正面からの撮影を忘れていました。
何度目かの訪問になる多良見町散策です。w
喜々津駅周辺が現在再開発中で、場所は変わっていないのだが、道が分からず探しました。
先日紹介した諫早市多良見支所に出向いて道をお聞きしました。
(多良見支所の皆様、先日はお邪魔しました。お陰様で無事、目的地まで到達する事が出来ました。)
写真の公園には「化屋名塩浜跡石碑」という諫早市指定有形文化財があります。
「喜々津村に塩田が開かれたのは、江戸時代初期(寛永の頃1624〜1644年)で、久山側から喜々津川河口へと拡げられ、塩浜八町(一町は約9917㎡)といわれた。そこには塩炊き窯が五軒あり、この辺りを化屋(けや)と呼んだ。ここでは、年間約八百石余(一石は約180ℓ)の塩が生産され、諌早方面へ納められていた。※
明治時代に国営の専売局に引き継がれたが、明治四十三年(1910年)に廃止され、塩田は大島の丘の土で次々に埋め立てられ畑地となった。
その埋め立て終了を記念し、大正三年(1914年)に、原口駒太郎氏によって、この石碑が建立された。」(諫早市教育委員会)
※「諌早方面へ納められていた」;どうもこの表現が引っ掛かります。諌早方面?江戸時代の諌早は確か佐賀藩領地だった筈。
何度目かの訪問になる多良見町散策です。w
喜々津駅周辺が現在再開発中で、場所は変わっていないのだが、道が分からず探しました。
先日紹介した諫早市多良見支所に出向いて道をお聞きしました。
(多良見支所の皆様、先日はお邪魔しました。お陰様で無事、目的地まで到達する事が出来ました。)
写真の公園には「化屋名塩浜跡石碑」という諫早市指定有形文化財があります。
「喜々津村に塩田が開かれたのは、江戸時代初期(寛永の頃1624〜1644年)で、久山側から喜々津川河口へと拡げられ、塩浜八町(一町は約9917㎡)といわれた。そこには塩炊き窯が五軒あり、この辺りを化屋(けや)と呼んだ。ここでは、年間約八百石余(一石は約180ℓ)の塩が生産され、諌早方面へ納められていた。※
明治時代に国営の専売局に引き継がれたが、明治四十三年(1910年)に廃止され、塩田は大島の丘の土で次々に埋め立てられ畑地となった。
その埋め立て終了を記念し、大正三年(1914年)に、原口駒太郎氏によって、この石碑が建立された。」(諫早市教育委員会)
※「諌早方面へ納められていた」;どうもこの表現が引っ掛かります。諌早方面?江戸時代の諌早は確か佐賀藩領地だった筈。