合戦では明智光秀を山崎合戦で破
り秀吉は山崎天王山頂上に三重の天守を上げて
山崎山城を構築してますが同年に柴田勝家との
清須会議で秀吉で勝家側から天王山山頂の城を
破却する事を制約さされて秀吉は是を実行して
います。天王山の城址にも城郭の見栄えを考慮
したビイスタ工法の謎が存在したのでしょうか?


◆長谷川
▼赤色図から複数のビイスタ工法を読み取れます。
右下の曲輪は、くの字状に遠隔縄張をしています。
正に遠隔放射状縄張「ビイスタ工法」理論の極致。

◆対談者
すごいですね!よく放射状縄張気付きますね?

◆長谷川
城を研究する研究家なら気付いて当然の事です。
研究家は摸倣「パクリ」でなくて「発見」です。
つまり気付力が有る無いかが学門の根本根幹だ。
▼本丸も放射状に扇形に縄張していますよ。
◆三条橋戻橋「匿名」
知らなかった城郭って放射状に縄張りしてる事。
▼西外郭も含めて総合的なビイスタ工法を採用。
ABの登り土塁もビイスタ工法を基準にしてる。
天守台も多角形で矢印方向から放射状に縄張。
▼勿論 山崎方面からの見栄えも一二三段状の
郭を配置して一番奥に三重天守を上げると言う
天王山山頂の秀吉の城はまるで山崎合戦の勝利
者としての、織田信長の後継者たる記念塔の様
な京師五期畿内へ象徴的な宣伝波及効果がある。
織田家の家老越前の大守の柴田勝家はこの城が
目障りでもあっただから清須会議で天王山の城
の破却と秀吉の根拠城郭北近江の長浜城の譲渡
を柴田勝家は清須会議で秀吉に要求して実行さ
せます。
◆長谷川
西国街道の陸運、淀川水系の水運、西国から京洛
への玄関口とも言える天王山の上の城はどの角度
から見ても★見栄えのする、豊臣秀吉政権樹立の
為の第一歩で秀吉の大看板で広告塔とも言える。
◆質問者
秀吉の作る天守の特徴を御教示下さい。
◆長谷川
先ずは安土城にある伝秀吉邸の矢倉石垣を観察、
天正4年安土城は築城されてます。伝秀吉邸の
櫓台は台形状を呈していますが櫓は四角の矩形。
つまり石垣と建物の形状は一致しない石垣天端
と櫓形状は必ずしも一致しません。

◆長谷川
要するに台形で矢倉台を羽柴秀吉は伝秀吉邸を
や丹羽長秀も、台形の矢倉台石垣を安土城普請
で構築している。

◆長谷川
次に天正13年頃より秀吉は甥秀次に近江八幡山城
を築城させ秀次館と呼ばれる石垣の矢倉台を正方
形ではなく『台状』を呈して築城させる。A部分。

◆天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉
が小田原後北条氏攻めを行い石垣山城を築城し
天守台も築きます。以下の様な形状です。天守
の石垣は正方形ではありません。天守の左右に
付櫓状基壇を作っている所にも注目して下さい。
◆長谷川
羽柴秀吉の石垣山城の天守は岡山城の如く
多角形であった可能性もありります。

くれぐれも秀吉の台形矢倉台の縄張に着目を!
◆天正大坂城秀吉天守の平面図
天正11年賤ケ岳の合戦で柴田勝家を破って大坂城
を築城しますが天守平面は放射状縄張に影響され
て歪な台形の形状をしています。「中井家大坂城図」

◆三条戻橋「匿名」
天正10年山崎合戦に勝利した秀吉の天王山
山頂の山崎山城の天主閣櫓台の縄張りとは?
長谷川先生の縄張図は赤色写真以上の縄張
に特化した詳細図を書かれるとウワサで聞
きます。縄張図の隠れ名人と聞いています。
だから長谷川先生は、滋賀県内の人よりも
県外の本格派の人に定評がある!さてさて
天王山山崎山城の天主台が如何様な形かを
想像するだけでワクワクドキドキします。

◆長谷川
実際私が山崎山城の天守台を調査した結果
は現地に天守隅石Aと天守隅石Aが残って
おりおおむね三階の天王山山城の平面形状
が判明致します。先ず天守石垣隅石AとBの
写真を参照して下さい。
◆長谷川
天王山の山崎城本丸は全長約30間54.9mで
私が常々言います。城郭の長さ30間規格で
築城しています。天守台石垣北辺はつまり
A~B間は8間=約14.64m 南辺は13間=約23.79m
天守台南北 6間=約10.98m 付櫓8間=16.4m
と言う内容です。因みに越前近江国境の柴田勝家
の玄蕃尾城天守台は5間四方=約9.15m四方です
から勝家の玄蕃尾城天守よりも山崎山城の方が
床面積においても柴田勝家の内中尾山城こと玄蕃
尾城を凌駕する豪壮な天守閣であったと言えます。
この図は簡略調査図なのでAB間にもう一角今後
発掘調査で石垣が検出されれば岡山城の様な天守
台であった可能性もありましようか?


◆三条橋戻橋「匿名」
すげえ!長谷川先生!やはり縄張城郭親子鷹だ
天王山山頂の山崎山城も小田原石垣山城の天守
台もまるで姉妹城郭と言える類似構造ですよ!
▼石垣山城のビイスタ工法

◆三条橋戻橋「匿名」
以前山崎宝寺城に行ったんですが迫力のない
城址にしか見えませんでした。スゴイ城だと
戦国の当時に高い評価している人はいますか?

