どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

廃業上等

2014-11-16 01:03:18 | 写真の話し

 

レンズセットが大体揃った。中古で捜しながらだったが、多分大体何でも出来る機材になった。これと言うのもデジタルカメラのある意味宿命的な物で、カメラの進歩とレンズのマッチングがズレはじめて、そのずれが大きくなってしまったからだ。特にニコンのローパスフィルターレスのカメラになったら、もう目も当てられない差になった。で、そういったレンズが何本かあった。

確実にニコンのAF-Nのレンズはもう無理な物になった。超望遠ではまだ使えるのがあると思うが、それでもかなりきつい物がある。更に今のレンズは超精密に出来ている。よほど条件がよく使われていないとレンズがへたってくる。特に超音波モーターがへたってくる。ここがへたるとピント合わせが遅くなるやらなんやらで使いにくくなる。

ボディのプラスチック化よりも、ガラスそのものに何かが起きている場合もありそうだ。

 

 

後は仕事の変化もある。最近はビデオもまわせれるようにしたいと考えている。そうなれば自然にズームレンズを入れる必要がある。そうするとビデオでも写真でも使えるレンズになるのだが、写真の方が要求度合いが高い。ビデオだけだったら、10倍ズームでもいいのだが割といいお値段がする。そして機材の持ち運びの問題もある。

そう持ち運びが大きい。車を持っていて全部の機材を持ち歩く人もいると思うが、機材は必要最小限にした方が撮影効率はいい。結局手元にある機材でその場で考えた方が早いからだ。そして持ち運べる重さには限りがある。その最小限度の機材と言う事で、組み合わせをどうするのかが、ミソになる。

 

 

ということで1.4倍のテレコンバーターを入れて、万が一の可能性を最小の機材でカバーするという方法も入れた。ただ300ミリf4のレンズを1.4倍にして1.5倍のAPS-Cのカメラに付けると630ミリのレンズ換算になる。なのでかなり慣れが必要だ。70−200のズームレンズに付けても300ミリに慣れているので違和感はないが、さすがに300ミリになると違和感しかない。これは練習しか無い。

カワアイサがコイの餌を奪ったはいいが、大きすぎて扱いに困っている。

 

 

トリミングしてあるから見れるが、実際フレーミングはほとんど無理。練習あるのみ。

 

 

止まっている物は楽なのだが。

 

 

レンズセットを代えた理由に、実はもっと深刻な事がある。スマートフォンの普及だ。フューチャーフォン、つまりガラケーだがその頃にはGPUが貧弱だった。1200万画素になろうが一眼レフで撮影した物と比べると差があった。しかしスマホだとGPUがいい。画像処理が圧倒的に良くなった。専門的になるがガラケーでは10ビットでデジタル化していた画像が、スマホでは12ビットになっている。たった二つなのだが4倍きれいになったと言う事だ。2乗で効くから4倍なのだがガラケーも12ビットになった。追いかけてはいないが、スマホで画像処理が14ビット以上になったら、見た目で負ける可能性がある。

スマホでは更に演算処理で多彩な画像が作れるようになっている。背景がボケた映像を作り出す機能とか、平気にある。HDR機能はスマホとほぼ同時に一眼レフに搭載されました。

つまりプロの技を見せつけるためには、レンズ回りの徹底的な更新が必要だったのですよ。後はフルサイズに行くか、それ以上の大きなフォーマットに移行するかなのですが、大きなフォーマットは今は現実的ではありません。価格とお客の提示する金額の問題が大きすぎるのです。

しかしフルサイズのニコンの一眼レフを想定しないと未来は無い訳です。APS-Cのカメラは後5年は新商品は出ると思いますが、もしかするともう少し速くなくなる可能性があります。

 

 

破産する勢いで、レンズに金をつぎ込んでいます。この意地ですが、心置きなく廃業したい。もうこの一点です。

解らん奴からレンズの事は言われたくないし、絞りを開けて撮れ?いや場合によっては従いますが、ここ違うでしょう?と言うやり取りを10年以上してくればキレるのですよ。で、仕事を減らす?それでは他の仕事を増やしますよ。

