昨日から最近刊行された「海を撃つー福島・広島・ベラルーシにて」(安東量子著、みすず書房)を読んだ。先週木曜日夜、市内の書店で手に入れたばかりの本だ。
著者の安東量子さんは、市内に居住で、原発事故後、久ノ浜末続地区で放射性物質を計測する活動を住民とともに進めてきた人物だ。ツイッターで発刊を知り、求めることにしたのだ。
広島で育ち、本市に住んだ筆者は、原発事故後の混乱の中で、自己をどう考えればいいのか、事故にどう対応すればいいのか、に悩み、調べ、そして線量の実態を知る活動に取り組んでいくことになる。居住している地域での学びの取り組み、久ノ浜末続地区での線量計測の活動、ノルウェーとベラルーシを訪ねチェルノブイリ原発事故後の住民達の取り組みを学んだ旅、原爆実験場となった砂漠から追われたアポリジニとのオーストラリアでの出会い、そしてまた末続地区・・人づきあいにもともと積極的ではない女性が原発事故に遭遇し、何をすればいいか悩みながら行動した記録、そして、何よりも、放射性物質の拡散という現実の中で、住民が何を思いながら暮らしてきたのかをリアルに示してくれる。そんな本だった。
ブックカバーには「いわき市の山間に暮らすひとりの女性の幻視的なまなざしがとらえた」と紹介している。「幻視的」のように、一つの事象からたたみかけるように思考する文体は、どことなく詩的な体裁を感じさせる。実際に、2本の詩が記載されているが、記録書のような堅苦しさはなく物語のように読むことができる。
写真に虹色が写りこんでいますが、ブックカバーのデザインではなく、本書を読んだ部屋に差し込んだ光のプリズムですので誤解のないように。原発事故後7年間を次の時代につないでいく本書のイメージにピッタリかと思い重ねてみました。
本書は、ざっくりというと、原発事故後に住民は放射性物質の拡散に対して、その意味をどう考え、どう対処し、そしてこれからどうなるのか不安を強く持っており、また、知りえた放射性物質の知識をどう考えたらいいか悩みと不満を持っていたが、その住民の気持ちに応える道は単に知識を普及することではなく、不安な気持ちに寄り添い、ともに考え、ともに行動する―――その点にあったことを明らかにする。そして、事故から8年、この間に体験した諸問題の解決はまだ先にあることを明らかにしている。被災地に住み続ける住民と被災地外から届く心無い言葉が今でも続くその現実はそのことを示しているのだろう。
本書を読みながら、原発事故後の自らの思いが胸を去来する部分があった。
事故直後に情報が錯綜する中、避難計画の策定も含め住民の安全確保を求めて市の復興本部に申し入れたことから始まり、行政がどう対応するか、拡散した放射性物質にどう対応するかの情報を得るために、また、事故の実際がどのようなものであったかを知るために情報を探し回った日々があった。
ツイッターを始めたのは、東京のボランティアの方から、物質が滞っているという情報がネットに拡散しているのだが、実際はどうなのかと問い合わせがあった時だ。情報は決して正しいものではなかった。その旨伝えた際、伊藤さんも情報発信をと進言していただくと同時に、ツイッターのアカウントを取得するのはそんなに難しくないと教えてもらった事がきっかけだった。以来、ツイッターで飛び交う情報で得た知識をネットで確認しながら知識を増やす日々になった。
本市に拡散した放射性物質の量は避難が必要な量ではなく、比較的線量が高い箇所の除染をして線量を下げながら安心と安全を確保して住み続けることが可能だと学んだ。それまでの対応に基本的に間違いがなかったことや、これからこの問題に対処する方向が座ったのは事故後ほぼ1カ月が過ぎた4月のことだった。
講演したのは事故調査に訪れた立命館大学の安斎郁郎名誉教授。ジャーナリストの江川紹子さんも同行していた。夜の労働福祉会館の和室が人であふれていたことを思い出す。それまで一貫して原発に反対してきた教授の言葉だからこそ、斜に構えることなくすんなり聞くことができたと思う。事故後はじめてだったと思うが、この内容を掲載したニュースを地域に折り込んだ。後に「あれを読んで、どうとらえるか分かって助かった」と声をかけられた事もあった。
