中矢伸一氏は著書の中で、このように言われています。
『日月神示の特異性について論じる時、見逃してならないのは、そこに一貫して流れるアンビバレント(両面価値的)な姿勢である。
ある時は「金も人も要らぬ」といい、ある時は「金も人も要る」という。
また、「集団(まどい)作ってはならぬ」とあるが、「集団作れ」ともある。
「急いではならんぞ、急がねばならんぞ」(「地つ巻」第十八帖)という言葉もある。
原文を読む人の中には、こうした神示の”二重基準(ダブルスタンダード)”を思わせる表現に、戸惑う向きもあるかも知れない。人によっては、その一節のみを抽出し、勝手な解釈をして、あらぬ方向へ走る人もあるようだ。つまり、「金も人も要る」とも示されているからといって、寄付金やら信者集めのような、宗教的行為を始めるようなケースである。
日月神示に記された言葉は、ある部分、極めて具体的であるが、抽象性もまた高い。解釈の仕様によっては、いかようにでも取れるようになっている。
「この神示、八通りに読めるのざぞ」と数ヶ所示されているのは、そうした意味もあるのだろう。
何故、「こうしなさい」「こうしてはならない」と具体的に、いっさい疑問や独善的解釈の入る余地のないように明確に述べされていないのか。
実は、ここのところにこそ、既成宗教の教典や教義には見られない、極めて重要な特徴が表れているのだ。
それはすなわち、神はわれわれ一人一人に、自分の霊性に基づく正しい「判断力」を発揮することを求めている、ということに他ならない。
普通、宗教には教典や教義があって、日常の行動様式がハッキリとしている。どういう生き方をすれば良いか、すべての規範はその教典や戒律、あるいは教祖・宗祖の指し示すところに委ねられる。
この場合、判断の基準というのは、絶対的にその教典なり教祖なり、他者の側にある。
自分にあるのではない。自分はむしろ判断してはいけないことになっている。あくまで従順に、私心を差し挟むことなく、その教えるところに従うことが要求される。
これが、宗教が持つ根本的な弊害なのである。
霊性進化の途上において、人によっては、ある程度までこうしたやり方が必要な場合もあろう。しかしこの段階は、私がたびたび自著の中で述べているように、神が自分の外にある状態なのである。いわゆる「外在の神」である。
「外在の神」のレヴェルにある時は、ああしろ、こうしろと、いちいち指示を受けなくてはならない。自分の考えや判断の基準というのはそこにはない。教義や戒律の内容、あるいは教祖の方針に変更があれば、何の疑問も持たずにそれになびいていく。
Θで言えば、ゝ(神)と○(身体)とが分離している。いわば、ゝが○の外にある状態なのである。
神の分霊たる人(霊止)の、本来の姿とは、Θである。神が自分の中にしっくりと納まっている状態であり、こうなると、教義や戒律といった手カセ足カセは必要なくなる。すなわち、宗教というものに属する必要もなくなるのである。
このΘの状態を称して「内在の神」という。つまり、「神」と「人」とが一体となった「神人(かみひと)」である。
われわれ人類は、一人一人がこの「神人」を目指さなくてはならない。すべての判断を教団や教祖、あるいは霊能者に委ねているうちは、霊性の発展段階としてはまだまだ未熟なのである。
日月神示は、そのことを踏まえた上で、縁ある身魂に様々な示唆を与えようとしている。他を頼るのではなく、自分自身の足で、真理の大道を歩ませようとしているのだ。
「道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさしてくれるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ」(「下つ巻」第十一帖)
「道は自分で歩まねばならん。自分の口で食物噛まねばならん。噛みしめよ」(黒鉄の巻」第四帖)
「他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民たちよ、もうその時は過ぎているのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地を踏みしめよ、大地の気が身内に甦るぞ」(「扶桑之巻」第十五帖)
「気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かせてくれるのではないぞ」(「月光の巻」第四十七帖)
などと示されているのは、そうした意味からである。』(中矢伸一氏著「正釈 日月神示」より)
この著書を読むと、人にとって、初歩の段階では一般的な宗教のように、教義や戒律に従って信仰して行くことも必要かも知れないが、最終的には戒律や教祖の言いなりになるのではなく、自分自身で判断を下して進むことが大事だと言われています。これこそ、神が自分の中におられる状態という意味になります。
このことからしても、日月神示は脱宗教と言えると思います。より正確には、脱宗教団体と言った方がよいかも知れません。教祖の言うことだけを、100%実行するのではなく、自分で考え、自分で判断して決めなさいということです。上級の信仰とも言えると思います。キリスト教や仏教にもあるように、人を殺してはいけない、盗んではいけないなどの人間としての基本もできてない人は、戒律に縛られるべきなのは当然ですが。
自分なりにまとめると、
初級:戒律必要(=単なる人間、外在の神)
↓
上級:戒律・教祖・宗教団体は不要(=神人、内在の神)
教祖も宗教団体も不要などと説いている神は、聞いたことがありません。神の言葉(日月神示)に沿って、自分で判断して自分で決めろという道なのだと思います。自己責任の道ですから、結果は自分で責任を取るのが当たり前になります。厳しいですが、そのほうがやり甲斐があって、自分には合ってると感じました。
*外字登録をしていませんので、恐縮ですがΘとゝを便宜上使っています。
