どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

体罰・もう祭りだね

2013-01-31 03:48:39 | インポート
いや凄い事になった。もう体罰報道のラッシュだ。過去の事まで掘り返されて全国区で報道されているように感じる。
多分ちょっと前には地方で騒ぎになる程度のものも入っているように感じる。

例えば兵庫県・洲本の事件だが、これはちょっと微妙だ。もう少し深く掘り下げて報道した方がいいのではないのか。

捜査関係者によると、元男子生徒が後輩の男子部員を投げて顔にけがをさせたことを謝罪するため、昨年7月19日、同校の寮で生徒の家族同士が話し合っていた際、元男子生徒の顔を2回平手打ちした疑いが持たれている。教諭は容疑を認めているという。

どうもだ、怪我させた子が危険な事をして怪我をさせてしまったから、両家揃って監督立ち合いで謝罪すると言うことなのに、その子があんまり反省しているように見えなかったから監督が怒った、と受け止められる。そしてそこの子は学校を退学した、ということは何か別な要因があったように思われる。少なくとも私にはそう見える。

いや相撲の世界は、ホント厳しいと思います。日本人力士が減った理由もここにあります。もう酷いのが解っているから、スカウトが来ても親が反対するとも聞いています。まあ相撲部屋で竹刀はおろか、ビール瓶で殴る事件がありました。殺しちゃったのですからどうしようもありません。この事件は確か体罰ではなく、イジメにランクされたと思いますが、体罰も過ぎれば悪質なイジメと見なされる訳です。

昔ある高校の相撲部を取材した事があります。そこの監督は大変穏やかな人で、いい人だな~と思ったのですが、稽古場ではまるで人相が変わって、とんでもない人に変身しました。一年生の男の子が特に厳しく稽古をつけられ、へたり込んで動けなくなった所を、竹刀が飛んでくるのですよ。それでヨロヨロとやってもふがいない事になる訳で、動けなくなった彼を、監督が引きずって外にポーンと捨てちゃったのです。雪の中ですよ。90キロ近い彼をですよ。ウワ~っと見ていると、しばらくして彼が戻って来て土下座しながら稽古付けてくださいと、お願いするのですが無視。
三回懇願されて、2回勝負して練習は終わりました。
その後シャワーを監督と並んで浴びていたのですが、監督がお前は出来る、絶対出来るんだからもっとがんばれ、と元の優しい表情に戻って励ましているのですよ。若干のアドバイスも交えながらですよ。

2年後ですが、確か国体かインターハイの岩手県代表選手団の先頭旗手として立っている写真を見ました。あのときはなぜか本当にうれしかったのを思い出します。

いい話しでしょう?でもこれって体罰です。

別な競技の監督が、学生を殴って大変な事になりました。当然学生の親は怒って訴訟まで行きかけましたが、彼が両親を説得しました。俺が悪かったからこうなったんだ、と。


さていい話しをして来ていますが、この二つの事例では最初はキッチリとフォローがあります。次の例は、学生と監督との間に信頼関係があったと言う事です。


ちょっと違う話しをします。まず人間の能力ですが、火事場の馬鹿力と言うのがあります。危機に当たるととんでもない事をしてしまうのです。これは普段だと脳が身体をコントロールするためにリミッターをかけているのです。それが危機に対すると、リミッターが解除される仕組みになっています。このリミッターをどうするのかと言うのがトレーニングメニューでは欠かせないものになります。簡単に言えば徐々に慣らしてゆくしかありません。例えばジョギングを初めたばかりの頃は、一時間で1キロも走れなかったのが続けてゆくうちに10キロはしれるようになった。そうゆう事です。ただアスリートではこの数字はまずいです。なのでどこかで集中して走る必要が出てきます。これは自分の能力がどの程度かを知るためです。次にギリギリまで出来たという実感と自信を得るためです。ただギリギリやった、と言うのが客観的に見てギリギリだったのかどうかが問題になります。
ここが悩ましい所です。よく言われる「自分を追い込む」というのは、かなり難しい事です。どうしても自分を甘やかす自分がいる訳で、これが初めっから無い人は滅多にいません。
監督の仕事と言う中に、客観的に見ると言うのと、追い込むための手助けをする、というのがあります。
選手の才能を開花させると言うのは、あるタイミングで「追い込む」事が必要です。このタイミングは三ヶ月周期と考えています。ウエイトトレーニングの例でいきます。私の例なのですが、はじめて全然出来なかったのが一ヶ月続けてなんとかこなせるようになり、そこから先横ばいになるのですが三ヶ月後急に重いのが出来るようになりました。そこからまたしばらく横ばいになって、また次の三ヶ月後には急に伸びだしました。
実は今から思えば、「追い込み」を組み合わせるべきでした。ベンチプレス10回3セットを、最大加重で3回3セットとかをすれば良かったのですが、補助がいない公共施設だったのでこの挑戦は危険でした。

