神額にも「十六善神社」って書いてある。
ああ、ここで間違いなかった〜。
一の鳥居と二の鳥居が市の有形文化財に指定されている「十六善神社」です。
「この神社はもとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神といわれていました。
一の鳥居は安永五年(1776年)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んであります。二の鳥居右柱には『當村領主、三村□□□門』と刻まれています。諌早一揆の中心人物であった諌早家老 三村惣左衛門の寄進と思われます。」
隣にも鳥居が建っています。
扁額には「忠魂」と書かれています。
忠霊塔のようですね。
「延宝三年(1675年)に痘瘡(天然痘)が流行した時、神のお告げにより神社を現在の位置に遷して祀ったところ、痘瘡の流行が止んだといわれます。専務神官をおいたのは寛文十六年(1661年)といいますから、浮津宮時代からの神官ということになります。以来十二代に亘って高井良氏が奉仕されたが、現在は神官不在です。(※昭和40年頃の話で、現在は地元住民が維持管理しているそうです。)
ともあれ、十六善神社は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もありました。諌早家においても毎年代参を遣わし、米十二俵が供進されたのであった。
天保十四年、藩主鍋島家の若君 勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参籠するようお達しがあっている。
神社には宝物の神劍一振りが蔵されていたが、昭和二十年占領軍(米軍)による武器押収のため持ち去られた。」
新しい方の多良見町の郷土誌にはもう少し色々と書いてあるのだが、量が多いし、今のところ重要度もそれ程高くないので割愛する。
ああ、ここで間違いなかった〜。
一の鳥居と二の鳥居が市の有形文化財に指定されている「十六善神社」です。
「この神社はもとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神といわれていました。
一の鳥居は安永五年(1776年)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んであります。二の鳥居右柱には『當村領主、三村□□□門』と刻まれています。諌早一揆の中心人物であった諌早家老 三村惣左衛門の寄進と思われます。」
隣にも鳥居が建っています。
扁額には「忠魂」と書かれています。
忠霊塔のようですね。
「延宝三年(1675年)に痘瘡(天然痘)が流行した時、神のお告げにより神社を現在の位置に遷して祀ったところ、痘瘡の流行が止んだといわれます。専務神官をおいたのは寛文十六年(1661年)といいますから、浮津宮時代からの神官ということになります。以来十二代に亘って高井良氏が奉仕されたが、現在は神官不在です。(※昭和40年頃の話で、現在は地元住民が維持管理しているそうです。)
ともあれ、十六善神社は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もありました。諌早家においても毎年代参を遣わし、米十二俵が供進されたのであった。
天保十四年、藩主鍋島家の若君 勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参籠するようお達しがあっている。
神社には宝物の神劍一振りが蔵されていたが、昭和二十年占領軍(米軍)による武器押収のため持ち去られた。」
新しい方の多良見町の郷土誌にはもう少し色々と書いてあるのだが、量が多いし、今のところ重要度もそれ程高くないので割愛する。