ということでお金にはならないが、演劇にフォーカスしたレンズ構成と機材を入れました。14−24なんてそのために買いました。スポーツもかなりいけます。美術品の撮影に適した単玉もあります。マクロ系は今無いので宝飾系は辛いかもしれません。

もうこれでだめだったら、廃業ですね。でもこの機材を持っていれば、悔いはありません。ただ自分の営業力の無さと言うのがありまして、実はそこが問題です。

で、このパターンのカメラメンで廃業した人はいくらでもいるな。

 

ミコアイサのメスだけが飛んでいます。

まだこのシステムになれていませんが、春になるまでキチッリトレーニングをするつもりです。予測が難しい鳥を、どうとるのか、結構いいトレーニングメニューだと思うのですが。

次ぎに超難問が控えています。その課題をどう見せれるのか。今それでいっぱいです。

 

 

キンクロハジロは、寝て待てと言っています。


新しいカメラバックを持って旅をする

2014-10-10 03:29:53 | 写真の話し
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旅をすると言ってもご近所なのだが、システムが変わると新しい様式が必要になる。特に今回はカメラシステムでも根幹のレンズ群を大幅にてこ入れ中なので、新しい様式が必要となっている。特にほとんどのレンズが一回り大きくなる。

基本的に標準ズーム一本で出かける場合と、標準ズームと中望遠レンズ一本などの単焦点レンズの組み合わせ、標準ズームとワイドズーム、望遠ズームと標準ズームとワイドズームレンズ、全部持って行くとかムチャクチャなパターンを想定している。


当然今までのモンベルの巨大なウエストバックではかなり苦しい状況になっている。



ただ実際その時に必要なレンズはそうそうない。必要なのは巨大ウエストバックに置いて(望遠ズームだとまさしく置く状況になる。突っ込んで身動きが取れなくなる)、補助的なバックですぐに取り出しやすいカメラバックが欲しい。ということでカメラのキクヤオススメのロープロ パスポートスリングIIを買ってみた。後ろの物だ。






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レンズにレンズフードを付けっぱなしで収納したい。そして出し入れが楽な物がいい。そうすると旧来の巨大ショルダーバックタイプが理想なのだが、一度酷い腰痛をやった者としては、あれはマズイ。あんな道具がまだある方がおかしい。


と言う事で、補助的なバックなのだがかなり容積がある。たすきがけにしてすぐに前に持って来れる。機能的にはかなり使い勝手がありそうだ。







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ということで、新システムで写真を撮る使い勝手を観察する旅なのだが、うまくいっているかどうかはまあどうでもいいですね。まあでもフルセットの10キロ以上の荷物を持ってウロつくなんて正気の沙汰ではありません。それはもはやトレーニングメニューです。




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と言う事でシステムの使い勝手を確かめるべく、レンズ交換頻繁にしています。






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実際の所、単焦点レンズばっかりのシステムだったので、レンズ交換が頻繁にあるのが前提のシステムでした。なのでそれを念頭に置いてしまうのです。そのうちズーム最高!とか言い出すのではないのかと危惧しています。


とはいえ、今の所は単焦点の方が大好きです。もう体になじんでいます。





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ただ今後切り込み隊長としてのズームレンズと言うのはあります。とにかく時間がない時に欲しいレンズです。単焦点ではどうしてもレンズ切り替えの時間がありますし、距離の問題もあります。壁の瀬を当ててもまだ引きが足りなかったりして無理をする撮影が無くなります。





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で、今の所標準ズームの出番が無い。



しかしサフィニア(サントリー登録のペチュニアの品種)は、オッソろしいマゼンタです。色が飽和しています。





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今回、これでいいのだと思ったのがこの写真。85ミリの絞り解放です。今まで真面目に考えていました。






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キッチリ感が無くてもいいんだと、マジメに思う48歳です。