また話しはズレますが、陸上競技のような個人競技は、本来団体を作る必要がありません。それでもなぜ団体を作るかと言えば、自分を「追い込む」ために団体を作るのです。ライバルがいた方が「追い込む」事が出来ます。また陸上でもイロイロな競技がある訳で、そこからの刺激もあります。その刺激が「追い込む」事に役立つ訳です。

先ほどウエイトトレーニングで「追い込み」という事を言いましたが、最も簡単に追い込んでくれるのが体罰です。何しろ身体への直接的な危機ですから効果があるのは間違いがありません。ただ将来的に、その追い込まれた状況で自分がなぜそのプレーを出来たのかと言う、理論的な説明を出来るようになるかと言えば難しいと思います。自分で考えて追い込んだのか、暴力で追い込まれたかの差です。


大変な事になった学生の場合ですが、自分の追い込みが足りなかったと自覚していた例です。
ただ本当に難しいのは、自分を追い込みすぎてはいけないし、追い込まないのも問題だと言うのがスポーツです。このさじ加減が監督の力量になるのでしょう。
そして、信頼関係を築き上げると言う事です。


この体罰問題の報道の盛り上がりですが、少し単純すぎないかと思うのが私の考えです。


さてこの中でもアウトなのは、間違いなく桜宮高校のバレーボール部です。子供たちが体罰された一場所を記録していたと言う事は、信頼関係が崩壊していた、と言う事です。つまりチームが成立しなくなったのです。
バスケ部の場合は、本当に痛ましい事です。監督への信頼と自分のおかれている状況と、目標との間で本当に苦しんだと思います。体罰を超えていじめになっている状況でウツになりかけていたのかもしれないと思います。


最悪なのは、女子柔道オリンピック選抜での事件です。

以前陸上競技で女子の指導と男子の指導でどう違うのか、と言うのを読んだ事があります。男子は大体一言で終わるのに、女子にはいっぱい言葉が必要になる、この差です。男子は、あそこがこうなのはどうなの、みたいな事をいっても通じてしまうのに、女子は着地がこうで腿がこうでだからこうなるから、こう直しなさい、と言葉が全然多くなる。なぜこうなるのかと言えば誰も解らないのだが、多分男女差だ。
陸上競技の場合、相当個人として確立された競技だ。たった一点をどうするのかを追求するから、もの凄く自意識が高い選手ばかりだ。自分を追い込むのも自分の責任として受け止めている。

その中でも男女で指導の方法が違う。バレーボールの日本監督があんだけ叫び続けている意味は、実はそうゆう事なのだ。女には言葉、それは基本ではないのか。そう一般人でもこれは基本だ。

女の顔を殴ったと言う時点で、男としてどうなのかとも思う。それ以上に、男なら殴られた意味が分かったりするが、女子は説明もなしに殴られたらもっと解らなくなる。

確実に言えるのだが、オリンピックで女子柔道が活躍出来なかった原因は、園田監督にある。男に適用出来る体罰を女子に適用したのだ。
格闘技の選手だから女子と言えども多少の痛みには耐えられる。それがまとまってJOCに提訴してと言う事は、完全に信頼関係を失っていた、そうなる。信頼関係がない状況ではどう練習しようがなにしようが、絶対弱くなる。

体育理論が複雑精緻化している今日、ある意味トレーニングは「イワシの頭」になりつつある。信じるか信じないかだ。疑問を持ち続けてそのままでトレーニングしても全く意味がない。信じて励めば伸びる可能性がある。だから信頼あるコーチや監督がメニューを作成するのだ。信用出来ない監督が与えたメニューで、体罰付きだったらどうしようもないのだ。


