2017.11.29なので、「い〜な、いい肉」でよろしいのでは無いのか。来年は「い〜は、いい肉」で。元号読みだと平成29年で「肉いい肉」になりますな。来年は「三重いい肉」でしょうか。
まあこういった日に限っていい肉は特売されないわけですね。
あら、書いちゃった。
2017.11.29なので、「い〜な、いい肉」でよろしいのでは無いのか。来年は「い〜は、いい肉」で。元号読みだと平成29年で「肉いい肉」になりますな。来年は「三重いい肉」でしょうか。
まあこういった日に限っていい肉は特売されないわけですね。
あら、書いちゃった。
今回で最終回です。皆様長らく有難うございました。まずはとりとめの無い話から。
日馬富士が引退しました。なぜかBBCの記事です。結構この話題世界に飛んでいっているようです。
相撲協会の調査報告書が出てから引退なのではと思っていたら、来場所の組合せを決定するのが今日だということで、今日引退で無いと来場所に問題が起きる、つまり刑事事件になってしまったりしたら目も当てられない、横綱が一人急に休場ですから、興行的にも問題が出てくるわけで。横綱審議会も厳しかったと言うのもあって、引退宣言になったようです。
でもこれで刑事告発されやすくなったのも確かです。いえ普通は刑事事件ですね。相撲取りだから仕方がないと言うのは、もう無理かも知れません。
しかもモンゴル人が強いのは分かりますが、馴れ合っていたのがよく分かる事件でした。馴れ合い禁止にしていた貴ノ花部屋の貴の岩が、モンゴル人同士の馴れ合いに入ってこないので目をつけられたというニュアンスが濃厚です。何しろ白鳳も鶴竜も、誰も日馬富士を止めなかったのですから、その辺は話し合っていたのではないのかと疑われてしまうわけです。つまりイジメで、しかもライバル候補を潰そうとした陰惨な事件であった可能性もあるわけです。凶器もビールジョッキからビール瓶に変わって、ビール瓶は取り落として素手で殴ったになって、カラオケのリモコンに変わって灰皿になってと変な話で、ビール瓶で殴ると殺意があると認められるので単なるケンカから殺意をもったと思われるものに変わる訳で、刑事事件から逃れるために誰かが入れ知恵をしたのかとも疑われる変遷でした。
わたし自身は相撲は興行だと思っています。日本の古来からの神聖な行事だとは思っていません。なので八百長とかも別に気にしません。ですがバレてはいけないわけです。バレる様なヘタクソを見たいわけではありません。絶妙でなければいけません。その上で強くなりそうな奴を後ろで潰したりするとか、そういったことはしてはいけないわけで、実はこれは相当難しい事です。昔から星の貸し借りと言うのはあったようですが、それでも体調とかそういったことが影響するわけです。打ち合わせどうりにはいかない。その上、星を返してくれるとも限らないわけです。
貴ノ花が何かこういったことに過剰に反応するのは、貴ノ浪を見てきたのが大きいんじゃないのかと思う。本当は横綱級だったのだが、星の貸し借りで回らなくなって、全盛時代を逃したフシがある。
複雑になった星の貸し借りが嵩じて、幕下力士がその帳簿をあずかる事態になったのが判明した八百長事件だった訳です。
まあその前に相撲中継の時間制限の為に、立ち合いの制限とか色々あるのが相撲です。そういったことも、実はないわけでは無いと思います。興行としては盛り上がるプログラムをワンサカ組みたいのだが、出来ない。制限時間いっぱいの取組ばかりだとお客は喜ぶが、放送時間を超えてしまう可能性があって、その絶妙なニュアンスしか組めなくなるわけです。ある意味で八百長と言うのは便利なシステムでもあったと思います。
今後横綱を引退したという社会的責任で日馬富士を刑事告発するかどうか、警察と検察の動きが気になりますが、横綱審議会が鶴竜を許すかどうかが次の場所の視点になるかと思います。今回の件でモンゴル人相撲取りの懇親会は制限されるでしょう。そのなかで談合があったかどうかは、彼らがどういった取り組みをするかで見えてしまいます。鶴竜も出場せざるを得ないでしょう。その前に鶴竜と稀勢の里は横綱審議会で問題になったので、いつ引退になるのかも分かりません。