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写真表現はどうあるべきか?永遠の課題です。質感表現とかそういった類いはプロの仕事ですが、現実にアマチュアが同等の仕事をしてみせる時代です。私が今回揃えている機材も半分以上はアマチュアからのお下がりです。逆転しているわけです。そして表現の多様性があるのは解っているのに、まあこの場合は少し絞らなければと考えていた自分が恥ずかしいです。




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というか、どうもかなり時代遅れのレンズがいっぱいあったのです。いいわけですね。






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とは言っても最新鋭に慣れるはずも無い。





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新しいバックのホールディングは快適ですが、買い物をした結果ウエストバックの方がパンパンになると言う大失態を犯してしまいました。




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標準ズームは、24ミリ側があると言うので使われている始末です。かなりいいレンズなのだが。




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凧が飛んでいます。





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時代と言う風に流されて行くのでしょうか。





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旅をしたつもりでも、こうやって書くとリアルな話しか出てこないと言うのも、日常なのでしょうか。


まあそもそも、カメラマンには日常はあり得るのかどうかです。




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スタイルを作れるかどうかかもしれません。





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鮭が底に沈む雫石川と岩手山です。





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国際宇宙ステーションが通過するはずなので、待ち構えましたが見つかりません。




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月日はお客さんのようだ。通り過ぎて行き、傷をつけて行く。





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システムのブラッシュアップは、まだ出来ていない。


そもそも仕事があるかと言う問題もある。


中古レンズテストの旅に出かける

2014-10-05 02:42:32 | 写真の話し
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中古で2本高級ズームレンズを買いました。人生の中で一番高いレンズです。とはいえ中古ですから半額近くで購入出来ました。なんで本職がこんな事をしているのかと言えば、世の中アマチュア様の熱意の賜物です。あこがれのレンズを買ったけど使うチャンスが無い事に気がついたり、重くて使いこなせなかったり、あんまりにも憧れすぎて実際使ったらそうでもなかったとか、イロイロあります。そういったものが中古市場に流れてきます。なので中古市場には両極端な物しかありません。使ってなくてきれいな奴か、ボロボロに使い倒された物かこの二つです。次ぎに、超高級品か普及品かどちらかです。


まずこれが基本。そして中古市場は人気投票の場でもあります。なぜかダブついている商品があります。ダブついているのに訳があります。基本的に普及品はダブつきます。高級品などに買い替える時に下取りに出すからです。特にダブルズームセットのカメラ販売以降これが顕著なような気がします。普及品でも悪いわけではないのですが、仕事だと、意図的に使うと言う事になりますので、みんな興味はあるけど手を出しにくい商品の一つです。




さて写真は、どう考えてもマクロに近い最短撮影距離のテストです。なんなくクリアーします。というかこのレンズこの時点で何かがおかしい。良すぎる。





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次ぎに明るい高級レンズです。キタムラのネット中古でニコンを検索してみますと、ワイド系の単焦点レンズがいっぱい出ています。しかも1.4とか1.8の高級レンズです。これらは使いこなせなかったレンズ達です。後あこがれが強すぎて使ってみたらフ~ンとなりがちなレンズです。基本的に必殺レンズなのです。ある少ないシチュエーションの時に最大の効果を発揮するレンズで、フツーの時フツーに絞っていればきれいな映りになります。それでいて高いもんだからギャップが激しいものです。それでいて重いもんだしホールディングも現在のデジカメ一眼には少しイマイチです。


ただこれら明るいレンズは絞ると性能がよく出てきますので、このレンズは絞り解放で使わないと!というデマに惑わされてはいけません。ただ無理な設計をする場合があるようで、これらのレンズは元々要注意のレンズです。


今見たらニコンの85ミリF1.8のレンズが出ています。これはガッカリ組でしょうね。思ったより良くなかった、と言う事です。MTFデーターからは、ちょっとカリっとしていながら細かい描写が少しボケるレンズです。ただ周辺までかなり安定している描写だはずです。周辺に少しコマ収差を感じるかもしれませんが、ニコンのホームページでそれが見える作例写真がありますので、それを見て買ったならあなたが悪いとなります。


