49回目の大晦日だ。晴れて少し気分がいい。
少しは正月らしくしようと、煮物と雑煮を作っておく。それ以外のものは買わなかった。どうせ二日には初売りが始まる。
独り者とお正月ほど似合わないものはない。
今年はどうだったかといえば、割と好奇心むき出しにした年だった。一番大きいのは、CDが絶滅前のバーゲンだらけでつい買い漁ったこと。それで、チと音が気になって、オーディオってどうなっているのかって見渡したところ、こいつも絶滅危惧種になっていた。いやあるのだけど、もともと変なんだけど、凄まじく変な世界になっていた。極端に二極化した世界で、中間がない。
コーヒーも久しぶりに目覚めた。もう10年くらい封印していた趣味だ。ただそこで見たものは、基準のない世界だった。
響のコーヒーは最高に美味しいのだが、最高に普通だ。そう当たり前なのだ。いい豆を入手し、最適に焙煎し、粗挽きにして贅沢に豆を使い、適切にドリップするというものだ。その当たり前がなぜどこにもないのかという問題だった。幾ら何でもと思って、新規開店した自家焙煎コーヒー店を回ったところ、そこには変な世界があった。
オーディオもそうだしコーヒーもそうなのだが、言葉の世界なのだ。イメージを膨らませるだけの言葉しかない。マンションのポエム的広告の世界なのだ。
本質的なことを言葉で追及するつもりのない言葉ばかりが並んでいる。基準のない世界では、金額が基準になる。ただ金額が高くなればなるほど、蠱惑的な言葉が必要になる。そういった循環がへんな言語状況を生んでいるのだろう。
ポストモダンというのは、次のステージに入っている。
来年もこの綱渡りのような言語世界が広がるのだろうな。物の前に言語ありきというのは、実際に不健全だ。だがネット世界という別な世界がある。実社会とネット社会のせめぎ合いのような物が、不確実なことを生み出しているのかといえば、実はそうでもない。ある意味ネットの方が健全である可能性がある。そこには批判が簡単にできるというのがある。だが対面ではなかなかそれはできないだろう。そこに実社会の別な問題があるのだろう。
コーヒーとオーディオは個人差の大きい曖昧なところはある。だから流通段階で言葉が支配できる領域でもある。その流通にある段階での言語が、どう正しいのか。貧困対策のはずの様々なコーヒーのシステムは、価格の吊り上げに使われている可能性はある。オーディオはそもそも流通が不透明過ぎる。
右翼が一番心配している、社会の規範が崩れているというのは、実際別だ。貧しい時代の規範は、豊かになったから壊れただけなのだ。
ただ誰もがこうなるとは思っていなかった。左翼も右翼も、立場に固執しすぎた。特に左翼はね。
理想的な社会というのは、そうそう作れないのだ。
ということで、あけましておめでとうございます。今年もひどいことばかりになりそうな勢いです。でもそれも人生なのでしょうね。
咳をしても一人ってか。