相撲は伝統芸能だと思います。なので多少の不祥事はまあいいんじゃないのかと思いますが、やっぱり人を殺したり再起不能に近いところまでやってしまうのは間違っている。なんでそうなるのかと言うのが、彼らがわかっていないと言うのが大きいです。相撲協会もそれぞれの部屋も。日本人力士が減る中で、スモウレスラーのアスリートになりつつある今の状況を理解していない可能性がある。
その隙間をモンゴル人力士にやられたい放題されてしまったのだとすれば、やっぱり相撲協会の責任ではないのだろうか。朝青龍が引退したときに、手をつけておけば良かった話だったのかも知れない。相撲の興行権はいつの間にかモンゴル人に渡っていたのだ。
ただこんな話しは日本人でも、幾らでも出てくることなのだ。過去にあった興行の旨みやらなんやら、そこに日本古来の神事とか色々尾鰭はひれをつけて行くうちに、自分達で身動きが取れなくなってしまっていたと思う。美しいことを言ったがために、汚い事を治すのを忘れてしまうのだ。
このブログを辞めようかなと思ったのは、OCNからgooへの移行もあったのだが、それ以上にどうも生活に支障がでていた。ネタさがしもあるのだが、文章を描く時間がどうしても取りにくくなってしまった。もちろん一時間で3200字くらい打てる人なら問題はないのだろうが、そこまでは速くない。
一応調べながら書いたりしているので、そこはかなりあった。
もっと重要なのは体力だった。6年間で体力の衰えは如何ともし難い。とくに睡眠時間だな。歳をとれば短くなるはずなのに、どうもそうでもない。こんな文章を書くだけでも結構なエネルギーのようなのだ。
そう言ったこともあって、生活を見直すという意味で考えていたことだ。
ただこう言った行為と言うのはSNS自殺ともいわれていた。だが今ではそれは過去の話のようだ。SNSでは偽アカウントが溢れる時代になっている。いつどこで誰がやめてもいい、そう言った世界かもしれない。ただブログは微妙に違うところがある。
過去のメディアなのかも知れない。ブログは物量のメディアなのだ。誰も読まないかもしれないが、その物量はとても大きい。その物量の重苦しさに比べれば、ツイッターというのはよく出来たメディアだった。
そう、ブログはSNSサービスだったのだがなぜここまで盛り下がったのかと言えば、重いのだ。書いている内容では無いよ、文章量が半端でないのだ。というかブログ読みとそれ以外に人の差が大きく成ってしまった。ブログのネットサーフィンなんてやってみた日にゃかなりキツイ思いをした。した。本当にした。長い、重い、そしてなんでみんな黒バックの白文字にしたがるの?黄色文字は最悪だね。
でもこの点はよく分かる。かっこ良くしたいけど自信がない。文章に自信が無いのかと疑うのだけど、結構わたしより文章上手いんですね。スタイルにしてもどうなのかと。
読みたい記事をどうしても探せなくて、OCNでもgooでも結局SNSとしての機能を使えなかったと言うのは、とても大きかった。
そしてなのだが、やっぱり書く時間だ。毎日更新に近いのだが、この記事数は実際ハンパでない。で、みなさまに助言を。体験記事はPVをのばします。そして将来に繋がります。じつはOCNのサービスのほうがその辺りのPVの伸びを実感出来るのもでした。簡単なんだよね、ひとつの記事のPVの閲覧数を3ヶ月単位で観れたんだよね。こんな記事が今こう読まれていたのかとか。体験記が物凄く多いのはその時期です。そしてgooのシステムは素晴らしいのですけど、記事単位の分析が無いのです。1記事の推移が重要なのです。個人ブロガーにとって本当にほしいのは、どの記事がうけたかの集計です。全体集計はコマーシャルの方法でまったく使えなかったです。
gooに移ってからは、その意味で方向性がブレた様な気がします。
SNS自殺というのは古語かも知れません。でも今やろうとしているのは6年間の自殺でしょう。そしてリンクを貼って下さった方や、様々なかたに迷惑をかけます。
その辺は重々承知していますが、これだけは言わせていただきたい。便利でいいシステムだったが、この会社の辞めたがっている感じはとてもイヤだよ。徹底的にイヤだ。ここ会社のサーバーに私の記録が残ることすら嫌だ。
何が嫌って、何か法令か何かがあったのかもしれないけど、彼らは本当に辞めたがっているというのがもうヒシヒシと。
