明日22日まで植田公民館祭りが開かれていますが、その一環で「サークル『平和を語る集い』」が「平和のための勿来の戦争展」も開催されています。きょうは戦争体験を語る会が開かれ、植田町在住の中根豊蔵さんの「戦争を語る・・大津空襲のころ」をテーマにしたお話を聞いてきました。
1942(昭和17)年から通信省で電信技師として勤めた中根さんは、やがて「できるだけ実家に近いところがいい」と考え、2年ほどたって日立局に転勤しました。その頃は、アメリカの攻勢が強まり、毎夜、B29が飛来して、重要書類を地下室に入れることが日課になっていたそうです。
制空権も制海権もほぼアメリカの手中にあり、爆撃機が飛来して日立多賀にあった高射砲で迎え撃っても弾が届かない。機体より低い場所で煙が上がっているようだったといいます。
当時、日立では戦闘機や偵察機が1機は飛行していたそうですが、ある日勤務交代のため局に向かって歩いているときに戦闘機に出くわしました。海岸に向けて逃げ出したものの、追ってきた戦闘機は中根さんが隠れた大木をグルグル回るように飛行し、それから逃げるように自分も回っていたそうです。戦闘機が急旋回する時の操縦士がニヤニヤした表情をしているのが見えるくらい低空で飛行したというのです。
当時の日本本土の上空はアメリカ軍にとって危険のない状態だったのでしょう。
また日立に向けて艦砲射撃もされていました。局の近くの日立の工場で挺身隊として働いていた女子学生の寮が直撃をうけ、頭や手足がもげたりした状態の遺体がゴロゴロしている状態でした。片付けの手伝いに動員されましたが、最後まで手伝うことができなかったといいます。
戦闘機に追われた数日後、局の仲間と日立鉱山のほうに出かけると、音楽が聞こえてきたといいます。いぶかって音のする場所を探り当てると、板塀の向こうでバイオリンやマンドリンのような弦楽器、長い大きな太鼓を使い3人の捕虜がジャズを演奏していた。この時の音楽はいまでも思い出されるといいます。
興味深いのは、アメリカ軍が食糧や菓子、タバコなどを、航空機からパラシュートで降下し、収容所に補給していたようだった、というのです。楽器もこのような方法で補給されたものだったのでしょう。アメリカ軍は、日本の上空で何でもできたということですから、この頃すでに日本の敗戦は確実な状況になっていたということなのだということを思いした。
「半年も前に戦争が終わっていれば、被害は半分で澄んだのではないか」
中根さんは当時を振り返ってこう述懐し、再びこの時代を繰り返さないことを訴えていました。
話を聞いていた女性は、「3機の戦闘機がキていたのを見ました。海の方から何度も飛んで来た。町を歩く時、白い服は目立つので黒っぽい服を着ていました」などと、当時の生活を振り返っていました。
続いて蛭田睦さんが、「道徳教育教科化で特定の価値観が植え込まれかねない」と、と道徳の教科化を批判しながら、戦前の日本の教育で使われた尋常小学校の1年制向けの教科書では、絵に書かれた場面から道徳を子どもたちに教え、最後に「てんのうへいかばんざい」と、天皇への忠誠を教えこんでいたことを紹介していました。
また、「戦争にいくことだけを教育されてきた自分は、戦争をしないと書いてありがっかりした」と新憲法制定時の思いを振り返り、新しい憲法のパンフを読みすすむうちに、「こんな素晴らしいものがあるのか」と思って自分の価値観が生まれ変わった体験を語っていました。
会場には様々な展示もされています。戦前、いわき市には炭砿などに朝鮮人が連行され働かされていました。こうした実態を韓国に渡航しながら調査をすすめている龍田さんは、調査結果を模造紙に書き出し紹介する展示をしています。
これまで3回韓国に出かけ、強制連行の実態の調査などをすすめてきたそうですが、今回は、地域の長老などに日本の支配下での挑戦の状況も聞き取ってきたといいます。町の名称を日本風に改めるなど日本化を押し付けた日本は、朝鮮でも松根油の製造や校庭でのイモ栽培など、日本国内で国民に押し付けた労働を朝鮮の人々にも押し付けていたことが分かる証言も紹介されています。
「長老たちにとっては、植民地時代の苦い経験は日常のものであった。それを『認めない』ということは『考えられないこと』という。訪問中の彼らが私に示してくれた好意はすべての日本人に向けられたものである。事実を認めて未来に向けての和解を」
韓国調査をまとめた展示はこのような言葉で結ばれていますが、過去を知る調査は未来を創造するための調査だという、その訴えに心が動かされます。
22日は、午前10時30分から原爆投下と核兵器への怒りを訴えるアニメ「おこりじぞう」が上映され、午後1時からは韓国での調査などの展示資料に関する説明会が催されます。会の1人が「おすすめです」と来場を呼びかけていますので、時間があればぜひご来場ください。会場は2階和室の一角です。私は残念ながら時間がとれそうにない。