なおこの85ミリですが、昔っからポートレートレンズと言われていて、逆にそれ以外では使いにくいレンズの代表です。焦点距離は中途半端だしボケがどうのこうのと言ってもそれも中途半端。だから簡単に飽きられるレンズになっています。これは昔っからそう。
所が私だとバスケットの試合とかでは使えるレンズになります。実は使えるレンズなのですが、使いこなしの難しさが一番大きなレンズだと思います。




さて撮影したのはゴーストのテストです。面白くないけどまあいいや。というかかなり少ない。




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文句無しの描写です。いいお買い物です。


さてMTFグラフですが、中心部と周辺の解像度を表すグラフです。解りにくいのはサジタル・メサジタル曲線ですがこれは専門解説に任せるとして、この二つの曲線が周辺まで極端に乖離していない物が望ましいものです。そして10本/ミリの曲線はコントラストを表しています。ここが周辺で落ち込んでいるのは周辺故鵜量低下を意味して、更にサジタル・メサジタルが乖離していれば、描写が少し甘くなる傾向にあります。30本/ミリは解像度がどうなっているかと言う事です。10本/ミリと同様な傾向ならかなり素直な描写のレンズと言う事になりますが、実際そんなレンズはなかなか無い。この曲線がグニャグニャしていたりサジタル・メサジタルが乖離していればちょっと要注意です。なお超望遠では完璧なMTFグラフがありますが、ワイド系だと全くありません。切り取る角度の問題です。広い分だけイロイロ無理があると言う事です。



中古かどうかの前に、データーを正しく読む知識が必要です。


なお、写してみないと解らないのも事実です。




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実際の中古テストですが、1週間以内にありとあらゆる物を撮影しないと解らない所があります。なので実はスポーツと人物はもう終わらせています。この時点で文句無しなのですが、イジワルな課題を求めて歩き回るのです。



そう、クーリングオフもありますから。



今の所異常なし。





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そう言えば高松の池で鯉ヘルペスが発生して、鯉が死んだと言う事です。



実は昔からそう言った問題があったような気がするのですが。今回判明したと言う事で。


人には移りません。安心してください。







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正真正銘甲羅干しです。







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カルガモの群れです。





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なんだろ、この手ぶれ補正機能は。






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なんだろ、この描写は。





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完璧すぎて嫌になって来た。





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凄い彼女を手に入れたけど、昔の女が懐かしく思える。そんな気分だ。





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とはいえ真面目すぎてクセはあるようだ。





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もはや私はマリッジブルーに入ってしまった。






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良すぎる。


シャッターを押したのが著作者か

2014-08-13 10:57:51 | 写真の話し
「サルの自分撮り写真、著作権は誰のもの?」CNNの記事だ。実はこの各当する写真入りの記事を他の所で見たのだが、ちょっと見つからなかった。確かに自分取りと言われてもおかしくない写真だった。


実はこの議論はかなり古い。例えばスタジオでの物取りなんかそうだ。全部の段取りをアシスタントがやって、最後にカメラマンが撮影する。実際は99%はアシスタントが仕事をしてカメラマンは1%と言う場合もある。


だがカメラマンはアシスタンにギャラを払い、(優秀なら)継続的に雇用し、出来ればチームとして活動したい思っている。だがカメラマンの取り分がキツイ。労力的にはおかしい話なのだが、決定権を持っているのがカメラマンで、決定者が一番偉いということだ。




更に写真を撮ったのは彼だが、セレクトしたのは別人と言うのもよくある。この場合、決定者が全部著作権を持つかと言えば、それは無い。著作権と言うものははじめに出したものが得る権利だからだ。なのでグラフィックデザインになると、写真の著作権はカメラマンに、レイアウトデザインはデザイナーの著作物と分けて考えられている。まあそれを掲載した雑誌の権利とかも発生してくるので、実際事実関係は複雑だ。


