バスが走る沿道の建物には草がはえ、物が置かれたコンビニの出入り口は人を拒む。窓枠が落ちた建物が、無残な姿をさらし続けている。住宅は草むし、草原と化した水田、草の中に沈んだ常磐線は線路も路盤の砕石も見えず、架線と電柱がそのありかを示している。 時折、人の姿が見えるが、みな白いタイペック(防護服)を身に付け最低限マスクをしている。中にはフィルター付きのガスマスクを着用した姿も。除染作業や道路の復旧作業をすすめる人たちのようだ。
Jビレッジを出て、警戒区域の6号国道を北上するバスの窓外を流れる風景は、やはり異様でした。いわき市でも路上から人も自動車も消えた原発事故直後の時期を思い起こします。楢葉町以北の双葉郡には、ほぼ人が住んでいないことに思いが至ります。
東京電力福島第一原子力発電所、第二原子力発電所の視察に入ったのは20日でした。いわき市議会が設置している東日本復興特別委員会第3分科会が視察を計画し、他の議員の参加も呼びかけました。
最初に訪れたのが第一原発です。各施設内に入る時には、放射性物質の汚染を持ち込まないように、戸外で着用していたビニール製の手袋や靴カバーなどを外したり、放射性物質のスクリーニングをするなど、チェックを受けます。放射線管理区域に入る場合はこの逆。放射性物質を外に持ち出さないための措置となります。
第一原発正門から中に入り、初めの視察施設の重要免震棟でも同じ手順で室内に入りました。この棟も事故により室内が汚染されたそうです。除染を行い、訪問時点での線量は0.4μSv まで下げ、通常の服装で作業ができるようにしたそうです。ここには、緊急対策室本部と普通は各原子炉に置かれている中央制御室の代替機能が置かれています。
緊急対策室本部は、安全・保安院、総務、広報をはじめ事故対応の各セクションの責任者が陣取る円卓と、福島第一安定化センター(福島第二原子力発電所内)や東京電力本店の非常災害対策室、福島県庁オフサイトセンターなどとつながったテレビ会議システムで構成されます。別の大型モニターには事故原発が映しだされ、各テレビ局もモニターされていました。
また、奥まった部屋にある中央制御室の代替機能は、各制御室のデータと冷却水に関するデータを一括管理しています。事故後、各原子炉の運転データは各事故機の中央制御室まででかけ、表示されているデータを読み取り対策に活用していました。作業員の被曝抑制が課題となり、低減させるため、現在の体制を構築したといいます。
事故現場はバスの中からの視察でした。タイペックを着こみ、足には2重の靴カバー、手に綿手袋とゴム手袋を重ね、頭にはすっぽりかぶるタイプのガスマスクを付けたいでたちです。この前に行われた、原子力委員会の説明会では、現在でも放射性物質が放出されていることを説明していました。人間の五感ではその存在を感じることはできません。
実際、バスの中で読み上げられる線量は、日常生活の中では聞くことのない線量でした。重要免震棟付近で20μSv、別の場所では50μSv、60μSv、3号機付近では1mSv(1,000μSv)…。
使用済み燃料プールから未使用燃料の取り出し試験を行った4号機は、上部のがれきは撤去され片付いている印象がある。今後、上部をカバーで覆いクレーンを設置して、来年12月頃から本格的な取り出し作業を計画しているといいます。取り出した燃料棒を収納した乾式キャスクの仮保管設備も着工しており、原発敷地内には基礎工事の大きな穴が掘られえていました。
前述のように高い線量の3号機付近。上部のむき出しになったひしゃげた鉄骨が、爆発の大きさを物語っています。現在、がれき撤去に向けて構台設置の作業がすすめられています。線量が高いためリモコン操作の機械を使用していると説明されたように思いますが、もしかしてそれは建屋内調査の機器のことだったのかもしれないので、ここらは自信がありません。
2号機の建屋は残っており、1号機はカバーで覆われ、状態をうかがい知ることは難しい。原子炉の海側にあるピットというのだろうか、大きな窪地には、津波で流されたトラックがひっくり返って落ち込んだままだったり、がれきが入った状況で、災害当時の被害の大きさを想像させる状態も残っていました。
