どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

靖国参拝と韓国弾薬譲渡と百度と

2013-12-28 04:14:47 | インポート
安倍自民党総裁が2度目の首相になった時に、思ったものだ。これで「新しい公共」の概念は否定され、弱者救済のセーフティネットは縮小されるだろう。そして増税は確実になり円高は灯油代の高騰などを招いて、結局弱者はますます弱者になるのだろう。だがそれでも、1年続かない首相が5人もいた。それよりは安定政権になるほうが、最終的にはマシになるとは思った。

それでも靖国参拝は止めて欲しかった。最低1年は我慢して欲しかったが、その1年ちょうどで参拝したのには、がっかりだった。


靖国そのものが、まずねじれた存在になっている。戦前に日本は、神道は日本の習慣であり宗教ではないと言う建前をとっていた。これで政教分離を果たしていると言う理論だ。ただそれでも神道の形式にしたのは、天皇の宗教であり天皇そのものが日本武尊の子孫であり、日本の唯一主権者である天皇が個人的に祭るのと国家が祭るのとは同一である、そう言った論理だと思う。だが戦後靖国神社は宗教法人格を収得し独立した。

それでも天皇は例大祭に参拝し続けたし首相以下閣僚も参拝した。だがA級戦犯合祀より、サンフランシスコ条約を締結した戦後日本にとっては、参拝は不可能になった。だから千鳥ヶ淵の戦没者記念公園ができたのだ。

だが靖国に祭られている英霊たちには、生前天皇の参拝する特別な神社に祀られると説明されていた。遺族もそう思っていた。だが戦後体制の変化と戦犯合祀問題で、約束が守られなくなっていた。

この矛盾を作ったのは靖国だ。とても罪深いと思う。

その上で安倍総理の「不戦の誓いを立てて来た」というのには違和感がある。神社はそのなくなった人を神とし、それを慰撫する事でその恩寵を得る物だ。恩寵がなくとも慰撫する事に意味がある。そして靖国の神は軍神である。
彼らを前に「不戦の誓い」というのは何かがおかしい。「国際社会の政治での戦いを守護してください」なら解らない訳でもない。「不戦の誓い」なら上位の伊勢神宮当たりが相応しいように思えるのは私だけだろうか。ひねくれて神戸の楠神社でもよろしいかと。


とりあえず中国や韓国からもクレームが来た。日本での報道がイマイチだからかもしれないが、何か及び腰の反応のような気がする。新年明けには一気に反応が返ってくると思うが、日本人だって虚をつかれた所があるのに、彼らもそうなのかもしれない。中国ではウエイポーでの発言が削除されていると聞いた。
そしてこのタイミングが解らない。秘密法案やら生活保護費削減などの重要法案を一気に片付けた直後の参拝だ。ヒマが出来たから思い付きで参拝したのか?と疑われる瞬間だ。なんで元旦じゃなかったのか、解らない。
宮家邦彦が知らないと言っているのだから、そうとうわけのわからないタイミングだ。ちなみにこの文で彼が言っている言葉は当たり前なのだが、彼の言論を考えればかなり踏み込んでいる。


靖国問題の本質は「東京裁判」や「A級戦犯」が国際法上有効か否かではなく、日本が国家として先の大戦の「国内政治上の敗戦責任」をいかに捉えるか、にかかっている。



多分安倍総理にとって、我々には解らないベストなタイミングだったのだろう。


そしてやはりアメリカからも「disappointed」とクレームが付いた。そりゃそうだ。韓国と日本がこじれていてアメリカが頭を抱えている最中だからだ。日本語では、「がっかり」か「ムシャクシャ」か。








南スーダンで、国連平和維持活動に参加している韓国軍が、北スーダンからの攻撃で逃げて来た難民を抱えながら、最前線に立ってしまった。そこで予備に日本から弾薬を借りたと言う問題。日本では武器輸出三原則に反すると国会で問題になった。だが武器種出三原則は前の野田首相から例外規定が設けられている。おまけにそれ以前の規定でも同盟国に対しても「控える」という表現で押さえているだけだった。その上国連平和維持活動では、日本も韓国もどちらが上したと言う事はない、一つの作戦単位でしかない。なので国連を通じた貸し借りはある訳だ。日本は国連の要請に従って、韓国軍に貸したのであって、供与でもなければ譲渡でもない。

だが韓国が「十分な備蓄があり、不要だった」と言った所から話しはおかしくなった。正確には「十分な備蓄はあるが、難民が押し寄せており北スーダンからの戦力も正規軍と同等な物であり、近いうちに大規模な戦闘が起きる可能性もある。その際難民を保護しながら戦える弾薬数が足りなくなる可能性が出た。そこで国連を通じて日本から借りた。これは一時的な物で、韓国からの補給が入り次第返却する」と言うべきである。
だが日本から見るとカチンと来る発言だった。ところが韓国軍の現場トップが謝辞を伝えて来たりと、本国との間の空気感の違いがマザマザと浮かび上がって来た。なんなんだろうね~。まとめ記事があったのでリンクする。