日本で古くから行われている議論は更に複雑だ。写真は作品になるのか?と言う議論だ。


意図せずにであったものをとった場合、それは作品なのだろうか。と言う問題だ。

意図して撮影されたものには個人の表現の意志があり、著作と認められる、これが普通の著作権の概念だと思う。ところが写真にはよくイレギュラーが存在する。偶然撮れてしまったものたちだ。例えば街を撮影したとして、その町は彼が作ったものではもちろん無いし、そこを歩いている人もエキストラを頼んでいるわけではない。


逆にエルスケンの「パリの恋人」のシリーズは全編やらせである。ある意味権利関係がスッキリ整理されている理想的な写真なのだが、これについて「ウソ付き!」と言う人がまだいる。写真は「真実」なのだから、それでウソをついてはいけないと言う考え方だ。多分これは日本だけだと思うのだが、写真が入って来たときからの誤解がまだまだ続いている。私は再現・再構成なのだから、それでいいのではないのかと思う。


この辺りは土門拳ら報道写真系の人たちの問題もあると思う。写真は真実を写す鏡だと言って来たからだ。
報道写真には偶然性は少ないものだ。いつ・どこで・だれが・なにを・どうやって・なぜが解ればいい。だが人にインパクトを与えるのが仕事でもある。そこで情動的な何かをどう付け加えるのかと言うのが腕になるのだが、それはかなりの偶然性に頼る事になる。そうなってくると、その偶然性を引っ張って来れる「運のいい」カメラマンが腕がいいとなる。


土門拳がリアリスム写真と言い出した頃の写真群がある。小型カメラでのスナップショットの写真だ。日本建築や美術を撮ったシリーズは、大判カメラでキチっと構図を計算し尽くして撮影する。だからカット数は少なく、彼の意図したものしか映っていない。

スナップショットだがそこは土門、完璧な構図になるまで粘り強く撮り続ける。偶然を引き寄せる作業だ。結果膨大なフィルムが残される。


この場合は土門拳ほどの作家だからある程度は何とかなると思うが、普通は意図を超えた写真が残る事になる。最初の意図を遥かに超える写真が出て来たりする。そうすると最初の意図を組み立て直したり、再構成を迫られる事になる。その線に沿って新たに追加撮影を入れたりすると、また再構成を迫られて行く。そうして行くうちに最初の意図はどこかにいってしまい、写真の迷路に入り込む事になる。


報道写真だとそれらは「新たな発見」であって、いい事になるのだが、美術作品となればちょっと厄介な問題になる。あまりにも偶然過ぎると意図が不明になってゆくからだ。

この辺りを土門拳はなんかいっていたが、忘れた。確か「ものと心が通じた時にシャッターを切れば、それが真実なんだ」みたいな事だったと思う。彼にとっては真実こそが重要なのであって、その真実を掴むために無我の境地に経つべきだ、と言っているようにも思える。


この土門の教えは日本の写真にもの凄い影響を与えた。写真家は求道者であるべきで、その人生が写真、といった具合になる。実際の写真家はそこまででは無い。だが森山大道と言う視覚の化け物が生まれたのは、偶然ではない。


かくして日本では、写真は人という概念が出来た。なので訳が分からないが何か凄い写真がいっぱいできた。そうなってくると、やはり「作品ってなに」という素朴な疑問が浮かぶわけだ。撮影する行為が作品作りなのかと言えばそれはほんの一部で、写真をセレクトする作業が重要だと言う事になる。だが膨大な写真の中から視座を変えれば、新たな「作品」が作れると言う問題が発生する。セレクトするという行為の「意図」がどうなのかが問われる。


写真を撮った者がセレクトしたものが作品となる、という原則が出来る。だがそこにも疑義が生じる。原則として写真を撮る事が作品作りなのではないのか、ということだ。すると撮ったもの「全部」見せてしまいます!と言う作家も現れた。だがこれは主流にはならなかった。理由は見るのが苦痛だからだ。


もっと突き進んだ作家もいる。須田一政だ。いつからかは解らないが本人はセレクトを止めてしまったのだ。信頼できる他人に任せている。展示も当然他人に任せている。写真が人生ならば、その人生は自分では解らないと言う事なのだろうか。


