昨日の中矢伸一氏の著書の続きです。
『神に対して素直になり、謙虚な気持ちになることは勿論大切である。信仰というのは、まず神に任せきるところから始まる。
しかし、それはあくまで自分自身の足で歩き、努力を重ねた上でのことである。
自分では何の努力もせず、何も考えず、すべて他人まかせで、他者に判断と責任を押しつけているようでは、いつまでたってもけっして神の御意に添うことはなく、また自分のためにもならないのである。
一つの宗教に囚われ、無我夢中になることは神意ではなく、かと言って宗教を頭から否定し、「神がいるならさっさと救ったらいいではないか」と主張することもまた神意ではない。
われわれ一人一人が確立すべき生き方とは、自分の頭で真剣に考え、判断を下し、それに基づいた行動を起こし、しかる後に反省し、その行動に対して自ら責任を取る、というプロセスの繰り返しである。その中で、神仏に対する敬虔な思いを片時も忘れず、すべてにおいて任せきるという真の信仰を持つことが必要となってくるのである。
このバランス感覚は難しく思えるかも知れないが、この姿勢こそ神がわれわれに期待される生き方であり、これ以外に「神人一体」に至る道はない。そしてそのコツは、自分自身が、体験を通じて会得するしかないのである。
こう考えると、日月神示に、
「自分で判断できることを何故に聞くのぢゃ。神に聞けば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いクセぞ。出直せよ」(「月光の巻」第十四帖)
「一足飛びには行かん。一歩一歩と申してあろう。一度に神様を知りたいと申してもそうはいかん。一年生からぢゃ。出直し出直し。子供に大学のことは判らん。十貫の荷物は担げん道理。進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。金もいるぞ。汗もいるぞ。血もいるぞ。涙もいるぞ。良いものほど値が高い」(「春の巻」第五十八帖)
「信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治るとみるのは間違い。迷信ぞ。時間もいり手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取り違い多いのう」(「夏の巻」第九帖)
などと示されている意味がよく納得出来るのではあるまいか。
細かく、具体的にああしろ、こうしろと明示しないのはそのためなのである。
「細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして神から御礼申すぞ」(「上つ巻」第二十七帖)
「何でも判るように神示で知らしておくぞ。(中略)この神示も身魂によりどんなにでも取れるように書いておくから、取り違いせんようにしてくれ」(上つ巻」第二十七帖)
「知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん」(「春の巻」第四十三帖)
神示に示された”親心”を汲み取って、天地に働くのは、われら臣民の務めであると言えよう。そのように努力を重ねる過程で、失敗もあり、成功もあり、損をすることもあり、上手くいくこともあり、凶が吉に転ずることもある。
かくして、神示が血肉となり、揺ぎない信仰が確立され、どんな時にも常に「嬉
し嬉し」の気持ちで動ずることのない、はらに神のしっくりと鎮まった「神人」へと昇華(しょうげ)が許されるのである。(・・・続く)
この内容は、日月神示を実践するにおいて、最も重要なポイントだと思います。
つまり、
---------------------------------
<神に対する敬虔な思いを忘れず、全て神に任せきるという真の信仰の基盤で>
自分で考える→ 自分で判断を下す→ 判断に基づいた行動をする
↑ ↓
自分で責任を取る ← その行動を反省する
〔この繰り返し〕
---------------------------------
これは一朝一夕には会得できませんが、1年、10年、30年かけて体得していきたいと思います。そして、あの世に行ってからもやり続けたいと思います。
『神に対して素直になり、謙虚な気持ちになることは勿論大切である。信仰というのは、まず神に任せきるところから始まる。
しかし、それはあくまで自分自身の足で歩き、努力を重ねた上でのことである。
自分では何の努力もせず、何も考えず、すべて他人まかせで、他者に判断と責任を押しつけているようでは、いつまでたってもけっして神の御意に添うことはなく、また自分のためにもならないのである。
一つの宗教に囚われ、無我夢中になることは神意ではなく、かと言って宗教を頭から否定し、「神がいるならさっさと救ったらいいではないか」と主張することもまた神意ではない。
われわれ一人一人が確立すべき生き方とは、自分の頭で真剣に考え、判断を下し、それに基づいた行動を起こし、しかる後に反省し、その行動に対して自ら責任を取る、というプロセスの繰り返しである。その中で、神仏に対する敬虔な思いを片時も忘れず、すべてにおいて任せきるという真の信仰を持つことが必要となってくるのである。
このバランス感覚は難しく思えるかも知れないが、この姿勢こそ神がわれわれに期待される生き方であり、これ以外に「神人一体」に至る道はない。そしてそのコツは、自分自身が、体験を通じて会得するしかないのである。
こう考えると、日月神示に、
「自分で判断できることを何故に聞くのぢゃ。神に聞けば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いクセぞ。出直せよ」(「月光の巻」第十四帖)
「一足飛びには行かん。一歩一歩と申してあろう。一度に神様を知りたいと申してもそうはいかん。一年生からぢゃ。出直し出直し。子供に大学のことは判らん。十貫の荷物は担げん道理。進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。金もいるぞ。汗もいるぞ。血もいるぞ。涙もいるぞ。良いものほど値が高い」(「春の巻」第五十八帖)
「信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治るとみるのは間違い。迷信ぞ。時間もいり手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取り違い多いのう」(「夏の巻」第九帖)
などと示されている意味がよく納得出来るのではあるまいか。
細かく、具体的にああしろ、こうしろと明示しないのはそのためなのである。
「細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして神から御礼申すぞ」(「上つ巻」第二十七帖)
「何でも判るように神示で知らしておくぞ。(中略)この神示も身魂によりどんなにでも取れるように書いておくから、取り違いせんようにしてくれ」(上つ巻」第二十七帖)
「知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん」(「春の巻」第四十三帖)
神示に示された”親心”を汲み取って、天地に働くのは、われら臣民の務めであると言えよう。そのように努力を重ねる過程で、失敗もあり、成功もあり、損をすることもあり、上手くいくこともあり、凶が吉に転ずることもある。
かくして、神示が血肉となり、揺ぎない信仰が確立され、どんな時にも常に「嬉
し嬉し」の気持ちで動ずることのない、はらに神のしっくりと鎮まった「神人」へと昇華(しょうげ)が許されるのである。(・・・続く)
この内容は、日月神示を実践するにおいて、最も重要なポイントだと思います。
つまり、
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<神に対する敬虔な思いを忘れず、全て神に任せきるという真の信仰の基盤で>
自分で考える→ 自分で判断を下す→ 判断に基づいた行動をする
↑ ↓
自分で責任を取る ← その行動を反省する
〔この繰り返し〕
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これは一朝一夕には会得できませんが、1年、10年、30年かけて体得していきたいと思います。そして、あの世に行ってからもやり続けたいと思います。