それでも世の中のスポーツ関係者に同情するのは、体育理論がいっぱいありすぎるのだ。これをどう個別に与えるかだけでも大変なのに、子供も親も勉強してくる。それを論破しつつ指導してゆかなければいけない。
監督間違っているとかウラで言われていたりもする。どうすればいいのか解らなくなって、悩んでいる人の方が多いのではないのだろうか。

園田監督続行のようだが、これは止めた方がいい。女から嫌われた男は、一生女からは嫌われるからだ。信頼関係を築くのはもっと無理だ。一つだけ救いなのは、彼が結婚していると言う事だ。これで独身だったら、救われない。



PS

体罰問題もそうなのだが、現在の高校スポーツの現状に問題があります。強いチームを作るためには、その母数となる部員数が必要です。ライバルが多いほど切磋琢磨するものなのです。優秀な選手が揃えば揃うほど競争は厳しくなります。所が部員数が増えると、監督の指導がどうしても末端まで伝わりにくくなります。また全体を把握するのも難しくなります。コーチとかそういったシステムを揃えられる学校はいいのですが、なかなか難しいものがあります。体罰と言うのはその中で、時間短縮の指導法でもあります。それを無くすると言う事は、時間をかけさせる方法が必要です。

なので一つ提案をします。学校教育の一環で行われるスポーツは、団体競技では試合に出場出来る選手の三倍までの部員数しか認めない、とする事です。陸上など個人競技の場合は、監督一名に対して20人、コーチ一人に対して10人以上の部員は認めないとする事です。

スポーツエリートの育成は、この中から選抜で、また違うシステムが必要なのではないのでしょうか。現在ある高校選抜育成は有効かもしれません。ただ現在これが問題なのは、親に負担が行くと言う事と、子供が天狗になって帰ってくると言う事でしょうか。子供の鼻っ柱をどう折るのか、そこが難しいのが現状でしょうか。


ヌーさんの環境放射能水準調査12月速報だよ

2013-01-30 18:53:04 | インポート
Photo


やあ、ヌーさんだよ。11月の発表はさぼったけど12月速報を見てみようね。

一昨年11月には月間降下物が13.2bq/㎡あったけど、昨年11月は1.13bq/㎡とかなり少なくなったね。12月も1.07bq/㎡と相当少なくなったよ。やっぱり土壌中にあったセシウムが舞っていたみたいだ。一年経ってセシウム君、土の奥に引っ込んでしまったようだね。

これと大気浮遊塵だけど、盛岡では不検出だったよ。ただ一関では10月から12月の間0.000053bq/立方メートル検出されているね。もしかするとこれから一関の降下物量が、推定出来るかもしれない。盛岡で一昨年の7月から9月の間の月間降下物中のセシウム君が18.66bq/㎡で、大気浮遊塵が0.000083bq/立方メートルだから、一関では月間降下物中のセシウムが3.97bq/㎡くらいかもしれない。盛岡での一昨年の4月から6月のデーターを使っても似たような値になったよ。

水道水も盛岡で、0.00157bq/?検出されているよ。安全かどうかはヌーには判断出来ないけど、多分大丈夫。とりあえず60年代から80年代を通り越して、90年代にガンが激増したと言う事は無いと思うよ。

11月には米も発表になっていて、滝沢村産のお米から3.18bq/kgが検出されているね。環境水準調査だから、かなり正確に測定しているよ。岩手県の他の産地のお米は、大体大丈夫。詳しくはここ

を見てね。

お米の話しがあったけど、農地のセシウム汚染状況も発表になっているよ。農地の表面から15センチの土をとって測定しているから、実際の作物の根の張る範囲だということだね。細かい所はここからダウンロードしてね。岩手県内160カ所を調査しているよ。ただサンプルをとったのが一昨年の10月31日から11月25日っていうのが気になるけど、雨に流されたりしていないサンプルだから、実際より高めに出ていると思うよ。一関市川崎村で756bq/kgが最大。100bq/kg以下の土地が50%以上、400bq/kg以下だと98%の農地が当てはまるよ。国の基準が5000bq/kgだからその10分の1がほとんどだよ。安心してもらってもいいと思うよ。
一番汚染されていると思われている一関市と奥州市の前沢・胆沢・衣川、そして平泉の平均値は326bq/kgだよ。この濃度でどの程度お米にセシウム君が引っ越すのかはヌーにはよくわからないけど、滝沢村のお米のデーターと滝沢村の農地の汚染状況から計算すると、8.26bq/kg程度になるようだよ。実際の本年度産のお米のデーターをみればほとんど不検出だし、検出限界も大体7bq/kg以下だから理屈では検出されるはず。やっぱりセシウム君は地面に潜ったか水に流されたんだろうね。