そう思っていたら、靖国参拝で「弾薬は、補給が終わればすぐに返却する」と言って来た。これまた一部ではカチンと来る言い方だったが、これを靖国問題と絡める日本の報道はかなり間違っている。

これは予定通りの話しだからだ。韓国軍と日本の陸上自衛隊の弾薬は、規格は同じだが少し違う。日本の弾薬は使えるが、韓国軍の所定の能力はない。だから本当にイザとなった時のために借りただけなのだ。返すのは当然だ。

私もすべてが解っている訳ではないが、この話しを武器輸出三原則で語るのは間違っている。PKO法を元にするべきで、陸上自衛隊がどこからのコマンドで動いているのかを報道するべきだろう。今回は日本が国連に従っている、と言うのが解った。次に靖国問題と簡単に絡めるのは、報道としては失格だろう。

韓国と関係改善の切っ掛けになるのか?という報道もあったが、そう願いたい物だ。これはこれ、それはそれ。

なおこの弾薬は、一発80円らしい。安く感じるかもしれないが瞬間的に何100発と消える物だと言うところでは、ずいぶん高価だと思う。戦争は高く付く。










中国の百度の「Baidu IME」が、キーボード入力をサーバーに送る仕様になっていたと言う問題だ。
実はこれもかなり違和感のある報道だった。理由はよく出来すぎているからだ。検証映像がすぐに出てくるとかかなり調査報道としてはよく出来たいた、それって日本じゃあんまりない話しでNHKがいきなりスッパ抜きと言うのも何か変だった。早速アンサイクロペディアがバカしている。アンサイなのでかなり誇張しているが、情弱ではそうだろう。私もそうだ。なのでこの問題を纏めた記事があったが、私には理解できそうにもない。ただ少し解るのは、「Baidu IME」がサーバー上で情報処理する、クラウドを導入した時にプライバシー保護が甘かった、というか甘すぎたのが原因だと思う。
多分バイドゥはクラウド上で全部処理するシステムを考えていたのだろうが、めんどくさいから全部集めるようにしてしまったのだと思う。もちろんいろいろな疑惑はあるが、世界で2番目に大きい検索サイトとしては、ずさんすぎたと思う。

この話しは裏があるなと思っていたらどうもこの件らしい。

窮地に立つ中国IT界の巨人 百度・李彦宏 WEDGEの記事です。

百度が、音楽・映像の海賊版を野放しにしている問題があります。

11月13日、IT業界の大手4社、中国、米国、日本の著作権保護を目的とした公的組織、さらにエンターテイメント産業界も加わって、百度を公然と批判する連携が生まれ、共同記者会見を開いたのである。
その名も「中国ネット動画サイト反海賊版連合行動宣言」─。同時に百度に対して3億元(約48億円)の賠償を請求したというから穏やかな話ではない。


「百度のビジネスは“無天無法”と呼ばれるように、他の業者が規制を受けることでも、百度だけは許されることがよくありました。今回の海賊版の問題は、そうした問題の1つです。今回、“百度包囲網”を形成した連合軍は、百度が政治によって保障されたその関係に風穴を開けることを狙っています」



海賊版を野放しにする事で、百度は利益を受けて来たフシがあります。それで人気検索サイトになり今では世界第2位です。その地位なら海賊版取り締まりも出来そうな物なのに何もやっていないと考えられているようです。そこで搦め手で、世界同時に始まったのがこの話しなのでしょう。ある意味ソフトの「ある脆弱性」を突いた物になっています。

百度は早速このソフトを直したようですが、中国の「金盾」ファイヤーウオールの存在もあり、いったん疑義が出た問題は収まらないと思います。もちろん百度そのものに個人情報漏洩の疑いが、更に強調されたのは確かです。

ちなみに「Baidu IME」をアンインストールする時が結構メンドクサイ。楽天の無料メールマガジンを拒否するよりは簡単だが、何だろうこの情に訴えかける物は。


ということで、このネジクレた中・日・韓(人口並び)のこの数年の非難合戦はどうなるのでしょうか。以前より更にめんどくさくなって来ています。これは確かです。ねじくれた結果安倍首相が靖国に言った可能性は大です。もうメンツの張り合いです。日本がメンツを張ってどうするんだと言う問題を、無視しています。

ネット関連では、中国のファーウエイがアメリカから撤退しました。チップに装備された通信傍受手段があると言う事で、アメリカから敵視された企業です。日本ではソフトバンクが使っているのですが、問題になっていません。これもまた搦め手のような所です。なぜかと言えばアメリカにはNSAの問題があるからです。あの取るに足らない秘密さえも集めていた、アメリカの諜報機関の問題です。同じ事やってんじゃん、それが私の感想です。

ずいぶん開かれた時代になったと、思います。多分30年前には、こうして並列で話しを並べられなかったと思います。








クリスマス終了

2013-12-26 02:45:36 | インポート
皆様、クリスマスはいかがでしたか?私と言えば一人で過ごしておりました。

我が家にもサンタがやってきました。ただし枕元でこんこんと説教して帰りました。そんな物をおっさんが頼むなとか、もっと働けとか、国のお母さんがかわいそうだとか、秘密をばらすぞと、とにかく説教されまくりました。NORADによると身長170センチ体重120キロBMI41.5ですから迫力でしたが、一体何を説教されたのかはよくわかりません。私は任天堂のポケモン花札を希望したのですがそれがいけなかったのでしょうか。嫁をくれと言えば、サンタは任天堂のDS-3とコナミの超有名ソフトをプレゼントしてくれるのですが、ここも良くなかったのかもしれません。多分サンタの好みは高嶺愛花だと思うのですが、そこが説教される理由なのかよくわかりません。ルドルフ曰く本当は寧々さんのようなのですが、これもよく覚えていません。


ちなみに友人はライカCをお願いしたようなのですが、今の所サンタが説教しに来たかどうかは不明です。

さて今年のNORADのクリスマスサイトなのですが、マイクロソフトがボランティアで作ったようで、もうギークです。ソリのスペックなんかありまして、排出量・極秘と書いている当たりがアイドルマニア臭いです。推定初飛行が西暦343年12月24日で、K クリングル & 妖精社製と言うのもオイコラマテ!と突っ込みたくなる物です。とりあえず6万トンのプレゼントを光速で移動すると言う化け物です。
とはいえインターネットエクスプローラーや超遅いBINGなんかがチト嫌らしいです。


さて韓国で面白い法案が通りか通らないか、話題なようです。


ゲームは悪者か、韓国で中毒法を巡り大議論勃発 韓流関連輸出額の5倍を超えたゲームの知的財産権収入



文化体育観光部と韓国コンテンツ振興院が発刊した「2013大韓民国ゲーム白書」によると、韓国のゲーム市場は今年10兆ウォン規模になると見込まれ、2015年には12兆ウォンになる見込みだという。
特に、韓国のゲーム市場はオンラインゲームとモバイルゲームが2強となっている。2つの分野の昨年の売上高(ゲーム市場シェア)はそれぞれ6兆7839億ウォン(69.6%)と8009億ウォン(8.2%)。

世界のオンラインゲーム市場に占める割合で韓国は28.6%と、中国の43.8%に次いで2位となっている。モバイルゲーム市場では5.1%と、日本(36.3%)と中国(10.2%)などに次いで5位だった。
また、韓国のゲーム産業の知的財産権の収入は韓流関連産業の輸出額を全部合わせたものの5倍を超える。


実は韓国はゲームソフト大国だったのです。特にオンラインゲームは有名です。当然それに反発する親もいます。そこで親の同意下でなければゲームはしてはいけないと言う制度が出来たようです。


親子が家庭の中で話し合って自律的にゲームをする時間やレベルなどを決めるK-IDEA(韓国インターネットデジタルエンターテイメント)の自律的シャットダウン制度と「オンラインゴーストップ・ポーカーゲームのマネー制限」を骨子とする文化体育観光部のウェブボードゲーム規制案は来年の2月から実施される。ちなみにゴーストップとは日本の花札を使った韓国のゲーム名である。



ゴーストップというゲームが何とも言えません。これってオッサンのゲームなんじゃないのかと思います。若年層には関係が無さそうです。ただここからが過激です。


そして、「中毒予防・管理および治療のための法律案(俗称:ゲーム中毒法)」も提案された。同法は今年4月セヌリ党のシン・ウィジン議員が発議した。

ゲームを酒類、麻薬、賭博のように一種の中毒誘発物質と見なし、国家が中毒行為を予防、治療する統合システムを構築するというのが骨子である。同法が国会で承認されればゲームは麻薬、酒類、賭博と同様に保健福祉部の管理下に置かれることになる。
また、ゲーム会社は売り上げの1%を中毒治癒基金として義務的に納付し、規制案を不履行する場合、売上高の5%を課徴金として納付させるというものだ。



さてそれでは中毒患者はどの程度いるのかだ。

2011年韓国情報化振興院が発表した「2010年インターネット中毒実態調査」資料で、これによるとゲーム中毒者は47万人と推定される。アルコール中毒者218万人、賭博中毒者59万人よりは少ないが、麻薬中毒者(9万人)よりは多いことになる。



教育熱心な国なのだと思う。日本も今でもそうだ。ゲーム脳などと科学的な根拠を装ったものが今でも幅を利かせている。なぜそうなるのかは、儒教の思想支配下にあるからだと思う。男尊女卑で、親に従い夫に従い、そして老いては子に従いというなかで、一つだけ残されたのが子育てと言うものだ。

儒教の影響のある国では、こういった現象が見られる。中国のタイガーマザーとか韓国のダンナ国内に置いて母子でアメリカへ行くとかは顕著な例だ。幸い日本ではそこまでの例は少ないが、ある事はある。

そしてそれが許されるのも儒教の影響があるだろう。あの孟母三遷が担保している。しかし当時権力に近づくために儒者にしようと、歴史になお残す僧侶や莫大な財産を築く商人になる可能性を潰したとも言える。

孟母は、暗記だけが得意だから儒者の方がいけると判断したのだろう。だがこの判断は後世の婦人に悪影響を与えた。


日本でも児童ポルノ法があったが、隣ではもっと過激な法案が出来るかもしれない。マトモな議論は無さそうだ。

法で解決する、それがいかにおろかな事なのか。母はそうして未来を潰すのであった。


カラシニコフ死去とその他

2013-12-25 02:39:41 | インポート
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クルップが!クルップが!と鳩のように騒いでいたら、ついにあのニュースが入って来た。

カラシニコフが亡くなった。AK47の開発者だ。世界の戦闘突撃銃のあり方を、根底から変えた男である。祖国を守るために銃を作ったと言うのは、本当の事だ。だがあの時代、世界同時革命を成し遂げるためにソ連がバラまいたAK47はコピーを生んだ。そして正規ライセンス生産も実際は無視されて、これまた世界中に広がってしまった。ソマリアでは海賊が購入出来るほど安くなった。

カラシニコフの名前は、世界で最も著名で、悪名の一つになった。

彼が悪い訳ではない。時代が悪かった。ただそれだけなのだが、相当苦しめられたようだ。AK47の形をしたガラス瓶に入れたウオッカを発売していたと思う。私の記憶では公的に写真が出た最後だったと思う。


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晩年のカラシニコフへのインタビューで、スターリンを懐かしがっていた。しかし彼は11歳の時に一家共々シベリア送りになっている。その地獄から1000キロ歩いて故郷に戻ったが、拾った拳銃を修理したが、その所持容疑で拘束されカザフスタンに逃げて鉄道機関区の技術秘書になり、入隊して様々な発明をしてジューコフ将軍の知遇を得る。その後ナチスと戦い重傷を負い入院する。退院後カザフスタンに戻りプロトタイプを作った。
それが中等教育も終えていない29歳が、スターリン賞を取り、6度の最高会議代議員になるのだ。

しかしソ連崩壊まで、シベリアから脱走した時の「公文書偽造」が付いて回った。賞を貰い勲章を一つ増やすたびに不安になっただろう。本人も字がきれいだと言う理由で技術秘書になったり、入隊してすぐに軍曹になったりした。その理由はスターリンの粛正があったからだ。戦後にもまた粛正があったからだ。その中で少数民族のコサック人であり、いつ巻き込まれるか解らなかった。
それでもスターリン時代が良かったと言う。1990年にM16のユージン・ストーナーと数日を過ごす事が出来たり、ビル・ルガーとも友人になった。だがそれでもゴルバチョフが嫌いだと言う。


カラシニコフの青春時代は、確かに奇跡のような幸運に恵まれていた。だから懐かしがるのだろうか。もう少し複雑な問題があると思う。ゴルバチョフ以降、彼の銃がどのような運命をたどったのかを、知ってしまったためではないのか。

中国とベトナムでは、同じ銃で戦争をした。パキスタンとインドもそうだろう。アラブでもそうだったろう。そしてアフガニスタンでもそうだった。ボスニアでもそうだったろう。派製品やコピーが大量にありアフリカでは虐殺に使われたりした。テロもそうだ。最近では、北朝鮮の政変で銃殺刑に使われた銃は、AKだったかもしれない。

そしてユージン・ストーナーとの出会いは不幸だった。世界で一番売れた自動小銃の設計者はありとあらゆる名誉に包まれていたが、ユージン・ストーナーに比べれば圧倒的に貧乏だった。この事実が、彼に影を与えたのではないのだろうか。

彼ほど銃が好きな人はいないだろう。その幸せが詰まっていたのがスターリン時代であった。そして祖国の繁栄を信じていた一人でもあった。その祖国のための銃を作っただけに過ぎない。カラシニコフは祖国を信じていた。

しかし銃は人の心を打ち抜く事は出来なかった。銃は人の命ずるままに玉を出し続ける機械でしかない。そしてその人の心で使い方が決まってしまう物だ。

カラシニコフは天才であり幸運に恵まれた人物だった。カラシニコフの発明は世界に不幸をもたらしたと言われている。
だが本当の不幸をもたらしたのが何かを考えるべきだろう。

彼の魂の安らぎが訪れるように。それは地球に安らぎが訪れるのと同義である。


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20世紀の著名な自動小銃の発明家が、これで全員いなくなった。


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戦争はなぜ起きるのかをまじめに考えたが、国内問題が大きいと言ううすっぺらい結論になった。例えば第一次世界大戦前のイギリスとドイツは経済的な結びつきが大きく、ヨーロッパ全体でもこの経済関係を破壊するような事はないと考えられていた。覇権国から転落しつつあったイギリスと、軍事で国内を統一して、晋仏戦争で勝ってイケイケのドイツの、それぞれの国内問題が戦争を引き起こした。

それは日本の問題と置き換えても解る。

特に経済格差が世界でも広がっている今、何が起きるか解らない。
そしてアメリカがQE3の縮小を言った。これは市場に織り込まれている事なので急な変化はないと思うが、東南アジアを中心に、ネガティブなことになるのではないのかと考えている。


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オマケ

クルミを車に轢かせてラクをしようとするカラス。しかしこのクルミ、クログルミなんで不味いのだが。



PS

2014.1.14

カラシニコフは生前に懺悔をしていたようだ。


AK47の開発者が生前に懺悔、ロシア正教会宛てに書簡


カラシニコフという天才は、祖国のために銃を作っただけなのだ。それは忘れてはいけない。だが彼の思惑を超えて世界は彼を理解しなかった。

かれはその頑丈さ故に長生きをしてしまった。そしてすべてを見てしまった。

改めてご冥福をお祈りします。


クリスマスイブでございます

2013-12-24 02:03:51 | インポート
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極端にふざけた記事を書いた後に、極端に真面目な記事を書いてクタクタでございます。そんなクリスマスイブです。

とはいえおとといからNHK・FMで、バイロイトフェスティバルの録音放送が始まっています。毎年恒例でございますが、今年のジークムントが良いですね。エロイです。

最近驚いた話しに、新日鉄とアルセロール・ミタルが合同でドイツのティッセン・クルップ社のアメリカ・アラバマ工場を買うと言う話しがありました。あのクルップですよ?ティッセンと合併したとはいえクルップですよ?え!知らない?嘘でしょ?ベンツがあるのもBMWがあるのもワーゲンがあるのも、クルップがいたからなのですよ?日本がロシアに勝ったのもクルップ様が居たからなのですが、知らないって!タイガー戦車くらい知っているでしょ。

アルセロール・ミタルが新日鉄に敵対買収を仕掛けたのも昔の事ですが、なぜか買収に失敗。収得した株式をどうするのかで揉めに揉めて、アメリカで合同事業を展開すると言うなんか呉越同舟状態が、クルップのアメリカ工場を買収と言うのは感慨深い物です。しかしあのクルップが事業に失敗していたとは。


写真は葉牡丹・プラチナケールです。キャベツの仲間は葉っぱの表面にロウ状の物質を作って乾燥に耐えられるようになっていますが、粉を吹いた白っぽい感じになります。この葉牡丹にはそれがありません。なので純色に近い色が出ます。近所でも大流行しております。以外と耐寒性が高いのも良い所です。


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今年もトナカイパンを作っております。四頭作ったのですが、今年のルドルフはどれになるのでしょうか。


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今年のルドルフは、ムチムチの奴に決まりました。


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今年の冬は、寒暖の差が激しいです。特に週単位での差は大きく、ふきのとうが勘違いしております。これからが大変なのですが。

そうそう、風邪は収まりました。まだダラダラ感は残っていますが相当改善しました。


2013


ということでメリークリスマス。


宮沢賢治の「幻燈」の謎

2013-12-22 23:33:57 | 写真の話し
小さな谷川の底を移した二枚の青い幻燈です

宮沢賢治 やまなし(1923年発表)の冒頭


宮沢賢治(1896~1933)の童話「やまなし」と「雪渡り」の中に幻燈と言う言葉が出てきます。
この幻燈ですが、一般的にはマジックランタン、現在のスライド映写機みたいな物と考えられます。辞典で調べれば真っ先にこれが出てきます。光源は多分植物油を使ったランプで、ロウソクのように光源が時間とともに動く物ではないと思わます。
19世紀末までは写真でなく、薄い紙かガラス板に画を描いた物を投影すると言うものです。結構イロイロ出来たみたいで、長尺の絵を横に動かしたり、画を重ねたりと様々な効果が出来たようです。

幻燈そのものは飾り灯籠や、回り灯籠のような物を指す時もあります。幻燈と言うのはエジソンのキネトスコープ(映画だが覗きからくりと言ったおもむきがある)も当たるだろうしそれこそ写真スライドもそうです。フランスのダゲールの発明したジオラマ(模型と幻燈、そして光の変化で様々な効果を出したもの)などもそうでしょう。
実は映画も幻燈と言われた時代があります。

幻燈機そのものは17世紀の文献にあるようだが、もっと古い可能性もあります。スライド写真がちょっと微妙で、1923年にコダックがモノクロスライドフィルムを発表しています。もちろん透明なフィルムは1889年当たりからあり、反転現像でスライドを作れます。映画と同じネガ・ポジ法を使っても出来ました。
所がスライド写真で鑑賞会をやるのは、1950年代のカラーの時代になって流行するので、賢治の時代ならどうかとなります。
ジオラマは日本でも興行的にはあったと思う。だが賢治が見た事があるかどうかとなれば、疑問はある。
エジソンのキネトスコープは1893年に発明、ルミエール兄弟のシネマトスコープは1895年。その2年後に日本に二つともやってきます。映画は1907年に日本でも流行が起き各地で映画館が出来たと言う。盛岡市でも1915年に映画館が出来ています。