リストラ勧告された訳ですね。しかもちょコムが一社のカードと来たもんだ。もうここが嫌で嫌で堪らない。
生活を見直すとかあったのだが、どうもこの人達とはやって行けない。それが本当に大きい。もちろんgooブログのSNS世界の人達が原因ではないです。逆にわたしが積極的に動かなかったと言う反省があります。でもやって行けません。もう無理です。
と言うことで自殺させて頂きます。
当時の写真で、えらく機嫌が悪そうな写真があって、なんでかなと思うと、わたしには千歳飴が無かったのだ。姉や兄にはあったのだが、なんで僕にはないの?と言うものだったようだ。何か変な言い訳を聞いたような気がするが、その言い訳が何か不愉快だったと思う。もう忘れてしまったが、その後物持ちのやたらいい姉や兄の千歳飴を強奪したのは記憶にある。
今年の冬は気をつけているせいか、まだ風邪を引いていない。例年の風邪は何なのだろうか。一応初期症状のために葛根湯と風邪薬を用意しているが、危ないと思ったときに葛根湯をつかっただけで、いまのところは何とかなっている。
だが右手首の腱鞘炎がまた出て来た。この理由がよく分からないのだ。最近特に短くて重いレンズを使っていないし。まずは養生だ。
ショスタコーヴィッチを爆音で聞く日が多い。とくに2番はおもしろい。何で今まで気がつかなかったんだろうと思うほどに面白い。12番も面白い。爆音でなければ面白さが伝わらない曲なのだな。
英王室のヘンリー王子と米女優メーガン・マークルさんの婚約を発表があった。とはいえ日本人にとって少し嫌な報道もある。マークルさんが黒人とのハーフなのだ。イギリスの王室にはふさわしくないと考えている人たちが多いと言うのだ。ただそれ以上に、先に引用したCNNの記事では恐ろしいことが書かれている。
「英王室の男性が米国人女性と結婚するのは、約80年前の国王エドワード8世以来初めて。エドワード8世は米国人で離婚歴のあるシンプソン夫人と結婚するため、1936年に退位した。」
以前はアメリカ人で離婚歴があったというのはある。だが2歳年下で白人だ。今回はアメリカ人で黒人とのハーフで3歳年上と言うことだ。もっと激しく言われそうな気がする。
その意味で、トランプさんが先住民との行事で、たしかにトランプさんは民主党のウォーレン上院議員を「ホカポンタス」と先住民の歴史的な人物の名前を侮辱的に使っていたのだが、先住民を称えるはずの行事で民主党を攻撃するのに「ホカポンタス」を使うのは、あんまりにも無意識な人種差別だろう。
アジア人としての日本は、やはり白人に警戒しなければいけないと思うことがある。なぜ彼らはいまだかつて自分たちが優れてるというのだろうか。
優れた人には人種は関係ないと思う。実際シリコンバレーはそう言った世界だ。
まあそれでもアメリカが凄いのだったら、何で誘導ミサイル駆逐艦「フィッツジェラルド」がまた不幸に見舞われるのよ。日本沖で衝突事故を起こして、そしてまた「海軍第7艦隊の発表によれば、26日に重量物運搬船「トランスシェルフ」に積み込む際に、同船を支える鉄製の構造物によって、フィッツジェラルドの船体に2カ所の穴が空いたという。」
何でよ。
でも中国や韓国に高圧的にこられると、同族なので腹が立つ。実はこっちのほうが難しいように思う。
ブログを書く習慣が6年続いた訳で、この生活習慣を変えられないような気もするし、変えられると言いきれるところもある。
ただね、アフェリエイトを稼いでいるブロガーだと確かにプラットフォームとして利益があると思う。でも貧弱なわたしのところだと、アフェいれたら誰も読まないと思うのだ。その意味では長期間やってきたブロガーはそこそこのPVを出していたとしても、アフェ無しだとプラットフォームに取って全く利益にならない。だったらアフェ無しを斬りすてるための方作なのかと言う気がしている。
OCNペイオンが有料デジタルコンテンツ取扱いをなぜ出来なくなったのかと言うのと、gooがなぜ銀行引落をつかえなくなったのかは分からない。限られたクレジットカードとちょコムを指定しているのは尚更わからない。
法令でそうなったのだろうか。だが何でちょコムなのだ。全く使えない預金口座だ。別なシステムがあるだろう。アークスカードとかワオンと提携もしていない。当然中国系とも提携していないの。何でそこまで自社囲をするのかはまったくわからん。不便過ぎる。