それからは基本的に本市に安心して住むための課題、すなわち放射性物質検査体制の充実、線量を引き下げる除染、放射性物質に関する知識の普及などを行政として取り組むことが必要との立場からの取り組みになった。この過程では、災害ゴミの一般ゴミとの混焼や鮫川村青生野地区の汚染された農業系廃棄物の焼却原料施設の稼働問題などに対する判断が求められるケースがあった。再飛散を防止する仕組みがあるなら問題ないという姿勢をとった。田人町の除染廃棄物置き場建設は水源地で水道水の汚染が心配とする方に、放射性物質の検査の実態や泥の除去で取り除かれることなどを伝えたこともあった。
市議会のたびに発行する会派の議会報告では、市民に対する行政情報を厚くする観点から、放射性物質の検査機器の準備状況や市民の利用できる新しい制度を重点に伝えたこともあった。検査体制の情報を知り、「助かりました。この報告をこれからも注目しています」と声をいただいたこともあった。
こうした取り組みの根本には、本市に拡散した放射性物質の量で健康被害が及ぶことはなく、拡散の事実に対する住民の不安を解消し安心と安全を高めることが必要という思いがあった。
著者とツイッター上で知己を得たのは、こうした取り組みの中でだった。その年の5月だったと思う、自然水を水源に暮らしている遠野町の地区にその問題でお話を聞きにいった際、花らしきものを咲かした竹が枯れかかっていることに気が付いた。その目で見るとあちこちの竹が葉っぱを黄色くさせている。たぶん、地震の関連で地下水源に大きな影響があったのかもしれないという趣旨でツイート(原発事故にも触れた表現をしていたのかな?)した時、竹の葉っぱが落ちるのは5月と教えてくれたのが著者だった。6年たっても竹の黄葉を原発事故に結びつけて不安がる方がいたのを見て、こうしたツイートがいらぬ不安を増長すると思ったのだろう。
本書を読んだ時に、果たしてこうした対応が複雑な住民の思いに応えるものになっていたのかと考えると、十分ではなかったのかもしれないと思う。風評の継続など原発事故の影響は消えていない。決して表面上にあらわれることはなくても、事故の負の記憶は細々と人々の心の中に巣くい続けることになるかもしれない。その時に、この本に刻み込まれた取り組みの体験と住民の思いは、何らかの解決の導きの糸を示してくれるのではないか。本書を読みながらそう思った。
著者の安東量子さんは、市内に居住で、原発事故後、久ノ浜末続地区で放射性物質を計測する活動を住民とともに進めてきた人物だ。ツイッターで発刊を知り、求めることにしたのだ。
広島で育ち、本市に住んだ筆者は、原発事故後の混乱の中で、自己をどう考えればいいのか、事故にどう対応すればいいのか、に悩み、調べ、そして線量の実態を知る活動に取り組んでいくことになる。居住している地域での学びの取り組み、久ノ浜末続地区での線量計測の活動、ノルウェーとベラルーシを訪ねチェルノブイリ原発事故後の住民達の取り組みを学んだ旅、原爆実験場となった砂漠から追われたアポリジニとのオーストラリアでの出会い、そしてまた末続地区・・人づきあいにもともと積極的ではない女性が原発事故に遭遇し、何をすればいいか悩みながら行動した記録、そして、何よりも、放射性物質の拡散という現実の中で、住民が何を思いながら暮らしてきたのかをリアルに示してくれる。そんな本だった。
ブックカバーには「いわき市の山間に暮らすひとりの女性の幻視的なまなざしがとらえた」と紹介している。「幻視的」のように、一つの事象からたたみかけるように思考する文体は、どことなく詩的な体裁を感じさせる。実際に、2本の詩が記載されているが、記録書のような堅苦しさはなく物語のように読むことができる。
写真に虹色が写りこんでいますが、ブックカバーのデザインではなく、本書を読んだ部屋に差し込んだ光のプリズムですので誤解のないように。原発事故後7年間を次の時代につないでいく本書のイメージにピッタリかと思い重ねてみました。
本書は、ざっくりというと、原発事故後に住民は放射性物質の拡散に対して、その意味をどう考え、どう対処し、そしてこれからどうなるのか不安を強く持っており、また、知りえた放射性物質の知識をどう考えたらいいか悩みと不満を持っていたが、その住民の気持ちに応える道は単に知識を普及することではなく、不安な気持ちに寄り添い、ともに考え、ともに行動する―――その点にあったことを明らかにする。そして、事故から8年、この間に体験した諸問題の解決はまだ先にあることを明らかにしている。被災地に住み続ける住民と被災地外から届く心無い言葉が今でも続くその現実はそのことを示しているのだろう。