雪渡り(1921年発表)から引用します。

『お酒を飲むべからず』大きな字が幕にうつりました。そしてそれが消えて写真がうつりました。一人のお酒に酔った人間のおぢいさんが何かをかしな円い物をつかんでいる景色です。

『わなを軽べつすべからず』と大きな字がうつりそれが消えて絵がうつりました。


雪渡り(1921年発表)


これって写真スライドショーに感じます。私もそう思っていました。これで幻燈といわれているなかでも、賢治の言う幻燈は、映画と写真スライドに集約されます。
困った事に映画の用語では、写真と絵とカットは同じと言うのもあります。実際映画と写真は原理的には同じですし、映画を写真と言う事もあったようです。活動写真と言う言い方もあります。
さてどっちなのでしょうか。


そこで光源を考えたいと思います。まずは燃焼させて光を作る物です。

まずローソクと灯油ランプはほぼない物と考えます。暗すぎるからです。エジソンのキネトスコープもルミエール兄弟のシネマグラフも、光源には電球を使っています。

次にガス灯があります。ガスマントル法が1886年に発明され、かなり明るいガス灯が出来ます。このマントルにセリウムやトリウムを使うためわずかに青緑の光になります。現在でもアウトドアのガスランタンでこの光を見る事が出来ます。ただガスの配管が必要だったのと、1930年代の合成ゴムの発明まで良いホースがなかった事から、移動型の器機は作りにくかったと考えます。現在のような小型ガスボンベも、かなり高価だったのではないのでしょうか。


アセチレンランプ・カーバイトランプと言う物があります。これは炭化カルシウムに水を加えるとアセチレンが発生する事から、水をポタポタとカーバイトに落としてアセチレンガスの発生量を調整、そのアセチレンを燃やして発光させます。アセチレンの燃焼温度は3300度と極めて高く青白い炎です。これを不完全燃焼させて黄色く光らせるのですが、それでもかなり明るい光になります。映画で言うライムライトはこの光の事です。石灰を使っている訳ではありません。カーバイトの反応した残差が消石灰になる事からそう呼ばれたのでしょう。1900年に特許を取っています。


次に電球です。エジソンの1879年の白熱電球の発明から実用的な電球が始まります。初めは寿命40時間だったのですが、1904年にタングステンフィラメントの発明、1910年にタングステン線をコイル状に曲げる事に成功、1913年にタングステンフィラメントとガラスを通して外の電極を結ぶジュメット線が完成、同年ガス入り電球が開発、1914年にフィラメントを切れにくくする方法が開発され白熱電球が完成されました。なおここに書いた発明特許を、全部ゼネラルエレクトロニクスが持っていると言うのも驚きです。
この間に電球は50倍に高寿命化、光変換効率も2.8倍に改善しました。ワット数も大きくなりかなり明るい物になっています。1000ワットの電球も発売されています。また発明当初の電球はかなり赤い光です。それがこの1914年までには今の電球に近い色まで改善します。
蛇足ですがガス入り電球をGEではMAZDA Cランプと呼んでいました。で、日本の東京電気が1925年に内面つや消しの白い電球を作るのですが、これが「マツダ電球」として発売されます。多分GEより良い製品だと言う自負と、それでいながらMAZDA Cにあやかったのでしょうか。


黒鉛アーク灯は一般的ではありません。二本の先端を尖らせた黒鉛棒を向かい合わせて高電圧をかけます。黒鉛棒を近づけると放電が始まり、黒鉛が高温になり4000度まで上がります。実用化は1876年のロシアのポール・ジャブロコフの発明で交流でも発光出来るのが特徴です。この時の発光がとても強く、温度でも解る通り今までの光源の中で一番青白い光です。1878年にロンドンで街灯に使われ同年サッカーのナイトゲームが行われました。
このアーク灯は1901年に水銀灯を生みます。実用化は1927年です。1941年には蛍光灯の発明、1964年にメタルハライドランプの発明と続きますが、賢治は水銀灯を見る事はなかったと思われます。
ネオン管も放電管に入ります。1910年に発明されています。日本では1918年に銀座に登場したのではないのかと言われています。
アーク灯では強力な紫外線を発するのでガラスで覆われていたのが普通です。火花を外に出す事はありません。あと発光効率が高かったので、光の強さの割に熱が少なかったと言えます。欠点は高電圧装置が必要な事と、電気消費が大きい事です。