また、外部電源喪失の原因となった、送電線の鉄塔の倒壊現場もみました。地震によるものと思われますが、南西側の斜面が崩落し、押し寄せた土砂が鉄塔をなぎ倒しています。東電は、そのようなことで外部電源を喪失するとは思いもよらなかったでしょう。災害への対応の難しさを知ることができますし、もっとも大切な電源を1系統しか確保していなかったという災害への備えの脆弱さを知ることにもなりました。
第二原発も津波災害に襲われました。南側に位置する1号機わきの緩やかな斜面を駆け上った津波は、原子炉建屋を回り込み北側の4号機に向けて押し寄せたそうです。また、建屋海側にあり海抜4mに建てられた海水熱交換器建屋はドアなどから浸水しポンプ等が破損しました。1号機の非常用ディーゼル発電機は吸気口からの浸水で被害を受けました。しかし、全体として第一原発程大きなダメージとなりませんでした。
また、生き残った廃棄物処理建屋や高圧電源車などから電源を確保でき、空輸のも含めて必要な資材を確保して原子炉の冷却系を復帰、震災から4日後の3月15日には冷温停止状態を全部の原子炉で達成できたといいます。
停止期間が長期の及ぶことから、施設の維持管理を簡素化する観点から、今後、原子炉内の燃料を使用済燃料プールへ移動する計画でいるといいます。
第二原発の視察では、4号機建屋内に入り、最上階の燃料交換器遠隔操作室から使用済燃料プールを視察。燃料棒の保管状況や、原子炉からの燃料取り出しの手順などを確認しました。
第一原発の水素爆発は、室内に水素が充満したことが原因となりましたが、この対策として、①フィルター付きベント(排気弁)を建屋に設置する、②水素と酸素を電気的に結合させる―ことが検討されていることも説明されました。ちなみにプールのある部屋の放射線量は0.7μSvから0.8μSvであることが電光表示板で確認ができました。
また原子炉格納容器内にも立ち入り、密閉容器下部の構造も視察しました。制御棒の稼働装置が下部から格納容器内部に貫通していることなどを確認。第一原発の1号機から3号機のデブリ(溶けた燃料棒)がこの部位から漏れだし、格納容器下部に落ちこんでいる状況にあることなどの説明を受けました。格納容器内の状況の確認は内部モニターなどの配管からカメラを侵入させて行うことも確認しました。
以上の視察から、第二原発が第一原発のような事故にいたらなかったのは、幸運に過ぎなかったことが確認をされたように思います。
今回の震災での波高は第二原発付近で7mから9mと推定され、同原発の原子炉は第一原発1から4号機より高い海抜12mに設置されています。それでも原子炉建屋に津波が押し寄せ立ったのは、1号機わきの緩斜面から遡上したことが原因でした。これを防止するため、緩斜面を削ったり、土のうで仮設の堤防を構築して津波の侵入を防止する措置をとりました。
また、浸水した海水熱交換器建屋の扉は、耐圧性の高い頑丈な扉に取り替えていました。
しかし、東日本大震災の最大波高は富岡町で21.1m、双葉町で16.5mとする研究結果があります。こうした波が押し寄せれば、第2原発もどうなっていたことか。また、今回とった対策でどれほど浸水を防止できるのか…。
海沿いに作られた第一、第二原発には津波災害に対する脆弱性が、もともとあるといわざるを得ません。それだけに、全部の原子炉を廃炉する措置に向けた取り組みが求められます。
また、第一原発の収束に向けた作業が一定すすんでいることは確認できたものの、工程遂行の困難な状況が確認され多様に思います。作業員の被ばくと引き換えにして、がれきの撤去等は進んできました。より困難な1から3号機内のがれきの撤去と線量の低減、そしてデブリの存在の確認とその取り出しに向けた作業の困難さは容易に想像することができます。
作業が成功することを心から望みますが、同時にこうした災害をおこさないための根本的な措置は、原子力エネルギーから自然エネルギーや再生可能エネルギーの開発・利用に切り替えて行くための措置をすすめていくことにあると感じます。引き続き、このことを強く求めていきたいと想います。
ちなみにJビレッジを出発してから戻るまでの7時間で、積算した被ばく線量は32μSvでした。我が家の戸外で線量は0.2から0.3μSvであり、仮に市内に滞在している時の被ばく線量を1時間辺り平均0.2μSvと仮定して計算すれば、約7日分を7時間で被ばくした計算になります。ちなみに4号機の格納容器内には40分程度滞在したと思いますが、その間の被ばく線量は10μSvでした。