◆長谷川
竹中重門は山崎山を低く評価しています。父
竹中半兵衛尉重虎は凄い人物だったのですが、

▼ウイッキペデイアより引用
秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給
へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかば
かしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これ
は竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭
ではないとしている。

◆長谷川
逆に宣教師は山崎山城を高く評価しています。
▼ウイッキペデイアより引用
『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な
城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、
柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を
遣はして、最初の協定においては彼等は対等であっ
たが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の
絶対の君主とならんとする志を示している。よって
直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬
が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに
答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が
天下の君となるか各自の腕によって定めようと言っ
た 一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・
フロイスより インド管区長 パードレ・アレッサン
ドロ・バリニヤノに贈りし書翰」(『イエズス会日本
年報』)と記している。ここに記している八幡とい
うのは、石清水八幡宮のことで男山頂に築かれた男
山城を指している。『豊鑑』の「はかばかしく構に
もし給ざりけり」と『イエズス会日本年報』の「甚
だ堅固な城」との間にはへだたりがある。清洲会議
がどのよう協定だったか日本側の史料には記載がな
くイエズス会日本年報に城郭に関する取り決めらし
きものが窺い知れる。また、秀吉が毛利輝元に出し
た書状に山崎城に関する記述がある。 
「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈
り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預
り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に
就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我
等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候
間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御
使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」 大
相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼
み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状であ
る。文中には山崎城を築城していることも記してお
り、清洲会議から20日程度たった天正11年(1583年)
7月17日には普請が開始されている。 
最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊
チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日
条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり
、廃城日は天正12年(1584年)3月25日とあるる。
◆質問者
何故5月27日は賤ケ岳城や柴田勝政陣を見学される
のですが?
◆長谷川
特に安土城不整形台形矢倉石垣ABに注目して下さい。

◆長谷川
そりやあ安土城普請奉行だった秀吉の朋友丹羽長秀
と羽柴秀吉の双方のシンクロナイズ、プロジェクト
により、詰り長秀と秀吉が賤ケ岳城で合流して柴田
に勝利した勝利の方程式があるからです。これ山崎
の合戦でも秀吉と丹羽長秀の山崎合流で明智光秀を
打ち破った。元亀の騒乱の大津志賀の陣においても
織田信長は宇佐山城で浅井朝倉に難渋して危機的な
状況だった。しかし当時横山城城主の羽柴秀吉そし
て佐和山城主となっていた丹羽長秀がそれぞれ共に
合流して滋賀の陣、宇佐山城に両者が同時に救援に
駆けつけて織田陣営は一期に難局を盛り返した事は
『信長公記』に明確に記録されておりますね。志賀
の陣の講演は堅田公民館でさせていただいた記憶が
あります。要する本日投稿の主題テーマとも呼べる
台形の縄張を羽柴秀吉や丹羽長秀は果たして使ってる
のか?最重要の歴史城郭研究の深淵にして真髄ですね。





◆長谷川
令和3年5月29日城郭フオーラムでは峠の民俗学
戦国の交通史も併せて学びます。
羽柴秀吉の天正10年の天王山山崎山城にも
台形横矢の張り出しが見られます。天守台
破城を受けており正直旧状が把握しにくい。




秀吉秀長兄弟の田上山城にも台形の横矢桝形
が見られます。

◆長谷川
城址遺構解説をしていて講師として一番辛い事
とはこのような城郭の特徴を必死に解説してる
にも関わらず、さっさと他の遺構や堀を自分の
感情を制御出来ずに暴走されてしまう人もおり
城町興し。城ハイキング、城郭探訪、城郭見学
、城郭見学城めぐり観光と様々な価値観や10人
十色の価値観あるとおもいますが、私個人とし
ては一城一城を出来得る限り丁寧に皆様ととも
に見学したいと常に願っています。私の趣旨に
賛同される方には改めて深く感謝を改申し上げ
ます。

◆三条戻橋「匿名」
近江鎌刃城にビイスタ工法は存在しましたか?

◆長谷川
城郭遺跡を真剣に見学してたら気付く事です。
歴史民俗学地名とし西番場には小字「太閤尾」
もありますしね鎌刃城図の右の手の山尾根です。

▼長谷川博美 鎌刃城ビスタ工法図




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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-05-27 05:54:09
秀吉の歴代城郭天王山山城(山崎山城)の天守の形状に驚き、秀吉の石垣山城天守の形状にも驚き、また秀吉と昵懇であった宇喜多氏の備前岡山城天守と石垣山一夜城天守の比較研究と驚くべき内容の連続です。そして秀吉方の賤ケ岳城の解説また最後に近江鎌刃城のビイスタ工法を紹介して歴史地理民俗学的な小字地名太閤尾も紹介されている天王山城のビイスタ工法にも仰天しています。新しい学門をクリエート創出しよとする学問的視座に感激せずにはいられません。まさに私個人は全身に電撃ショックを受けたような感覚の投稿に驚いております。
返信する
Unknown (権六)
2021-05-27 06:04:27
江戸期の名古屋城の角馬出、丹波篠山城の角馬出や天正田上山城の角馬出は直角90度の基準に作られている
でも権六朗柴田修理亮の玄蕃尾城の角馬しは歪な台状の角馬出で出来ている。長年疑問に思っていた事を長谷川先生は放射線縄張理論でサラリと解釈されいて本当に驚いております。柴田勝家の玄蕃尾城いや内中尾山城を私はもう一度初心に帰って見学し直したいです。もう一度城の勉強やり直しだと思っている昨今です。
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