「サルの自分撮り写真、著作権は誰のもの?」CNNの記事だ。実はこの各当する写真入りの記事を他の所で見たのだが、ちょっと見つからなかった。確かに自分取りと言われてもおかしくない写真だった。
実はこの議論はかなり古い。例えばスタジオでの物取りなんかそうだ。全部の段取りをアシスタントがやって、最後にカメラマンが撮影する。実際は99%はアシスタントが仕事をしてカメラマンは1%と言う場合もある。
だがカメラマンはアシスタンにギャラを払い、(優秀なら)継続的に雇用し、出来ればチームとして活動したい思っている。だがカメラマンの取り分がキツイ。労力的にはおかしい話なのだが、決定権を持っているのがカメラマンで、決定者が一番偉いということだ。
更に写真を撮ったのは彼だが、セレクトしたのは別人と言うのもよくある。この場合、決定者が全部著作権を持つかと言えば、それは無い。著作権と言うものははじめに出したものが得る権利だからだ。なのでグラフィックデザインになると、写真の著作権はカメラマンに、レイアウトデザインはデザイナーの著作物と分けて考えられている。まあそれを掲載した雑誌の権利とかも発生してくるので、実際事実関係は複雑だ。
日本で古くから行われている議論は更に複雑だ。写真は作品になるのか?と言う議論だ。
意図せずにであったものをとった場合、それは作品なのだろうか。と言う問題だ。
意図して撮影されたものには個人の表現の意志があり、著作と認められる、これが普通の著作権の概念だと思う。ところが写真にはよくイレギュラーが存在する。偶然撮れてしまったものたちだ。例えば街を撮影したとして、その町は彼が作ったものではもちろん無いし、そこを歩いている人もエキストラを頼んでいるわけではない。
逆にエルスケンの「パリの恋人」のシリーズは全編やらせである。ある意味権利関係がスッキリ整理されている理想的な写真なのだが、これについて「ウソ付き!」と言う人がまだいる。写真は「真実」なのだから、それでウソをついてはいけないと言う考え方だ。多分これは日本だけだと思うのだが、写真が入って来たときからの誤解がまだまだ続いている。私は再現・再構成なのだから、それでいいのではないのかと思う。
この辺りは土門拳ら報道写真系の人たちの問題もあると思う。写真は真実を写す鏡だと言って来たからだ。
報道写真には偶然性は少ないものだ。いつ・どこで・だれが・なにを・どうやって・なぜが解ればいい。だが人にインパクトを与えるのが仕事でもある。そこで情動的な何かをどう付け加えるのかと言うのが腕になるのだが、それはかなりの偶然性に頼る事になる。そうなってくると、その偶然性を引っ張って来れる「運のいい」カメラマンが腕がいいとなる。
土門拳がリアリスム写真と言い出した頃の写真群がある。小型カメラでのスナップショットの写真だ。日本建築や美術を撮ったシリーズは、大判カメラでキチっと構図を計算し尽くして撮影する。だからカット数は少なく、彼の意図したものしか映っていない。
スナップショットだがそこは土門、完璧な構図になるまで粘り強く撮り続ける。偶然を引き寄せる作業だ。結果膨大なフィルムが残される。
この場合は土門拳ほどの作家だからある程度は何とかなると思うが、普通は意図を超えた写真が残る事になる。最初の意図を遥かに超える写真が出て来たりする。そうすると最初の意図を組み立て直したり、再構成を迫られる事になる。その線に沿って新たに追加撮影を入れたりすると、また再構成を迫られて行く。そうして行くうちに最初の意図はどこかにいってしまい、写真の迷路に入り込む事になる。
報道写真だとそれらは「新たな発見」であって、いい事になるのだが、美術作品となればちょっと厄介な問題になる。あまりにも偶然過ぎると意図が不明になってゆくからだ。
この辺りを土門拳はなんかいっていたが、忘れた。確か「ものと心が通じた時にシャッターを切れば、それが真実なんだ」みたいな事だったと思う。彼にとっては真実こそが重要なのであって、その真実を掴むために無我の境地に経つべきだ、と言っているようにも思える。
この土門の教えは日本の写真にもの凄い影響を与えた。写真家は求道者であるべきで、その人生が写真、といった具合になる。実際の写真家はそこまででは無い。だが森山大道と言う視覚の化け物が生まれたのは、偶然ではない。