月間降下物の中のセシウム君が減ったのは、やっぱり地面から来ていたからな様だね。

まあでも解らない事ばかりだけど、確率は低そう。
そうそう、まだ良く解らないけど2月の盛岡は暖かくなりそう。もしかすると地面からの埃が今年は早くはじまるかもしれない。昨年の3月4月に飛散量が増えているけど、まだ少し注意した方がいいと思うよ。

それじゃさよなら。もうヌーは飽きたよ。


北朝鮮・雑感

2013-01-29 21:41:45 | インポート
私は儒教が嫌いだ。正確に言おう。国家が飼いならした儒教が嫌いだ。そしてあの礼節が嫌いだ。形式ばかりで本質が無い。
それを国家運営に使っちゃう、北朝鮮って何だろうと思う。天子様のそばには悪い奴はおけないと言って、失脚した人や反体制派を全部殺したり地方に追いやった上に、強制労働させているんだろうな。李氏朝鮮と同じ事をやっているに違いない。中はもうグズグズだろう。


さてミサイル発射実験が成功し、お次ぎは核実験と言われて来たがそうなりそうだ。
実はあまり関心が無いのだ。ミサイルもそうだった。もうどうでもいいのだ。あまりにも予想通りだと一切関心を引かない。
多分3.11以前だったら核実験に対してもっとナーバスになっていただろう。ただフクイチがあって、60年代の太平洋での空中核実験と、80年代の中国の核実験で核に汚染されている事が解って、何かが壊れた。だからヌーとかというキャラを作ったりしてしまう。
この積み上げの上にもう一枚積み上げるだけの、そんな実験にしか見えない。

なぜ核が大国しかもてないのか?確かに疑問だ。パキスタンなんてもっている。イスラエルだってもっている。インドももっている。それでも大国以外は持つ意味の無い兵器だ。

使った後どうするのかが難しい兵器だからだ。相手がその一発で屈服すればいいのだが、屈服しなかった場合とんでもなくめんどくさい事になる。基本戦争は占領するまでが戦争だと言うことだ。もちろん相手が先に降参すればいいのだが、そうそう何発も同時には打ち上げられない兵器でもある。その上落としたら落としたで、その地域に兵士を送り込む事が出来ない。

例えば北朝鮮がアメリカ・ワシントンに議会が行われている時に、核を正確に落としたとする。これでアメリカのトップは全滅だ。所がどっこい各州があっという間に連係を組むだろう。その前に軍が自動的に動く。作戦を立案してしまうのだ。連邦議会は消滅しても、新たに出来るだけだ。その間あっという間に他の国が宣戦布告する。韓国は当然だ。日本は今の憲法下では出来ないが、間違いなく物資支援を約束するだろう。


小国は使ったら最後、消滅する運命にある兵器なのだ。

もちろん抑止力はある。それも限界がある。正直な所、首都陥落の際に敵を巻き添えに爆発させる程度だ。
まあだから抑止力なのだが。だが実際の所はどうなのだろうか、既に抑止力の効果は薄れているのではないのか。あの冷戦時代での抑止力とは、大国同士の抑止力だ。互いに打ち合ったあげくに人類が滅びると言うものだ。この愚だけは避けなければ行けない。戦争する意味が根本的に無くなるからだ。
ところが小国の2~3発だったらどうなのだろうか。例えば全部日本に落としたとしても日本人はある程度生き残る訳で、占領も出来ないのなら全く意味がない。その上周辺国からアメリカまで含めてフルボッコにされるのだから割にあわない。
多分イスラエルだってそうだ。イランに核を打ち込んだら、あのアメリカまで敵に回すだろう。

小国はプライドにかけて作っているだけに過ぎない。そして外交上のカード、しかも決して切っては行けないカードを持ちたいだけだ。だがそのカードももう古びている。

冷戦時代だったら、北朝鮮が核を打ったらアメリカが呼応し、ソ連が呼応し、中国が呼応し、ついでにインドとパキスタンが打ったかもしれない。こっそりとイスラエルもだ。
だが今では、北朝鮮が打った瞬間に通常兵器が北朝鮮にわんさか落ちるだろう。世界核戦争にはならないのだ。