本書を読みながら、原発事故後の自らの思いが胸を去来する部分があった。
事故直後に情報が錯綜する中、避難計画の策定も含め住民の安全確保を求めて市の復興本部に申し入れたことから始まり、行政がどう対応するか、拡散した放射性物質にどう対応するかの情報を得るために、また、事故の実際がどのようなものであったかを知るために情報を探し回った日々があった。
ツイッターを始めたのは、東京のボランティアの方から、物質が滞っているという情報がネットに拡散しているのだが、実際はどうなのかと問い合わせがあった時だ。情報は決して正しいものではなかった。その旨伝えた際、伊藤さんも情報発信をと進言していただくと同時に、ツイッターのアカウントを取得するのはそんなに難しくないと教えてもらった事がきっかけだった。以来、ツイッターで飛び交う情報で得た知識をネットで確認しながら知識を増やす日々になった。
本市に拡散した放射性物質の量は避難が必要な量ではなく、比較的線量が高い箇所の除染をして線量を下げながら安心と安全を確保して住み続けることが可能だと学んだ。それまでの対応に基本的に間違いがなかったことや、これからこの問題に対処する方向が座ったのは事故後ほぼ1カ月が過ぎた4月のことだった。
講演したのは事故調査に訪れた立命館大学の安斎郁郎名誉教授。ジャーナリストの江川紹子さんも同行していた。夜の労働福祉会館の和室が人であふれていたことを思い出す。それまで一貫して原発に反対してきた教授の言葉だからこそ、斜に構えることなくすんなり聞くことができたと思う。事故後はじめてだったと思うが、この内容を掲載したニュースを地域に折り込んだ。後に「あれを読んで、どうとらえるか分かって助かった」と声をかけられた事もあった。
それからは基本的に本市に安心して住むための課題、すなわち放射性物質検査体制の充実、線量を引き下げる除染、放射性物質に関する知識の普及などを行政として取り組むことが必要との立場からの取り組みになった。この過程では、災害ゴミの一般ゴミとの混焼や鮫川村青生野地区の汚染された農業系廃棄物の焼却原料施設の稼働問題などに対する判断が求められるケースがあった。再飛散を防止する仕組みがあるなら問題ないという姿勢をとった。田人町の除染廃棄物置き場建設は水源地で水道水の汚染が心配とする方に、放射性物質の検査の実態や泥の除去で取り除かれることなどを伝えたこともあった。
市議会のたびに発行する会派の議会報告では、市民に対する行政情報を厚くする観点から、放射性物質の検査機器の準備状況や市民の利用できる新しい制度を重点に伝えたこともあった。検査体制の情報を知り、「助かりました。この報告をこれからも注目しています」と声をいただいたこともあった。
こうした取り組みの根本には、本市に拡散した放射性物質の量で健康被害が及ぶことはなく、拡散の事実に対する住民の不安を解消し安心と安全を高めることが必要という思いがあった。
著者とツイッター上で知己を得たのは、こうした取り組みの中でだった。その年の5月だったと思う、自然水を水源に暮らしている遠野町の地区にその問題でお話を聞きにいった際、花らしきものを咲かした竹が枯れかかっていることに気が付いた。その目で見るとあちこちの竹が葉っぱを黄色くさせている。たぶん、地震の関連で地下水源に大きな影響があったのかもしれないという趣旨でツイート(原発事故にも触れた表現をしていたのかな?)した時、竹の葉っぱが落ちるのは5月と教えてくれたのが著者だった。6年たっても竹の黄葉を原発事故に結びつけて不安がる方がいたのを見て、こうしたツイートがいらぬ不安を増長すると思ったのだろう。
本書を読んだ時に、果たしてこうした対応が複雑な住民の思いに応えるものになっていたのかと考えると、十分ではなかったのかもしれないと思う。風評の継続など原発事故の影響は消えていない。決して表面上にあらわれることはなくても、事故の負の記憶は細々と人々の心の中に巣くい続けることになるかもしれない。その時に、この本に刻み込まれた取り組みの体験と住民の思いは、何らかの解決の導きの糸を示してくれるのではないか。本書を読みながらそう思った。
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