これが本当にイヤなのだ。もう一度言う。本当に嫌なのだ。気持ちよく金を払わせてくれ。
今日は泳ぎに行く。だが寝坊して遅くごはんを食べてから行ったから散々だった。まあそれでも左手の問題を改善出来そうな糸口は見つけられそうにまで来た。
最近プロコフィエフに興味がある。運命に翻弄された人、としかいえない人生だ。幼少期は天才。9歳でオペラを作曲。13歳でサンクトペテルブルグ音楽院入学。23歳でディアギレフに認められるが、そのバレエ曲の「アラとロリー」は「ストラヴィンスキーの春の祭典のパクリ」と言われてしまう。凄い意欲作だったので「スキタイ交響曲に改編される。26歳の時に古典交響曲を書くのだが、ハイドン研究を基にした「20世紀にハイドンが作曲をしたらどうなる」というコンセプトがすごい。で、革命がおきて亡命。日本・アメリカ・パリと遍歴を続ける。この間作曲技法を洗練させ有名作曲家になっていた。36歳と38歳のときにソ蓮にゆくのだが、この頃のソヴィエトの音楽はロシアン・アヴァンギャルド時代。現代音楽の最先端を走っていたころだった。42歳で帰国。だがこの頃は社会主義リアリズムの時代。自由なことはできない状態になっていたら。もう裏切られた気分。なんで1929年に帰国した時に気が付かなかったんだろう。
まあそれでも頑張って社会主義リアリズムに邁進した。それでも1948年にジダーノフ批判の対象になってあわや粛正。45年に階段から落ちた事故かどうかはわからないがこの頃から病状悪化。友人も次々に死んでゆく。それでも頑張った。だが、1953年3月5日午後6時に死去。この3時間後にスターリンも死去。
このすれ違い人生が何ともいえない。順風満帆だったらほんとどうなったんだろう。
ロシアの作曲家と言えば、2番手人生のスクリャービン(彼の目の前には常にラフマニノフがいた)とか、作風をコロコロ変えて人を惑わすストラヴィンスキーとか、すさまじくひねくれたショスタコーヴィッチが思いだされるけど、グラズノフとかリムスキー・コルサコフの様なまともな人もいる訳で、どちらに転んだのだろうな。
エジプトのシナイ半島のモスクでISがテロを起こして305人が死亡した。いままでもキリスト教コプト派へのテロとかがあった。エジプトでもシナイ半島は投資の遅れた地域で、貧しい。ここからISはひとを集めたがっていたわけだが、もう少し微妙なテロでもある。
このモスクはスーフィズムのものだったようだ。スンニでもシーアでもスーフィズム、つまり神秘主義はある。なのでどちらかなのかは分からない。ただ一番大きいのは神秘主義ほど過激なものは無いのだ。日本でも密教がそれにあたるだろう。また念佛の類も神秘主義の最たるものだ。厳しい修業や苛酷な行事を通じて、神との合一を目指すのだ。不眠の業や延々と回転するダンスを通じて神がおりてくるのを待つのだ。
神の定めた事を徹底的に守った上で、厳しい業をおこなう。勿論一般人はなかなか出来ないので、達成できた人のまわりに集まり、神の声に近いものを授かりたい。そういったところもある。
一歩間違えるとカルトになってしまう。実際にそういった教壇もあってイスラムでも異端とみなされている。ただふつうのスーフィーはきわめて穏健なので、つまり個人的な動機で行って居るものだから社会的な影響は少ない。表面的にはきわめて敬虔なイスラムであるからだ。
ISのような過激派は、社会改変活動ではあるが直接的に武力を使うし、教義の解釈が恣意的でカルトとしか言いようが無い。だが原理主義からは神秘主義の異端さというのは、言いようがないものなのだ。テキストに無いものなのだからだ。
わたしは全ての宗教は神秘主義にたどり着くと思っている。理由は固い結びつきがあるからだ。生きている間に神や仏の声を聴きたいのか?そこまで思い詰めるほどの信仰が無いと神秘主義にはなれないのだ。だが信仰のゆくつく先は、そこでしか無い。正しい信仰には思いつめが必要なのだ。
ではISの信仰は思いつめたものなのか?男性原理主義の発露でしかみえないのは私だけだろうか。
一番怖い奴に、異端だからといって攻撃したのは間違いだろう。異端が異端を攻撃した状況では、さらに酷い事になるだろう。
そしてー4度までさがったよ。寒い夜だ。