1942(昭和17)年から通信省で電信技師として勤めた中根さんは、やがて「できるだけ実家に近いところがいい」と考え、2年ほどたって日立局に転勤しました。その頃は、アメリカの攻勢が強まり、毎夜、B29が飛来して、重要書類を地下室に入れることが日課になっていたそうです。
制空権も制海権もほぼアメリカの手中にあり、爆撃機が飛来して日立多賀にあった高射砲で迎え撃っても弾が届かない。機体より低い場所で煙が上がっているようだったといいます。
当時、日立では戦闘機や偵察機が1機は飛行していたそうですが、ある日勤務交代のため局に向かって歩いているときに戦闘機に出くわしました。海岸に向けて逃げ出したものの、追ってきた戦闘機は中根さんが隠れた大木をグルグル回るように飛行し、それから逃げるように自分も回っていたそうです。戦闘機が急旋回する時の操縦士がニヤニヤした表情をしているのが見えるくらい低空で飛行したというのです。
当時の日本本土の上空はアメリカ軍にとって危険のない状態だったのでしょう。
また日立に向けて艦砲射撃もされていました。局の近くの日立の工場で挺身隊として働いていた女子学生の寮が直撃をうけ、頭や手足がもげたりした状態の遺体がゴロゴロしている状態でした。片付けの手伝いに動員されましたが、最後まで手伝うことができなかったといいます。
戦闘機に追われた数日後、局の仲間と日立鉱山のほうに出かけると、音楽が聞こえてきたといいます。いぶかって音のする場所を探り当てると、板塀の向こうでバイオリンやマンドリンのような弦楽器、長い大きな太鼓を使い3人の捕虜がジャズを演奏していた。この時の音楽はいまでも思い出されるといいます。
興味深いのは、アメリカ軍が食糧や菓子、タバコなどを、航空機からパラシュートで降下し、収容所に補給していたようだった、というのです。楽器もこのような方法で補給されたものだったのでしょう。アメリカ軍は、日本の上空で何でもできたということですから、この頃すでに日本の敗戦は確実な状況になっていたということなのだということを思いした。
「半年も前に戦争が終わっていれば、被害は半分で澄んだのではないか」
中根さんは当時を振り返ってこう述懐し、再びこの時代を繰り返さないことを訴えていました。
話を聞いていた女性は、「3機の戦闘機がキていたのを見ました。海の方から何度も飛んで来た。町を歩く時、白い服は目立つので黒っぽい服を着ていました」などと、当時の生活を振り返っていました。
続いて蛭田睦さんが、「道徳教育教科化で特定の価値観が植え込まれかねない」と、と道徳の教科化を批判しながら、戦前の日本の教育で使われた尋常小学校の1年制向けの教科書では、絵に書かれた場面から道徳を子どもたちに教え、最後に「てんのうへいかばんざい」と、天皇への忠誠を教えこんでいたことを紹介していました。
また、「戦争にいくことだけを教育されてきた自分は、戦争をしないと書いてありがっかりした」と新憲法制定時の思いを振り返り、新しい憲法のパンフを読みすすむうちに、「こんな素晴らしいものがあるのか」と思って自分の価値観が生まれ変わった体験を語っていました。
会場には様々な展示もされています。戦前、いわき市には炭砿などに朝鮮人が連行され働かされていました。こうした実態を韓国に渡航しながら調査をすすめている龍田さんは、調査結果を模造紙に書き出し紹介する展示をしています。
これまで3回韓国に出かけ、強制連行の実態の調査などをすすめてきたそうですが、今回は、地域の長老などに日本の支配下での挑戦の状況も聞き取ってきたといいます。町の名称を日本風に改めるなど日本化を押し付けた日本は、朝鮮でも松根油の製造や校庭でのイモ栽培など、日本国内で国民に押し付けた労働を朝鮮の人々にも押し付けていたことが分かる証言も紹介されています。
「長老たちにとっては、植民地時代の苦い経験は日常のものであった。それを『認めない』ということは『考えられないこと』という。訪問中の彼らが私に示してくれた好意はすべての日本人に向けられたものである。事実を認めて未来に向けての和解を」
韓国調査をまとめた展示はこのような言葉で結ばれていますが、過去を知る調査は未来を創造するための調査だという、その訴えに心が動かされます。
22日は、午前10時30分から原爆投下と核兵器への怒りを訴えるアニメ「おこりじぞう」が上映され、午後1時からは韓国での調査などの展示資料に関する説明会が催されます。会の1人が「おすすめです」と来場を呼びかけていますので、時間があればぜひご来場ください。会場は2階和室の一角です。私は残念ながら時間がとれそうにない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます