いま、いわき市で、新しい都市計画マスタープラン=第二次都市計画マスタープランの策定に向けて、各地区住民の意見を聞く懇談会が開かれています。7日に田人地区で開催されたのを皮切りに、本日は遠野地区の懇談会が行われた。
第二次マスタープランは、第一次のプランが今年度で計画期間を終了することから、新たに策定をめざして審議が重ねられているもの。これまでの審議の到達点に立ったプランの概要を説明するとともに、地区の状況をプランに反映させることも含めて、各地区の意見を聞いている。
プランの説明を聞く中で、大いに疑問を持っている部分がある。このプランでは、これまでの検討で浮かんだ課題を整理しながら、本市の都市計画の基本理念として「人とまちが輝く煌きある都市―未来に誇れる都市への挑戦」を据え、将来都市像として「海・まち・山に輝く星座型都市」とまとめている。
では、星座型都市はどのような構成になるかというと、下図の通りだ。
本庁、支所あるいは出張所が置かれている地域を、「主要な拠点」と「周辺の拠点」の二つに分け、
主要な拠点を、平、小名浜、勿来、泉、常磐、内郷、いわきニュータウン、四倉とし、
周辺の拠点を、好間、久之浜・大久、小川、川前、三和、遠野、田人、江名
としている。主要な拠点のうち平は都心拠点と位置づけ、他は広域拠点あるいは地区拠点と呼び、周辺の拠点は、いずれも生活拠点とされている。
問題はここからだ。「主要な拠点」は「恒星」とされ、「周辺の拠点」は「惑星」とされている、この位置づけなんだ。初めて見た時から、憤りを覚えている。
なぜなら、「恒星」は自ら輝く星だが、「惑星」は自ら輝くことができず恒星の光を反射する鑑にすぎない。だいたい地域のみなさんは、人口減が言われる中でも、自らの地域を輝く地域にして将来の世代に伝えていこうと、様々な意味でがんばっていらっしゃる。こうした思いを持っているところに、「恒星」と「惑星」という区別を持ち込み、地域の関係が分断されていくという思いが湧いてくるのだ。
「住めば都」という言葉があることから分かる通り、どこの地域であっても、そこに住む人々からみれば光輝くもの、すなわち「恒星」という位置づけになるだろう。それなのに、行政がそこを「惑星」としてしまう。住民は、行政の計画に大きな違和感を感じてしまうに違いない。
そもそも、懇談会の説明の中で、「恒星」は「輝く」、「惑星」は「輝きを失わせない」と説明される。これを少し踏み込んで考えてみたい。
惑星にも輝く「星」と呼ばれるものがある。「明けの明朝」「宵の明朝」と呼ばれる金星などがそうだ。そういえば夕べという明け方というか、こんなツイートが流れていた。
KAGAYA@KAGAYA_11949
夜更かしの方は空をご覧ください。
南西に輝く明るい星は木星。
空のてっぺんに光る星はこと座のベガです。
今日もお疲れさまでした。明日もおだやかな一日になりますように。
金星も木星も輝く。その他の惑星も輝くことがある。惑星ではないがお月様はあんなに明るく輝く。これは、いずれも自らが輝きを作り出しているのではない。あくまでも恒星である太陽の光を反射して輝いているのだ。
マスタープランのように本市の各地域に「恒星」と「惑星」という全く異質な位置づけをすることが妥当なのだろうか。絶対に妥当ではない。この位置づけとなれば、「惑星」は「輝きを失わない」ために、もし「恒星」が人口減で輝きを失いかねないときに、その輝きを持続させるために人口を供給して「輝きを失わない」ようにせよという関係が見えてきてしまう。すなわち、惑星は恒星のためにやせ細っていけと言っているに等しいと受け止められるのだ。
まあ、「恒星」と「惑星」という概念からは他にも様々なことが連想されるのだが、ここでは割愛しておく。しかしこれだけははっきりしたい。「星座」という時、そこには「惑星」は含まれないのが普通の感覚だということだ。
星座は遠くに見えている恒星の組み合わせで表現されている。それは、地球から見た見かけ上の位置関係が変わらないからだ。太陽の光を反射する惑星は、見かけ上軌道が複雑になるので、星座の一部を担うことができなかったという事情があって、位置が変わってはならない星座の一角を占めることはできなかったのではないだろうか。
こう考えると、「星座型」といいながら「惑星」の位置づけを与えていわき市の構成であるはずの星座から締め出す結果になるこの位置づけが妥当なのかどうか。そこは良く考えてもらう必要がある。
私は、最近の宇宙物理学の到達点からから考えて、恒星などを持ち出して「星座型」というのはやめた方が良いと考えている。さて市としてどう考えるのか。
