いきなり13.8度まで気温が上がった。これは暑い。寒さに慣れきった身にしてはかなりのものだ。おまけにまだこの季節は急に気温が下がることもあるから下着とかはまだ冬装備だ。
いきなりというのはいつも困るものだ。
現代ビジネスオンラインに面白い記事があった。「正気ですか?「パン屋は愛国心が足りない」という道徳教育の愚」だ。
「小学校道徳の教科書検定で、文部科学省が「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」(「学習指導要領」)との点が足りないと指摘し、ある教科書会社が「パン屋」を「お菓子屋」に書き換えたというのである(3月24、25日付新聞各紙報道)。」
すでにネットでは揶揄されている話だが、これは近年特に目立つ話だ。
「教育改革国民会議(小渕恵三→森喜朗内閣)の報告書では、「いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している」「子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている」などと無根拠に決めつけられ、「学校は道徳を教えることをためらわない」「奉仕活動を全員が行うようにする」などとの方針が打ち出された。」
まあ古くからこの議論はあるわけだが、にしても「子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている」ということはすでに教育するべきことではなくなっているということなのだ。大人改造計画?ならわかるが教育問題として取り上げているのだ。今できていないことを未来に押し付けるというのは、賢い話ではない。ただこれでも第一次安倍内閣の教育再生会議に比べれば可愛いものだ。
「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」(三浦朱門)とか、「子どもを厳しく『飼い馴らす』必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう」(教育改革国民会議第一分科会配布資料)とか、「日教組をぶっ壊すために火の玉になる」(中山成彬)」
私としてはこういった変なところに着地する前に、考えるべきことがある。まず大人が地域を考えるシステムを作るべきだ。その上で最低限でも自分たちでできることは考えようというのがいいと思う。アメリカのコミュニタリアンの考えに近いが、日本には宗教的な共通基盤がない。かなり苦しいことだ。だがその地域それぞれで考えなければいけない課題はあるはずで、それを手助けするのが政治家の仕事でもある。
で、それをしないで教育に手をつける手法は、全くいだだけませんな。
昨日は早く寝たせいか、とても悪い夢を見た。
私はエッシャーの絵画展にいる。様々な絵を見ながら、絵の部分は全体であるという。ホビットが連続する絵では、私らは全て違うが全て同じなのだという。
私らは全て同じだが、一人一人は違うって?一枚の絵だろう?そこから抜け出てきたとしても、それは一枚の絵でしかないはずだ
ホビットは「だからスパーフラットなのだよ」。そう答える。ポストモダンと熱力学のよく分からない混合で生まれた「スーパーフラット」、全ての力学が均衡して徐々に衰退してイデオロギーから服飾のリバイバルまで、全ての知識が飽和した社会での、全くの熱力学第三法則的なエントロピーの最大に達した世界、ホビットは言う。「だから我々は別なのだ。一つを見ると全てを見ない。全てを見ても、それはつもりでしかない」
「この黒は怖いかい?私は大丈夫かい?今はその区別すら無意味なのだ。部分を怖いとか好きとかいっているだけで、全体には何にも影響がないのだ。だからスーパーフラットなのだ。全てが並列で並んでいる社会を分かったつもりでいるのは、断片でしかない。その断片にしがみつきたいだろうが、全く全部は見ることができない。かつてのように我々が増大する前は、我々も意味をなしていたかもしれないが今は全体に収まっている。一つ一つは正義であり悪であり総じて無害だ。ただ偏ることはできる。それは全くの平面だから3次元になると言うことだ。だがそのエネルギーは過去のようには作ることはできない。また平面に戻るだけなのだ。ただし平面はそこで変質したかもしれない。全くの平面になった社会。個人はデコボコかもしれないけど全くのフラットなのだ。もはや歴史も停止した。災害やらいっぱいあるが停止した歴史には全てが無価値になるのだ。」
「スーパーフラットに少しでも刃を突きつけられないのか、槍とかそういった武器は膜を破れそうだが」そういった無意味な質問をした。それには簡単に言い切られた。「価値観の相対化が人の全てに進んだ時点で全てが終わっているのだ」。
ものすごく抗うのだがなんとも言えないほどに延々と夢を見た。実はこの夢はある意味創作なのだが、図形ばっかり出てくる夢なのだ。これを翻訳するとこういった話なのだが、創作と言われても仕方がないのだが、あんまりにも酷い夢だった。
我々は、部分にしがみついて生きるしかないのだ。
ここまで夢に言われてしまえばスピリチャルとかそっちにいってしまえと考えたいんだけど、それだけは絶対やりたくない。
分かっていることをやるのは好きじゃない。分かっていない方が好みだ。
でもあの夢は執拗だった。
あの夢がまた出てきても、戦えるかなぁ。頑張ろう。
Ps.なぜ環境保護派は、自然の多様性をいうのがだ、人の多様性を言わないのかな。実際にはこちらが大問題なのだが。