そんな事は北朝鮮も解っているだろう。なのになぜ実験をするのだろうか。孤立もここまで来れば開き直りなのだろうか。

その上で、なぜ中国は北朝鮮を甘やかすのだろうか。確かに北朝鮮は中国の保護国だ。しかしもうそろそろ愛想をつかしてもいい頃だ。プラグマティストの中国とは思えない。儒教的な建前があるのは解るが、そういった配慮をチベットやウイグルに向けないのも不思議だ。

ここからは私の妄想なのだが、北朝鮮が最大の仮想敵国にしているのは、中国なのではないのだろうか。日本とアメリカ、韓国が仮想敵国と言われているが、実際の所アメリカを仮想的にするほどの国力は無い。せいぜいがんばって韓国だが、これこそ核を使えない相手だ。使ったが最後同胞殺しの汚名を着る事となる。朝鮮半島統一という野望にとって最大の障害だ。


核の抑止力が最大に発揮されるのは、実は攻め込まれたときだ。本当の自爆テロがあると思わせる。その狂気を持てるかどうかが問題になる。


さてニュースで、北朝鮮では人肉が食べられている、と言うものがあった。ホントかいなと思うのだが、少なくともそういったウワサが立つほどに飢餓状態にあるようだ。
日本では、江戸時代の天明の飢饉の時に人肉食の伝説が残っている。ただ史学的には否定されているもののようだが、そういった伝説が残るほどに酷い飢饉だったのは間違いが無い。確実かも知れないというのに、日本陸軍の人肉食の伝説だ。これはもしかするとそうかもしれないという話しだが、一応否定はしておく。
ただそこまで民衆が追い込まれているのは、確かなようだ。

儒教の問題は、本来は民を豊かにする政治学なはずなのだが、衒学的に論述され都合のいいように変化し、本来の目標を失う事だ。民のために天子が汗をかくのではなく、礼節の美名のもと天子のために民が滅びる、そういった逆転を許す事にある。

今北朝鮮が、イチイチ言われてプライドを傷つけているのは、アメリカではない。多分中国なのだろう。
ただ、これも歪んだ儒教的発想だ。

私が興味が無い理由は、ここにある。


PS
儒教国家ではないキューバがなぜかある意味、堯とか舜であるのが面白い。
あと日本も韓国も中国も、準備万端にしている。何を?地下資源探索のためだよ。


アフリカ雑感

2013-01-29 14:54:41 | インポート
アフリカと言う大陸は、私には恐ろしく遠いイメージがある。熱帯雨林があると言う事で、アマゾンとゴッチャになったイメージがあったりする。それでいて砂漠とかある。ラクダとライオンとゴリラの王国だ。

だがよくよく考えると、カルタゴやエジプトがあり古代文明の栄えた土地でもあった。もちろんこれは地中海の話しであって、南部の方はまた違うのだろう。ただ解っているのは、ローマの頃から王族がいたり、それなりの国家があったと言う事だ。

さてそういった王国があって持続した場合、その地域の人はなんとか民族とよばれる事になる。
ただ今現在アフリカでは、民族ではなく、族と言う呼称が多く使われている。どうゆう意味なのだろうか。

確かに狩猟民族や遊牧民族のように、広いテリトリーが必要な生活習慣の場合、人口が抑制されて民族と言うほどの人口単位にならない、と言う事があるのかもしれない。エジプトとかカルタゴが変なだけであって、そこにギリシャ人もいたのが大きいのだが、中世から近代に至るまで今のように争い続けていたのかと言えば、疑問だ。

チョロッと中国の三国史になるが、当時漢民族は戦闘に明け暮れて人口を大幅に減らしてしまったと言われている。これは国家規模の戦闘での問題だが、小さい族の単位では、全滅とかそういった戦闘を避けるはずだ。小競り合いの内に吸収合併で、それなりに大きな単位になり、族から民族へとなったと思うのだが、そうはいかなかったようだ。

もう一つ考えられるのは、アフリカ大陸が以外と多様性があると言う事かもしれない。砂漠あり高山あり海あり、まあいろいろ。その中でその環境に合わせた習俗をもった、族が残った、と言う事かもしれない。