『日月神示の特異性について論じる時、見逃してならないのは、そこに一貫して流れるアンビバレント(両面価値的)な姿勢である。
ある時は「金も人も要らぬ」といい、ある時は「金も人も要る」という。
また、「集団(まどい)作ってはならぬ」とあるが、「集団作れ」ともある。
「急いではならんぞ、急がねばならんぞ」(「地つ巻」第十八帖)という言葉もある。
原文を読む人の中には、こうした神示の”二重基準(ダブルスタンダード)”を思わせる表現に、戸惑う向きもあるかも知れない。人によっては、その一節のみを抽出し、勝手な解釈をして、あらぬ方向へ走る人もあるようだ。つまり、「金も人も要る」とも示されているからといって、寄付金やら信者集めのような、宗教的行為を始めるようなケースである。
日月神示に記された言葉は、ある部分、極めて具体的であるが、抽象性もまた高い。解釈の仕様によっては、いかようにでも取れるようになっている。
「この神示、八通りに読めるのざぞ」と数ヶ所示されているのは、そうした意味もあるのだろう。
何故、「こうしなさい」「こうしてはならない」と具体的に、いっさい疑問や独善的解釈の入る余地のないように明確に述べされていないのか。
実は、ここのところにこそ、既成宗教の教典や教義には見られない、極めて重要な特徴が表れているのだ。
それはすなわち、神はわれわれ一人一人に、自分の霊性に基づく正しい「判断力」を発揮することを求めている、ということに他ならない。
普通、宗教には教典や教義があって、日常の行動様式がハッキリとしている。どういう生き方をすれば良いか、すべての規範はその教典や戒律、あるいは教祖・宗祖の指し示すところに委ねられる。
この場合、判断の基準というのは、絶対的にその教典なり教祖なり、他者の側にある。
自分にあるのではない。自分はむしろ判断してはいけないことになっている。あくまで従順に、私心を差し挟むことなく、その教えるところに従うことが要求される。
これが、宗教が持つ根本的な弊害なのである。
霊性進化の途上において、人によっては、ある程度までこうしたやり方が必要な場合もあろう。しかしこの段階は、私がたびたび自著の中で述べているように、神が自分の外にある状態なのである。いわゆる「外在の神」である。
「外在の神」のレヴェルにある時は、ああしろ、こうしろと、いちいち指示を受けなくてはならない。自分の考えや判断の基準というのはそこにはない。教義や戒律の内容、あるいは教祖の方針に変更があれば、何の疑問も持たずにそれになびいていく。
Θで言えば、ゝ(神)と○(身体)とが分離している。いわば、ゝが○の外にある状態なのである。
神の分霊たる人(霊止)の、本来の姿とは、Θである。神が自分の中にしっくりと納まっている状態であり、こうなると、教義や戒律といった手カセ足カセは必要なくなる。すなわち、宗教というものに属する必要もなくなるのである。
このΘの状態を称して「内在の神」という。つまり、「神」と「人」とが一体となった「神人(かみひと)」である。
われわれ人類は、一人一人がこの「神人」を目指さなくてはならない。すべての判断を教団や教祖、あるいは霊能者に委ねているうちは、霊性の発展段階としてはまだまだ未熟なのである。
日月神示は、そのことを踏まえた上で、縁ある身魂に様々な示唆を与えようとしている。他を頼るのではなく、自分自身の足で、真理の大道を歩ませようとしているのだ。
「道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさしてくれるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ」(「下つ巻」第十一帖)
「道は自分で歩まねばならん。自分の口で食物噛まねばならん。噛みしめよ」(黒鉄の巻」第四帖)
「他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民たちよ、もうその時は過ぎているのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地を踏みしめよ、大地の気が身内に甦るぞ」(「扶桑之巻」第十五帖)
「気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かせてくれるのではないぞ」(「月光の巻」第四十七帖)
などと示されているのは、そうした意味からである。』(中矢伸一氏著「正釈 日月神示」より)
この著書を読むと、人にとって、初歩の段階では一般的な宗教のように、教義や戒律に従って信仰して行くことも必要かも知れないが、最終的には戒律や教祖の言いなりになるのではなく、自分自身で判断を下して進むことが大事だと言われています。これこそ、神が自分の中におられる状態という意味になります。
このことからしても、日月神示は脱宗教と言えると思います。より正確には、脱宗教団体と言った方がよいかも知れません。教祖の言うことだけを、100%実行するのではなく、自分で考え、自分で判断して決めなさいということです。上級の信仰とも言えると思います。キリスト教や仏教にもあるように、人を殺してはいけない、盗んではいけないなどの人間としての基本もできてない人は、戒律に縛られるべきなのは当然ですが。
自分なりにまとめると、
初級:戒律必要(=単なる人間、外在の神)
↓
上級:戒律・教祖・宗教団体は不要(=神人、内在の神)
教祖も宗教団体も不要などと説いている神は、聞いたことがありません。神の言葉(日月神示)に沿って、自分で判断して自分で決めろという道なのだと思います。自己責任の道ですから、結果は自分で責任を取るのが当たり前になります。厳しいですが、そのほうがやり甲斐があって、自分には合ってると感じました。
*外字登録をしていませんので、恐縮ですがΘとゝを便宜上使っています。