1980年代から美術系の作家が目立つようになってくる。彼らはコンセプトが明快な作品を作る。更に撮影・セレクト・プリントまで一貫して仕上げるという、ある意味当たり前の事を始めた。もちろん従来の作家もそうして来たわけだが、曖昧だった。例えば土門拳のオリジナルプリントはほとんどない。土門拳の意図を理解できる優秀なプリンターがいたからだ。実際ある程度のプリンターだったら、こちらがサンプルのプリントを用意していれば、大伸ばしの写真をほぼ同じに仕上げてくれる。美術系の作家が同じ事をした場合には、プリンターは誰それと明記する必要がある。ところがそれ以前には無かったのだ。
当然現像処理がとてもめんどくさいカラー写真では、ほぼラボ任せであった。そこでカラーでも全部自分でやるという作家が現れたりした。当然モノクロはオリジナルプリントであるかどうかが問題になった。


すると作家性と言うのは何だったのかと言う疑問がまた起きる。露出もピントも自動のカメラで、わずかな偶然を拾って行く作業のどこに作家としての意図があるのだ?プリントが作家性なのか?撮影なのかセレクトなのかプリントなのか?


その状態でデジタルに突入したもんだから、作品とはなにかという問題が取り残されたままになった、と思う。同じ撮影データーでもモニターに寄ってまるで変わった調子になるし、モニターとプリントで色が違ったりする。絶対性の保証のためにカラーキャリブレーションがやかましく言われるようになったりしたのも、現実の問題と言うより、相対化した中で作品と言うためにはどうするべきなのかという、表れだったのだろう。このカラー問題は、結局デジカメが進歩してコンピューターが進化して、更にこういったもんだとみんなが解るようになってから、あまり大きく言われなくなった。


長々と日本の状況を書き続けていた。なにを言いたいかと言えば日本では「写真は相対的なものだ」ということ。その中での作家性であるということだ。実際コマーシャルは、チームで動いている。須田一政の例もそうだ。工房と言ってもいいだろう。チームとして成り立つのなら、実際だれがシャッターを切っても成り立つ。デジタル以降、なんというかシャッターに念を込めても、変わらなくなったように感じるからだ。そしてスタジオだとカメラとモニターが結ばれていて、アートディレクターやデザイナーがカメラからの映像を見ているわけで、誰でもシャッターを切れる状態になっている。


その意味ではこの猿の写真は、この撮影を用意したものが権利をもつだろう。だがアメリカ的な個人主義の社会では、やはり猿となるのだろうか。


だがそのアメリカでセルフィッシュと言う概念はつい最近のものだ。多分日本のプリクラ発祥の奇妙な習慣が伝わったのだろう。それまではセルフポートレートと言う概念はあったが、わざわざ違う言葉にしたのには理由がある。セルフィッシュはSNSで発信されるものだからだ。共有される事が前提の写真だ。


さてそれではたまたま出あったグループが集まって、楽しかったから記念で、セルフィッシュを撮ったとする。さてシャッターを切ったのは私だが、写真を撮ろうと言い出したのは別人だ。でもそれで著作権が誰かとはだれも言わない。全員が著作者で、全員が被写体だ。そして多分3人だったらそれぞれのスマホで撮りあうから、3枚のセルフィッシュが出来るだろう。でもその3枚はそれぞれのスマホに転送されて3人でシェアする事になる。そしてそれらはSNSに発信されると、更に多数の人にシェアされるだろう。そもそも閲覧自由に公開された写真の著作権は、存在しない。悪意ある使われ方をした場合のみに、名誉毀損の問題は起きるだろうが。


セルフィッシュとセルフポートレートにはこういった差がある。セルフポートレートとして撮影したものもSNSにのせた瞬間にセルフィッシュになる。これに薄々気がついていたからこそ、別な用語になったと考える。