ただ決定的な事件があった。それは奴隷売買だ。

近代で、奴隷制度があった。これは古代奴隷制と区別しなければ行けない。近代の奴隷制度は徹底して封建的であった。古代から中世は、以外とそうではなかった。自分で努力すれば奴隷から解放出来る制度だった。
奴隷とは自由が制限される、そういったニュアンスだ。だが近代奴隷制は、人間を労働力としてしか見ない。
例えが良くないかもしれないが、刑務所と強制労働所の違いだろう。刑務所は確かに人権を無視した存在だが、個人は尊重される。しかし強制労働所は、個人もへったくれも無い。壊れたら終わり。機械より扱いが悪かった。


その近代奴隷制の、その奴隷の供給源がアフリカだった。しかしどうやって移民させたのかが問題になる。
もちろん最初は、西洋人が彼らと戦って捕虜にしたものを市場に出したのだろう。需要が多くなってからは、その族間の対立をうまく利用して、まあ内部分裂で負けたものを奴隷として市場に出すという構造になる。
族間の抗争が激しくなる。まあそれでも、殺してしまったら意味が無いしあまりにも傷ついていたら市場価値が無くなる。そういった程度の抑制はあったかもしれないが、「族」で切り分けられる歴史がここにあると思う。


アフリカでの部族抗争の根底には、このような背景があるのではないのか。奴隷制度廃止までの間に、戦闘的部族を育成してしまったのだ。また人狩りと言う収奪で利益を上げて来たのだ。命がけかもしれないが、楽な方法だ。他の産業に移行するよりは、繰り返した方が楽だ。
その上、強者優先という風習を作ってしまった。これが子供の労働へ繋がっているのではないのか。

西側の残した負債はあまりにも大きい。ただこの抗争の中で、圧倒的強者が表れなかった。強いて言えば南アフリカだったが、白人主義だったので他の国から反発され、更に国際的に孤立してしまった。エジプトは、僕らアラブだし地中海だし、人種が違うしと、あまり関心が無かった。
もう60年くらいかかって、ようやく資源からの収入でなんとか立ち上がれた。それがアフリカで、これからの発展が期待されて来た。南アフリカも以前のように拡張主義的では、少なくとも、無くなった。部族抗争も以前よりは少なくなり、問題はソマリアとか一部にとどまっているように見えた。

この中で、カダフィのリビアが大きかった。かれはアフリカを自認していたし、イスラムでもあった。石油資源から出る金をアフリカにバラ巻いて安定を図っていた。もちろん部族抗争に油をそそいでいた事もあったが、アフリカの強者として、地域の安定に貢献して来たのは確かだ。
その武器庫が解放されて、イスラム原理主義者たちの手に渡った。


さてアフリカ、特にチュニジアはイスラムでも神秘主義、スーフィーという、それが中心だ。穏健な宗派で知られている。なぜならコーランの教えを、神との合一で飛び越えようと努力するからだ。いちいち現世に関わっていられないからだ。当然イスラム・スンニ派からは異端とされている。

さてスーフィーから原理主義は決して生まれない。それがなぜはびこるのだろうか。

異端を最も嫌うのがワッハーブ教団、スンニ派だ。原理主義の母とも言うべき、元祖イスラム原理主義だ。
サウジアラビア建国史へと繋がる。ワッハーブとサウディ家が出会うのは第一次世界大戦前。ワッハーブ教団はまだ小さい存在だった。力が無く布教には限界があった。そこにサウジアラビアを独立させようと立ち上がったのがサウディだ。この二つが結びついた。ワッハーブはサウディに宗教的なお墨付きを与え、サウディは力で奉仕した。
そこにトルコを牽制しようとイギリスがやって来た。あのアラビアのロレンスだ。当時サウディアラビアとシリアはトルコ領だった。ここで独立戦争が起きればトルコが西側に兵を送れなくなり、連合国が有利になると考えたのだ。この試みは成功した。かくして悪名高いサイクス・ピコ協定の爆弾を抱えたシリアが誕生し、誰もが当時ここまで大きくなるとは思っても見なかったサウジアラビアが出来た。