※写真は東京電力のホームページよりダウンロードしトリミングしたもので2012年6月に撮影されたものです。
Jビレッジを出て、警戒区域の6号国道を北上するバスの窓外を流れる風景は、やはり異様でした。いわき市でも路上から人も自動車も消えた原発事故直後の時期を思い起こします。楢葉町以北の双葉郡には、ほぼ人が住んでいないことに思いが至ります。
東京電力福島第一原子力発電所、第二原子力発電所の視察に入ったのは20日でした。いわき市議会が設置している東日本復興特別委員会第3分科会が視察を計画し、他の議員の参加も呼びかけました。
最初に訪れたのが第一原発です。各施設内に入る時には、放射性物質の汚染を持ち込まないように、戸外で着用していたビニール製の手袋や靴カバーなどを外したり、放射性物質のスクリーニングをするなど、チェックを受けます。放射線管理区域に入る場合はこの逆。放射性物質を外に持ち出さないための措置となります。
第一原発正門から中に入り、初めの視察施設の重要免震棟でも同じ手順で室内に入りました。この棟も事故により室内が汚染されたそうです。除染を行い、訪問時点での線量は0.4μSv まで下げ、通常の服装で作業ができるようにしたそうです。ここには、緊急対策室本部と普通は各原子炉に置かれている中央制御室の代替機能が置かれています。
緊急対策室本部は、安全・保安院、総務、広報をはじめ事故対応の各セクションの責任者が陣取る円卓と、福島第一安定化センター(福島第二原子力発電所内)や東京電力本店の非常災害対策室、福島県庁オフサイトセンターなどとつながったテレビ会議システムで構成されます。別の大型モニターには事故原発が映しだされ、各テレビ局もモニターされていました。
また、奥まった部屋にある中央制御室の代替機能は、各制御室のデータと冷却水に関するデータを一括管理しています。事故後、各原子炉の運転データは各事故機の中央制御室まででかけ、表示されているデータを読み取り対策に活用していました。作業員の被曝抑制が課題となり、低減させるため、現在の体制を構築したといいます。
事故現場はバスの中からの視察でした。タイペックを着こみ、足には2重の靴カバー、手に綿手袋とゴム手袋を重ね、頭にはすっぽりかぶるタイプのガスマスクを付けたいでたちです。この前に行われた、原子力委員会の説明会では、現在でも放射性物質が放出されていることを説明していました。人間の五感ではその存在を感じることはできません。
実際、バスの中で読み上げられる線量は、日常生活の中では聞くことのない線量でした。重要免震棟付近で20μSv、別の場所では50μSv、60μSv、3号機付近では1mSv(1,000μSv)…。
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前述のように高い線量の3号機付近。上部のむき出しになったひしゃげた鉄骨が、爆発の大きさを物語っています。現在、がれき撤去に向けて構台設置の作業がすすめられています。線量が高いためリモコン操作の機械を使用していると説明されたように思いますが、もしかしてそれは建屋内調査の機器のことだったのかもしれないので、ここらは自信がありません。
2号機の建屋は残っており、1号機はカバーで覆われ、状態をうかがい知ることは難しい。原子炉の海側にあるピットというのだろうか、大きな窪地には、津波で流されたトラックがひっくり返って落ち込んだままだったり、がれきが入った状況で、災害当時の被害の大きさを想像させる状態も残っていました。
また、外部電源喪失の原因となった、送電線の鉄塔の倒壊現場もみました。地震によるものと思われますが、南西側の斜面が崩落し、押し寄せた土砂が鉄塔をなぎ倒しています。東電は、そのようなことで外部電源を喪失するとは思いもよらなかったでしょう。災害への対応の難しさを知ることができますし、もっとも大切な電源を1系統しか確保していなかったという災害への備えの脆弱さを知ることにもなりました。