この猿の写真は、日本の相対化に慣らされた世界なら、この撮影を企画したカメラマンのものになるだろう。だがアメリカでのこの問題は、議論が横滑りしている。用語がおかしい。猿はSNSに投稿しようとして写真を撮ったわけではない。


猿の著作権を考えるアメリカだが、人間と野生動物を相対化して考えていると言うのが、そもそもおかしい。


さて猿の著作権を確定させるアイディアはあるだろうか。カメラのリモートコントローラーでシャッターが切れるようにして、猿に撮らせると言う事がある。リモコンを押すと言うのは、写真を撮ると認識していると考えられないか?やはりちょっと無理だろう。
するとタブレットをカメラモードにしてシャッターを押させると言うのが考えられる。

まあその前に動物が映像をどう認識するのかは、大体良くわかっているのだが。人間だって、写真初期には写真の取り違えをよくしたものだ。多分猿は自分の顔だと思わないで、敵だと思って攻撃して終わるのだろう。


夕焼けを撮りに行く

2014-06-25 03:45:22 | 写真の話し
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夏至の頃になりました。林檎の実もふくらみはじめています。




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夏至そのものは6月21日でしたが、ここから2週間が岩手山と北上川の組み合わせの撮影がうまく行く時期です。岩手山に夕日が最も近づくからです。とはいってもお天気勝負、そんなに簡単ではありません。


まず盛岡市が山に囲まれている、というのがくせ者です。山が光を遮って、空を赤く染めてくれないわけです。そして山と言っても奥羽山脈です。分厚いわけです。そこには簡単に雲が発生するので、更に夕焼けの光が空を染めなくなるのです。


次が大気汚染や黄砂、水蒸気です。これらがあると空が夕焼けに染まりやすくなるのですが、関東圏や裏日本のようには赤く染まりません。やっぱり山が影響します。


それらの条件がうまく揃うのはなかなかありません。北の高気圧が張り出して、空気がきれいで湿度が低く、光が硬い日がちょうどいいです。更に夕方に更に光が硬くなるとかなり確率は上がります。




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ということで、気象庁から衛星写真やらアメダスデーターやら黄砂情報やら大気汚染情報まで集めて、どの程度の夕日になるのかを判断します。ただこれらの情報は、以外とアバウトです。


少なくとも近所をウロついてからもう一回実際の現場を検討します。どうも八幡平辺りに雲がありそうです。秋田県から日本海まで全快晴と言うわけでは無さそうです。


なにげに凄い事をいってますが、秋田県から日本海側でほとんど雲のない日が理想です。この期間にそんな日は、滅多に、いや今の所4年にいっぺんとか10年に一回とかいうレベルでありません。もちろんその日にいけるかどうかと言う問題もあります。




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一番の問題は、雲は動いたり消えたりする、と言う事です。ここまである程度の予測をしながら移動していますが、実際の所は現地にいないと解らないわけです。



今回の予想では、八幡平近辺の雲は薄くなるが、どの程度薄くなるのかは全く解らないと言う事です。




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さて、目的の場所にキッチリと時間通りに辿り着いていないといけません。6時50分までには南大橋についていなければいけません。

ただ、この時点で遅刻しそうなのですが、少しン!というニュアンスの夕日です。少し青い夕日です。




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目的地にたどり着きました。お日様の沈んだ当たりを撮影すれば、こんな具合にきれいです。




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部分を切り取れば、きれいです。




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ウーンなのですよ。かなりいい線いっていますがもう少しコクのある夕日を狙いたいものです。


あとデジカメの特性も問題になります。かなり良くなっているとはいえ、夕景になるとフィルムの方がきれいかもしれません。




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東側の雲を見れば、夕日が届いているのが解るわけですが、秋田県北部に雲が少しあるのかな~と言った夕焼けです。低い所の雲が光を遮っているのだろうと思います。




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とは言っても、そこそこの成果はとったと思います。青と赤のコントラストが盛岡らしいです。


狙って行って、全く外す事の方が多い、夕景です。





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この撮影のために、天気に詳しくなったと思うほどに、毎年苦労しています。


毎日は通えないからね。こんな近所でも。