伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

平和を学び考えました・いわき平和のつどい

2013年08月08日 | 平和・戦争
 第10回いわき平和のつどい「戦争と憲法を考える」が3日と4日、いわき市文化センターで開かれ、戦争と憲法、原発被災地写真展、教科書と教育制度改定のテーマでの資料、植田空襲で残された薬きょうや手りゅう弾、地雷のほか、出征兵士に贈られた千人針など戦争遺品の展示、アニメ映画「はだしのゲン」の上映や講演などが行われました。

 4日に行われた講演は、「証言 今語っておきたいあの戦争」の5回目として静岡県の山下正男さん(山西残留成西陵友の会会長・日中友好協会熱海支部長)が登場。中国山西省に敗戦後も残留させられ国民党軍とともに戦闘を継続させられた「中国山西省残留日本兵」について証言が行われました。

 山下さんは、「山西残留」は日本が敗戦にあたって受託した「ポツダム宣言」に対する重大な背反行為だとして、首謀者として第1軍司令官澄田睞四朗中将や山岡道武少将らを上げ、事件の背景に八路軍(中国共産党軍)と対峙していた中国国民党軍の閻錫山が練度の高い日本兵を編入することを望んだことが発端だったことを語りました。

 山下さんによると、閻錫山に要請を受けた軍司令官らは「天皇の軍」であることから勝手にできないと考え、兵員ではなく鉄道修理工作部隊として残留を画策(命令書も残されている)。当初残留は希望者とされたものの上官の命令で残留したものもいたといいます。山下さんの場合、中隊長の「山下残れ」の命令を受け「上官の命令は朕の命令と心得よ」と教え込まれていたことから残留、約2600名の残留兵とともに国民党軍とともに戦闘に組み込まれたといいます。

 ポツダム宣言が受託されたことから戦後、派遣されたポツダム宣言が履行されていることをチェックする監視員に日本兵が戦 闘を行っていることを目撃されたこともあったと言います。この結果「命令取消書」が発せられたものの、日本兵を中国人に偽装をして「日本語の上手な中国兵」として引き続き戦闘に従事させたことを証言。「日本政府は事実を知っていたから、絶対に命令によって残留したことを認めない」と政府の対応を批判。「必ず日本の国民は事実をはっきり明らかにする」と希望を語りました。

 また改憲の発言と動きが強まる中で、「憲法前文、9条を変えさせない。尖閣諸島の問題を平和的に解決する。この運動をご一緒にすすめたい」と呼びかけていました。戦争の体験者が少なくなっている中で、貴重な体験を聴くことができました。

 この後、三多摩青年合唱団、同研究生、うたごえサークル青梅麦笛、伊達市在住の佐藤香さんによる「いわき平和のつどいコンサート」が行われました。被災地に歌を、被災者に歌をの思いで来市され、研究生は前日に原発被災者の仮設住宅で、また合唱団は岩手県山田町でコンサートを開いてきたといいます。「ほらね、」「チャレンジャー」、いわき市薄磯で津波で亡くなった鈴木姫花ちゃんを歌った「絵描き少女の偉大な夢」「色が咲くとき」(佐藤香さん)などが披露された後、会場のみなさんといっしょに「花は咲く」が歌い上げられました。美しく、そして楽しい合唱に酔いしれ、楽しんだひと時でした。

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 かわらナデシコ(最後の写真)が目を楽しませてくれます。

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