伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

時代を反映? 「図書館戦争」

2015年10月06日 | 文化
 いわき市議会は決算委員会の2日目。企業会計・特別会計決算委員会は下水道事業特別会計や競輪事業特別会計などを審議しました。その後、議会棟の控室で、明日の準備のため資料を読んでいるところに電話が入りました。

 公民館の体育館のライトなどが切れていたり、カーテンが開かないために暗くて、スポーツをしにくいという苦情の電話でした。担当課などのお話では予算の関係ですぐに対応は難しいという。ライトが切れているというのは、アップ・ダウンさせるための装置に不具合が生じた結果、点灯したりしなかったりの状況だといい、どうも震災の影響があったようです。

 議会答弁などでは、維持補修費には意を用いているといいますが、施設の状況はまだまだ不十分な状況にあることを示しているようです。今後の十分な対応を求めていかなければならないと思いす。

 さて、一昨日、昨日と「図書館戦争」という映画とドラマが放送されました。ずっと前にこの言葉を聞いた覚えがあります。その時はおそらく“何それ”程度の印象を抱いたと思うのですが、たまたま放送を見て、この印象が偏見に過ぎたと思いました。

 図書館に収蔵される本や資料を武力で守るという設定は奇抜です。そんなばかな、という思いも湧いてきます。しかし、この物語の状況設定が安倍自公政権のすすめてきた政治とあまりに重なるのです。

 表現の自由や知る自由を武力も使って脅かすものから人権を守る。物語の基本設定です。自由を脅かすものは誰か。メディアに対して監視権を持つ国家機関のメディア良化委員会です。これに対し自由を守るのは、地方図書館を運営する地方自治体の広域連合「図書隊」です。

 国家権力である委員会は、図書を差し押さえするために武力を行使し、防衛隊員の命を奪うことも辞さない。これに対して図書隊はあくまで専守防衛。相手の武力行使に反撃し、あくまで相手の行動を抑制する範囲での武力行使に留めることを原則とする。アベノミクスや社会保障の削減が続く中、住民の暮らしの防波堤となるのは地方自治体の役割だと主張していますが、その構図と重なります。

 さらにこの設定に安保(戦争)法制が頭に浮かびました。

 自民党政治のもとで、現在の憲法では個別的自衛権だけが認められており専守防衛とされたきたはずの自衛隊でした。ところが、同じ自民党の安倍政権が勝手な憲法解釈の変更で、憲法上認められないとしてきた集団的自衛権行使を認め、戦場で武力行使をさ含む活動を自衛隊にさせようというのがこの法制です。

 良化委員会も武力行使も、本来は行動抑制の範囲が原則なのですが、それを逸脱して、人命を奪う武力行使も辞さないと描かれます。集団的自衛権で戦場に派兵され、そこでの武力行使を強いられる自衛隊の姿が重なってきます。

 一方、防衛隊は個別的自衛権の範囲内での自衛隊の姿を想起させます。これまで個別的自衛権は認められているという憲法解釈のもとで専守防衛を旨とした自衛隊の姿です。

 しかも良化委員会が守るのは、マスコミや出版の自由を抑制する体制、すなわち知る権利と言論の自由を奪う体制です。現実の日本では、安倍政権のもとで秘密保護法が強行されて国民の知る自由(権利)が乱暴に脅かされ、児童ポルノ法の改定の中で、その一方での表現の自由への規制拡大が懸念が議論されてきました。こうした懸念と重なってきます。

 また、自民党がマスコミに“公正な選挙報道”を求めて圧力をかけたなど報道の自由を歪めてきたことも想起されました。

 物語りはフィクションでしょう。そしてエンターティメントにすぎないのかもしれません。しかし、現実社会を彷彿させるものがあるところに、1984年に話題になった「1984」という小説が頭に浮かんできました。

 2大国家が支配する未来の地球で、大国同士が争い、またそれぞれの大国は自らに都合の良いように歴史を歪めて記録し国民支配の道具にしていく。確かそんな社会が描かれていたのですが、そうした「1984」が持っていた時代認識に共通するものを「図書館戦争」が持っているように思えてきます。

 ほめすぎかな・・。

 こんな社会にしてはならない。最終章とされる最新映画はどんなストーリーを用意しているのか。興味津々です。


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