サウジアラビアはメッカとメディナというイスラム2大都市をもつ。ワッハーブはこれでイスラム世界の権威になりサウディ家はメッカの太守と言う最高の栄誉を手に入れた。

さてここで気がつくと思うが、ローマ皇帝とローマ教皇の立場である。これが協調してうまく進めば二原論になる。つまりサウディアラビアは発足後二原論で動いて来た。しかしローマの例からもこれはうまく行かない。なぜなら神の意向の方が圧倒的に強いからだ。バランスをとるのがとても難しい。ローマはそれに失敗した。
王家は宗教のトップのウラマーを牽制する事で、なんとか現実路線に進めたいのだが、ワッハーブはもともと原理主義だ。そうやすやすとは言う通りにならない。それでもサウディ家は、少しずつワッハーブの手足を縛りながら近代化を進めてゆく。

互いに不満を持つ両者がはじめたのがワッハーブの「輸出」だった。各地域にモスクを寄進したりするのだが、当然ワッハーブの城だ。豊富なオイルマネーを背景にワッハーブは力を使いだす。
彼らのだ一嫌いな、異端を「正当な」スンニに改修させるのだ!もう同じスンニでもマレーシアやインドネシアのように開放的なスンニまであれやこれやとやっている。当然アフリカのスーフィーにはもう徹底的にだ。そうもはやサウジアラビアでワッハーブの理想は達成出来なくなったからだ。国王もこの特にうるさい連中をさっさと追い出したがっている。両者の思惑が一致したのだ。
アフリカの原理主義者たちの中には、このワッハーブ由来のものが多いだろう。

10年ほど前からだろうか、アフリカのイスラム情勢が混沌として来たと私の耳にも入って来た。スーフィーの伝統が崩れはじめて来たと言うのである。宗教はコミュニティの問題でもある。宗教が安定しているとコミュニティも安定する。その宗教対立が起きているとなれば、当然コミュニティも不安定になる。
若者の就職難も輪をかけた。大人は古い伝統を維持しようとするし、若者は将来の不安から伝統を捨て去ろうとする。そこに宗教が入り込んで来た。


さて西洋史の一端が、このアフリカに濃縮されている。植民地支配だけではない。勝手な国境の線引きだけではない。奴隷制度、プランテーションと労働搾取、暴力支配、そして結果として宗教での混乱も遠因として持ち込んでいる。

さてカダフィーは何と戦って来たのだろう。あの暴力支配が必要だったのはなぜなのか。そしてなぜアフリカに金をばらまいていたのだろうか。
9.11以降あの大嫌いなアメリカと簡単に手を結んだのはなぜだったのだろうか。

彼はサウジアラビアと戦っていたのだ。ワッハーブと戦っていたのだ。サウジアラビアの金に匹敵する金をばらまき、ワッハーブの影響を弱くしようとしていたのだろう。アメリカはそれに気がついていたかもしれない。しかしアメリカは「民主化」と言う大義名分には逆らえなかった。そしてサウジアラビアは盟友でもあった。

シリアのアサド政権のあの強面ぶりと言うか、勝っても国が滅びるだけのあの無茶苦茶さも、なにかこういった裏があるのだろうか。

近代の負債は、重すぎる。


エネゴリ

2013-01-28 19:19:26 | インポート
先にくまモンを出してしまった。最近私の視覚の中に入って来たのだが、一発で好きになってしマッた。かわいいというならひこニャンの方が可愛い。しかしくまモンははっきり言って不気味だ。不気味だったらせんとくんの上をいくキャラはなかなかいない。

しかしこうしたご当地キャラを収集して、面白いと感じて「ゆるキャラ」と言う言葉を作って、一気に全国発信したみうらじゅんに感心する。「マイブーム」「いやげもの」等の言葉を作り出し、それこそブームを作ってしまった。「ゆるキャラ」はその中でも最高傑作だろう。なにしろすべての自治体を巻き込んでしまったのだから。

もともと自治体は何かに付けて、マスコットキャラを作って来た。だが使い方がよくわかっていなかった。せいぜいイベントの時に風船を渡す役とか、「子供向け」だったのだ。
それが多分「せんとくん」あたりからだろうか、あまりもの不気味さでネット上で話題になり全国区になってしまった。そして「キモカワイイ」とか言われるようになって、そのうち見慣れて来たのか「カワイイ」になってきた。そうするとキャラとしてどうあるべきかと、キャラに人格をもたせなければ行けないとなった。そのほうがキャラに親しみがますからだ。もうゆるキャラは子供のためのものではなく、大人の物に変化していたのだ。