映画用では1897年に日本にバイタスコープが来た時に、既にアーク灯が使われていたようです。ライムライトも使われています。アーク灯は1933年まで映画では主流でした。
国産の映写機の歴史から見ると、1898年の国産初のミクニ映写機はライムライトだったようです。1914年の国産初の電気駆動映写機ではアーク灯に変わっています。1926年の35ミリ小型映写機では500Wの電球が、27年の16ミリ映写機でも電球が使われているようです。


次にフィルムの話しになります。この時代のフィルムですが硝酸セルロースと言う物質で作られています。1889年から使われていますが、とても燃えやすいと言う欠点を持っています。というか、実は爆弾です。しかしこの当時、薄く加工できて、透明で、柔軟性の高く、平面性・耐湿性の高い物質はそうそうありませんでした。その上、写真乳剤、ゼラチンなのですがそれが薄く簡単に付く物質でなければいけません。当時は合成高分子がなく、表面加工技術もそうそう良い物がなかったので、こんな危険な物質をフィルムに使っていたのです。
先に白黒スライドフィルムが1923年に発表していますが、このフィルムは安全フィルムを歌っています。硝酸セルロースに何らかの安定剤を加えた物と思われます。そしてスライドフィルムと言いましたが、実際は映画用フィルムです。
1950年当たりから酢酸セルロースに置き換わってゆくので、この安全フィルムは過渡期の物と考えられます。

スライド映写がブームになるのは1950年代だと言いました。これにはまずカラーフィルムの登場が上げられます。カラーフィルムからプリントを作るのがとても高価だった時代、リバーサルフィルムを作ってスライド上映した方が安くて皆で楽しめたと言う事です。テレビに移行する隙間ですね。カメラもそれ以前の6センチ幅のフィルムから、カット数が多く稼げる35ミリカメラに移行しました。特にアメリカで流行りました。
ここで気がついてもらいたいのですが、フィルムの材質転換とスライドブームも一致していると言う事です。現実の話しですが、現在のフィルムでもファンの付いていないスライド映写機では、長時間差しっぱなしにすると溶ける可能性があります。一枚写すのに今でも10秒程度でしょうか。あまり長時間は投影出来ないものです。
確かに現在のハロゲン球の発熱はとても大きい物です。また150W以上の光量があります。これでは硝酸セルロースベースではどうなるのでしょうか。あっという間に燃えるでしょう。
当時のスライド映写機というのがどういった物かはよくわかりません。しかし電球のワット数はそれなりにあったと思いますし、今のような小型ファンが付いているとは思えません。そうすると光路長を長くして放熱していたと考えられます。またフィルムではなくネガからガラス乾板に焼き付けてスライドにした物もあったようです。そうするとサイズが一回り大きな物になったと考えられます。人工着色も可能だったのではないのかと思いますが、実物を見た事がないしネットでも報告はないようです。戦前の乾板でスライドショーをやったと言う記事も見つけましたが、どうも本文がないので解りません。ただ乾板はかなり薄いガラスで、材質にも寄りますが急加熱には弱いです。
もしかすると戦前の幻燈機について、書籍になっているようですが詳細は不明です。

なぜ映画フィルムが燃えやすくても大丈夫だったかと言えば、早いスピードでフィルムが動いているからです。その間に冷却されます。そして各コマごとにシャッターが動いています。連続して光が当たる事のないシステムになっています。これが燃えにくくしている理由だと思われます。とはいえそれでも火事になったりした訳で、ライムライトから電球やアーク灯に移行したのは自然な事です。

次にスライド映写機の問題なのですが、スライドのコマとコマの間に隙間が出来やすいと言う問題があります。一瞬光が漏れるのです。これを克服した映写機もありますが、この戦前の段階ではどうだったのでしょうか。私の知る限りだと、戦後でも機構的に一こまごとにスライドのはいっていないのが映し出されてしまう機種もありました。一枚ごとに真っ白な壁が写ってしまう訳です。


さて長々と書きましたが、結論です。賢治の言う幻燈とは映画の事ではないのでしょうか。まず光源があります。アーク灯か電球を使うのが映画です。スライドは電球だけだと思われます。明治時代の幻燈機にはランプを使った物があるようですが、これは昔からある画を映し出す幻燈ではないのかと思われます。「やまなし」の青い幻燈は、アーク灯やライムライトの光の質を言っているように思います。もちろん水中から見た空の青の意味もあると思います。
蛇足ですがテクニカラー映画の登場まで本格的カラー映画はありませんでした。当然賢治は亡くなっています。擬似的に人工着色したカラー映画もあったようですが、これは上映用フィルムに加工する物で、かなり高価な物であったと思われます。興行成績が望める所でなければ上映出来なかったのではないのでしょうか。

次に当時のフィルムの取り扱いの難しさです。とても燃えやすいのです。このため今と同じスライド投影は考えられませんし、乾板を使ったスライド投影と言うのも考えられますが実例がわかりません。コストも馬鹿になりません。スライド上映の流行は、1950年まで進まないとないように感じます。