第二原発も津波災害に襲われました。南側に位置する1号機わきの緩やかな斜面を駆け上った津波は、原子炉建屋を回り込み北側の4号機に向けて押し寄せたそうです。また、建屋海側にあり海抜4mに建てられた海水熱交換器建屋はドアなどから浸水しポンプ等が破損しました。1号機の非常用ディーゼル発電機は吸気口からの浸水で被害を受けました。しかし、全体として第一原発程大きなダメージとなりませんでした。
また、生き残った廃棄物処理建屋や高圧電源車などから電源を確保でき、空輸のも含めて必要な資材を確保して原子炉の冷却系を復帰、震災から4日後の3月15日には冷温停止状態を全部の原子炉で達成できたといいます。
停止期間が長期の及ぶことから、施設の維持管理を簡素化する観点から、今後、原子炉内の燃料を使用済燃料プールへ移動する計画でいるといいます。
第二原発の視察では、4号機建屋内に入り、最上階の燃料交換器遠隔操作室から使用済燃料プールを視察。燃料棒の保管状況や、原子炉からの燃料取り出しの手順などを確認しました。
第一原発の水素爆発は、室内に水素が充満したことが原因となりましたが、この対策として、①フィルター付きベント(排気弁)を建屋に設置する、②水素と酸素を電気的に結合させる―ことが検討されていることも説明されました。ちなみにプールのある部屋の放射線量は0.7μSvから0.8μSvであることが電光表示板で確認ができました。
また原子炉格納容器内にも立ち入り、密閉容器下部の構造も視察しました。制御棒の稼働装置が下部から格納容器内部に貫通していることなどを確認。第一原発の1号機から3号機のデブリ(溶けた燃料棒)がこの部位から漏れだし、格納容器下部に落ちこんでいる状況にあることなどの説明を受けました。格納容器内の状況の確認は内部モニターなどの配管からカメラを侵入させて行うことも確認しました。
以上の視察から、第二原発が第一原発のような事故にいたらなかったのは、幸運に過ぎなかったことが確認をされたように思います。
今回の震災での波高は第二原発付近で7mから9mと推定され、同原発の原子炉は第一原発1から4号機より高い海抜12mに設置されています。それでも原子炉建屋に津波が押し寄せ立ったのは、1号機わきの緩斜面から遡上したことが原因でした。これを防止するため、緩斜面を削ったり、土のうで仮設の堤防を構築して津波の侵入を防止する措置をとりました。
また、浸水した海水熱交換器建屋の扉は、耐圧性の高い頑丈な扉に取り替えていました。
しかし、東日本大震災の最大波高は富岡町で21.1m、双葉町で16.5mとする研究結果があります。こうした波が押し寄せれば、第2原発もどうなっていたことか。また、今回とった対策でどれほど浸水を防止できるのか…。
海沿いに作られた第一、第二原発には津波災害に対する脆弱性が、もともとあるといわざるを得ません。それだけに、全部の原子炉を廃炉する措置に向けた取り組みが求められます。
また、第一原発の収束に向けた作業が一定すすんでいることは確認できたものの、工程遂行の困難な状況が確認され多様に思います。作業員の被ばくと引き換えにして、がれきの撤去等は進んできました。より困難な1から3号機内のがれきの撤去と線量の低減、そしてデブリの存在の確認とその取り出しに向けた作業の困難さは容易に想像することができます。
作業が成功することを心から望みますが、同時にこうした災害をおこさないための根本的な措置は、原子力エネルギーから自然エネルギーや再生可能エネルギーの開発・利用に切り替えて行くための措置をすすめていくことにあると感じます。引き続き、このことを強く求めていきたいと想います。
ちなみにJビレッジを出発してから戻るまでの7時間で、積算した被ばく線量は32μSvでした。我が家の戸外で線量は0.2から0.3μSvであり、仮に市内に滞在している時の被ばく線量を1時間辺り平均0.2μSvと仮定して計算すれば、約7日分を7時間で被ばくした計算になります。ちなみに4号機の格納容器内には40分程度滞在したと思いますが、その間の被ばく線量は10μSvでした。
※写真は東京電力のホームページよりダウンロードしトリミングしたもので2012年6月に撮影されたものです。
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