そこでツイッターとかブログに結びついてゆく。そのなかで長万部の「まんべくん」の炎上マーケティングの手法とか、試行錯誤で様々な手法が出て来たと思う。

くまモンはその中で最高傑作だと思うのは、最初から全部を含んで設計されたと言う事だ。もうマーケティングそのもの。子供向けのかわいらしさと、大人の感じるかわいらしさが混在し、更に実は熊の微妙な怖さ、熊本は強いぞ!みたいなニュアンスを含んでいる。
極初期に不安定な運用があったが、著作権を熊本県が買って以降、破竹の勢いで展開している。これも熊本県庁がじっくりと育て上げたからだとも言われているが、最初のコンセプトが全く違うものだったのが大きい。

例えはよくないが、NHKの「みんなのうた」の「だんご三兄弟」みたいな作り込みがある。「だんご三兄弟」なんて不況にタンゴがあうと言うところから、子供好みの駄洒落、お母さんが憧れる子供の数、そして仲のいい兄弟、なんとなく明日があるさみたいな能天気もよかった。ヒットするべくしてヒットした曲だった。


Dsc_4146


さて私が気になるキャラ、定義にはあわないがゆるキャラといってもいいだろう、エネオスのエネゴリがある。
エネゴリは企業のキャラなので、最初からやっぱり作り込みがあるはずなのだが、どうも無さそうだ。単純なイメージマスコットキャラになっている。ちょっともったいない。

企業のキャラなので、求められる要素は多い。特に重要なのは、一番見るのが従業員だということだ。これは本当に大きい。ガソリンスタンドのあの男ばかりの過酷な労働環境の中で、信頼とか信用とか安心を発信しろと、エネゴリは言っているように感じる。ゴリラみたいにつよくあれ、そんな所だろうか。

そして顧客向けに大きいのが、エネゴリを見た後にガススタの店員をみると、なぜか可愛く見えてくるのだ。
なんというか、ガテン系のサービス業なので妙に体格のいい人がおおいのか、エネゴリと姿が重なってくるのだ。特に今は冬で着膨れている店員だらけなので更にそうだ。
もちろん若いイケメンの店員には、重ならず、エネゴリは引き立て役になっているように見える。その前に、そのまんまエネゴリみたいな店員がいる。

そうエネゴリは、ガススタ店員のイメージそのものなのだ。


Dsc_4147


しかし残念な事に、キャラがブレまくっている。店頭展開では男臭さ全開で、カードの宣伝ではチョイ悪の雰囲気も醸し出している。しかしテレビコマーシャルでは単なるゴリラになっている。ウホウホ言っている所がもうすでにアウト。胸を叩くって、あれは威嚇の意味だよ。客を威嚇してどうすんのよ。
アニメーションは子供向け。多分幼稚園児向け。指人形バージョン(出来はいいと思うのだが)はイマドキの小学生がこれ見て喜ぶか?と言う内容。

実は店舗展開でもエネゴリを前面に出している店と、そうでない店がある。店長の趣味なのだろうが、愛されては無さそうだ。この時点でキャラとして役目を果たしていない。店員向けのメッセージもあるからだ。


多分なのだが、キャラデザインから本当は相当作り込まれたものだったと思う。ただ役員会を通るたびにタメダシをくらってどんどんつまらないものになったのだと思う。そういったニュアンスをかなり感じるキャラだ。
まあJXですから。お固い会社です。


私だったら?少なくともテレビコマーシャルだと、エネゴリしかいないガススタにやってきた女性が、最初はビックリしながら、エネゴリが丁寧でジェントルなサービスで客を送り出すといったのを考えるが。もちろん言葉はしゃべってもらう。ウホウホでは全くキャラの意味がない。まあよくあるパターンだが。逆もあるな、全国のエネオスからエネゴリに似た店員を集めて、エネゴリがガソリン入れにくるとかもある。

もったいないキャラだ。


Dsc_4168


とは言ってもキャラの消費のされ方が変わって来ている。このナメコなんて一番いい例だと思う。2ちゃんから出たと思ったが、これって男のアレだったはず。それがだキャラとして独立して、なんか女の子がカワイイーとか言っている。人形を集めている子を見た時にはビックリした。そしてこうしてお菓子になって売られているのを見ると、複雑な気分になる。

さてエネゴリもどうゆう消費のされ方をするのだろうか。多分ウホ!の方向だろうか。もうウホウホ言ってるし。