そして35ミリフィルムを使ったカメラと言うのは、1914年のウル・ライカがありますが実際に販売したのは1925年のライカ I(A)になります。大体これが世界初の35ミリ写真機と言われています。ということで1925年以前にはスライド映写機の違うシステムがあったとなります。こうなると全く解りません。

調べる限り、映写機を幻燈機といったり映画を活動写真と言ったり、写真と言った例も多くあります。江戸時代に手回し幻燈機というオモチャもありますし、家庭用の映画映写機みたいな物もあります。スライド投影機になるといきなり1950年代の物がいっぱい出てくると言うのも、物証のような気がします。

そしてスライドであったなら、「雪渡り」のような字が現れ暗くなり写真が現れると言う描写は、スライド切り替えの明転、もしくは寸断で出来ない可能性があります。もちろん映写機のレンズを一時的に覆って解決出来ますが、少し手間なのは問題でしょう。

賢治のここでいう幻燈ですが、様々な要素が絡み合っています。家庭用の薄暗い映画映写機かもしれません。手回し式の物かもしれません。薄暗い光でのアニメーションだったり映画を見ていたのかもしれません。江戸時代のからくりだったりしますし、ヨーロッパの幻灯機かもしれません。電球の黄色い光だったかもしれませんし、ライムライトの薄く青緑の光だったかもしれません。この炎の揺らぎだったかもしれません。
それでいて映画館のアーク灯の青白い光で見る映画だったのかもしれません。そのないまぜが賢治の幻燈なのでしょう。
そう纏めてしまってはどうかとも思いますが、「やまなし」の光の具体的な描写を考えれば、映画のような描写に挑戦した作品とも言えそうです。


技術史的に言えば、賢治の幻燈は映画である。そう結論づけます。

ただそれでは面白くありません。それでは賢治の幻燈が映画だとして「雪渡り」の幻燈はどうやって撮影された物でしょうか。

1921年発表ですから、どうも8ミリ映画は考えられないようです。1932年のコダックのダブル8から始まる規格です。賢治は見ていません。そう言った事で16ミリ以上のムービーカメラで撮影されています。
この当時のフィルムの感度は増感現像等工夫してもISO感度で100でしょうか。もう少し低く見積もった方が良いと思います。
それでは今私の部屋では蛍光灯が60ワット光っています。今カメラで計測した所、1/10秒絞りF1.8です。16ミリ映画とし一秒間16フレームとします。シャッタースピードは17分の1秒になります。最低でもF1.4の明るさのレンズが必要です。かなりな高級レンズを使っているようです。私のレンズよりかなり高性能なようです。でも1912年ですとまだそこまで明るいレンズは出ていません。
照明を四倍以上明るくするしかありません。


狐はどのようにしてこの映像を手に入れたのでしょうか。カメラがあってもフィルムがあっても光がなければ撮影が出来ません。どのようにしたのでしょうか。

狐火でしょうか。しかしその明るさはろうそく程度です。今の蛍光灯とは比べ物になりません。

この狐たちはこの撮影のために、狐火をどこまで灯したのでしょうか。蛍光灯240W相当ですから総力戦で行ったと思います。そしてその姿を想像すると凄いです。

清作も太右エ門も酔っぱらって夜中に撮影されています。そこは真昼のように明るかったでしょう。よくそんな所で酔っぱらっていられるなと言うのが、私の感想です。

狐は解ってくれる四朗とかん子を招待しました。だが昔兄たちも招待されたようです。最後に兄たちが迎えにくるのでそれは推察出来ます。でも狐は映画の撮影でも解るように、かなり高度な文化を持っています。それがなぜ人間の子供に認めてもらわなければいけないのでしょうか。ここも面白い所です。

「雪渡り」に関してはもう少しあるかもしれません。ここで筆を置くのが大体の所でしょう。ただ狐の努力が何かと言うのがもの凄く面白いです。
そして話しを更に面白くするために蛇足を付け加えます。実は釜石街道・花巻市から東和町への間で、昔よく狐にだまされたひとがいたようです。それがなんと昭和40年の話しなのです。大体酔っぱらって、川原で素っ裸で発見されると言う物でした。で、狐のせいにされる…。そんなに古い話しではないと付け加えて、終わります。





引用

アーク灯水銀灯はここです。 
映像関連の照明や投影器具に関しては、ウシオ電気が詳しかった。ウシオ電気は本当に真面目な会社だと思う。以前もこのサイトを参照した事があった。正直な所ウイキではここまでの記述はあり得ない。シネマ光源ではまとまった記述だと思う。

白熱電球は産業技術知資料センターから引用していますです。今後科学技術史に関連する項目では使えそうです。
写真工業の昭和52年写真技術マニュアルも参照しました。あとはウィキですがこのジャンルでは相当苦しい内容の記述でした。
真面目に手元にある文献や記事をさらっても、1930年以前のスライド写真に関しては解りません。



後述

この項を書いていたら、なぜか接続分断がありました。おかげで5回書き直しました。おかげでとりとめもない文章が更に分け解らなくなったと思います。