雲仙市愛野町にある「首塚」です。
実は数年前から探していました。
大体の場所は見当がついていたのですが、近くに車を停められる場所がなく、後回しになっていた史跡です。
先日、地元のローカルテレビを見ていたら生中継をやっていたので、正確な場所の確認が出来ました。w
その上でテレビの画面を通して、「ちょっとの間だったら車を停めても迷惑にならない」と判断し、今回長崎からの帰り道で立ち寄ってきました。
『直径10m、高さ5mの円墳です。寛永十四年(1637年)島原の乱後、キリシタン一万人の首級を三分し、長崎の西坂・天草の苓北町富岡・そしてここ愛野(旧愛津村)の三カ所にそれぞれ埋祀したと伝えられています。
また、別にこの地は暴徒と化した一揆軍が小浜・千々石方面から攻め上がってきたので、愛野・吾妻地区の代官・庄屋・村人がこれを防戦した時、双方の戦死者を葬ったという説もあります。
なお現在は、古墳時代後期六〜七世紀、この地方を支配した豪族の墳墓ではないかとも考えられています。
平成十七年 愛野町教育委員会』
「首塚」と恐ろしい名前がついていますが、どうやら最後の説が一番有力らしく、島原の乱とは関係がないと私も聞いたことがあります。
実は数年前から探していました。
大体の場所は見当がついていたのですが、近くに車を停められる場所がなく、後回しになっていた史跡です。
先日、地元のローカルテレビを見ていたら生中継をやっていたので、正確な場所の確認が出来ました。w
その上でテレビの画面を通して、「ちょっとの間だったら車を停めても迷惑にならない」と判断し、今回長崎からの帰り道で立ち寄ってきました。
『直径10m、高さ5mの円墳です。寛永十四年(1637年)島原の乱後、キリシタン一万人の首級を三分し、長崎の西坂・天草の苓北町富岡・そしてここ愛野(旧愛津村)の三カ所にそれぞれ埋祀したと伝えられています。
また、別にこの地は暴徒と化した一揆軍が小浜・千々石方面から攻め上がってきたので、愛野・吾妻地区の代官・庄屋・村人がこれを防戦した時、双方の戦死者を葬ったという説もあります。
なお現在は、古墳時代後期六〜七世紀、この地方を支配した豪族の墳墓ではないかとも考えられています。
平成十七年 愛野町教育委員会』
「首塚」と恐ろしい名前がついていますが、どうやら最後の説が一番有力らしく、島原の乱とは関係がないと私も聞いたことがあります。