第二次マスタープランは、第一次のプランが今年度で計画期間を終了することから、新たに策定をめざして審議が重ねられているもの。これまでの審議の到達点に立ったプランの概要を説明するとともに、地区の状況をプランに反映させることも含めて、各地区の意見を聞いている。
プランの説明を聞く中で、大いに疑問を持っている部分がある。このプランでは、これまでの検討で浮かんだ課題を整理しながら、本市の都市計画の基本理念として「人とまちが輝く煌きある都市―未来に誇れる都市への挑戦」を据え、将来都市像として「海・まち・山に輝く星座型都市」とまとめている。
では、星座型都市はどのような構成になるかというと、下図の通りだ。
本庁、支所あるいは出張所が置かれている地域を、「主要な拠点」と「周辺の拠点」の二つに分け、
主要な拠点を、平、小名浜、勿来、泉、常磐、内郷、いわきニュータウン、四倉とし、
周辺の拠点を、好間、久之浜・大久、小川、川前、三和、遠野、田人、江名
としている。主要な拠点のうち平は都心拠点と位置づけ、他は広域拠点あるいは地区拠点と呼び、周辺の拠点は、いずれも生活拠点とされている。
問題はここからだ。「主要な拠点」は「恒星」とされ、「周辺の拠点」は「惑星」とされている、この位置づけなんだ。初めて見た時から、憤りを覚えている。
なぜなら、「恒星」は自ら輝く星だが、「惑星」は自ら輝くことができず恒星の光を反射する鑑にすぎない。だいたい地域のみなさんは、人口減が言われる中でも、自らの地域を輝く地域にして将来の世代に伝えていこうと、様々な意味でがんばっていらっしゃる。こうした思いを持っているところに、「恒星」と「惑星」という区別を持ち込み、地域の関係が分断されていくという思いが湧いてくるのだ。
「住めば都」という言葉があることから分かる通り、どこの地域であっても、そこに住む人々からみれば光輝くもの、すなわち「恒星」という位置づけになるだろう。それなのに、行政がそこを「惑星」としてしまう。住民は、行政の計画に大きな違和感を感じてしまうに違いない。
そもそも、懇談会の説明の中で、「恒星」は「輝く」、「惑星」は「輝きを失わせない」と説明される。これを少し踏み込んで考えてみたい。
惑星にも輝く「星」と呼ばれるものがある。「明けの明朝」「宵の明朝」と呼ばれる金星などがそうだ。そういえば夕べという明け方というか、こんなツイートが流れていた。
KAGAYA@KAGAYA_11949
夜更かしの方は空をご覧ください。
南西に輝く明るい星は木星。
空のてっぺんに光る星はこと座のベガです。
今日もお疲れさまでした。明日もおだやかな一日になりますように。
金星も木星も輝く。その他の惑星も輝くことがある。惑星ではないがお月様はあんなに明るく輝く。これは、いずれも自らが輝きを作り出しているのではない。あくまでも恒星である太陽の光を反射して輝いているのだ。
マスタープランのように本市の各地域に「恒星」と「惑星」という全く異質な位置づけをすることが妥当なのだろうか。絶対に妥当ではない。この位置づけとなれば、「惑星」は「輝きを失わない」ために、もし「恒星」が人口減で輝きを失いかねないときに、その輝きを持続させるために人口を供給して「輝きを失わない」ようにせよという関係が見えてきてしまう。すなわち、惑星は恒星のためにやせ細っていけと言っているに等しいと受け止められるのだ。
まあ、「恒星」と「惑星」という概念からは他にも様々なことが連想されるのだが、ここでは割愛しておく。しかしこれだけははっきりしたい。「星座」という時、そこには「惑星」は含まれないのが普通の感覚だということだ。
星座は遠くに見えている恒星の組み合わせで表現されている。それは、地球から見た見かけ上の位置関係が変わらないからだ。太陽の光を反射する惑星は、見かけ上軌道が複雑になるので、星座の一部を担うことができなかったという事情があって、位置が変わってはならない星座の一角を占めることはできなかったのではないだろうか。
こう考えると、「星座型」といいながら「惑星」の位置づけを与えていわき市の構成であるはずの星座から締め出す結果になるこの位置づけが妥当なのかどうか。そこは良く考えてもらう必要がある。
私は、最近の宇宙物理学の到達点からから考えて、恒星などを持ち出して「星座型」というのはやめた方が良いと考えている。さて市としてどう考えるのか。
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