かくして日本では、写真は人という概念が出来た。なので訳が分からないが何か凄い写真がいっぱいできた。そうなってくると、やはり「作品ってなに」という素朴な疑問が浮かぶわけだ。撮影する行為が作品作りなのかと言えばそれはほんの一部で、写真をセレクトする作業が重要だと言う事になる。だが膨大な写真の中から視座を変えれば、新たな「作品」が作れると言う問題が発生する。セレクトするという行為の「意図」がどうなのかが問われる。
写真を撮った者がセレクトしたものが作品となる、という原則が出来る。だがそこにも疑義が生じる。原則として写真を撮る事が作品作りなのではないのか、ということだ。すると撮ったもの「全部」見せてしまいます!と言う作家も現れた。だがこれは主流にはならなかった。理由は見るのが苦痛だからだ。
もっと突き進んだ作家もいる。須田一政だ。いつからかは解らないが本人はセレクトを止めてしまったのだ。信頼できる他人に任せている。展示も当然他人に任せている。写真が人生ならば、その人生は自分では解らないと言う事なのだろうか。
1980年代から美術系の作家が目立つようになってくる。彼らはコンセプトが明快な作品を作る。更に撮影・セレクト・プリントまで一貫して仕上げるという、ある意味当たり前の事を始めた。もちろん従来の作家もそうして来たわけだが、曖昧だった。例えば土門拳のオリジナルプリントはほとんどない。土門拳の意図を理解できる優秀なプリンターがいたからだ。実際ある程度のプリンターだったら、こちらがサンプルのプリントを用意していれば、大伸ばしの写真をほぼ同じに仕上げてくれる。美術系の作家が同じ事をした場合には、プリンターは誰それと明記する必要がある。ところがそれ以前には無かったのだ。
当然現像処理がとてもめんどくさいカラー写真では、ほぼラボ任せであった。そこでカラーでも全部自分でやるという作家が現れたりした。当然モノクロはオリジナルプリントであるかどうかが問題になった。
すると作家性と言うのは何だったのかと言う疑問がまた起きる。露出もピントも自動のカメラで、わずかな偶然を拾って行く作業のどこに作家としての意図があるのだ?プリントが作家性なのか?撮影なのかセレクトなのかプリントなのか?
その状態でデジタルに突入したもんだから、作品とはなにかという問題が取り残されたままになった、と思う。同じ撮影データーでもモニターに寄ってまるで変わった調子になるし、モニターとプリントで色が違ったりする。絶対性の保証のためにカラーキャリブレーションがやかましく言われるようになったりしたのも、現実の問題と言うより、相対化した中で作品と言うためにはどうするべきなのかという、表れだったのだろう。このカラー問題は、結局デジカメが進歩してコンピューターが進化して、更にこういったもんだとみんなが解るようになってから、あまり大きく言われなくなった。
長々と日本の状況を書き続けていた。なにを言いたいかと言えば日本では「写真は相対的なものだ」ということ。その中での作家性であるということだ。実際コマーシャルは、チームで動いている。須田一政の例もそうだ。工房と言ってもいいだろう。チームとして成り立つのなら、実際だれがシャッターを切っても成り立つ。デジタル以降、なんというかシャッターに念を込めても、変わらなくなったように感じるからだ。そしてスタジオだとカメラとモニターが結ばれていて、アートディレクターやデザイナーがカメラからの映像を見ているわけで、誰でもシャッターを切れる状態になっている。
その意味ではこの猿の写真は、この撮影を用意したものが権利をもつだろう。だがアメリカ的な個人主義の社会では、やはり猿となるのだろうか。
だがそのアメリカでセルフィッシュと言う概念はつい最近のものだ。多分日本のプリクラ発祥の奇妙な習慣が伝わったのだろう。それまではセルフポートレートと言う概念はあったが、わざわざ違う言葉にしたのには理由がある。セルフィッシュはSNSで発信されるものだからだ。共有される事が前提の写真だ。
さてそれではたまたま出あったグループが集まって、楽しかったから記念で、セルフィッシュを撮ったとする。さてシャッターを切ったのは私だが、写真を撮ろうと言い出したのは別人だ。でもそれで著作権が誰かとはだれも言わない。全員が著作者で、全員が被写体だ。そして多分3人だったらそれぞれのスマホで撮りあうから、3枚のセルフィッシュが出来るだろう。でもその3枚はそれぞれのスマホに転送されて3人でシェアする事になる。そしてそれらはSNSに発信されると、更に多数の人にシェアされるだろう。そもそも閲覧自由に公開された写真の著作権は、存在しない。悪意ある使われ方をした場合のみに、名誉毀損の問題は起きるだろうが。
セルフィッシュとセルフポートレートにはこういった差がある。セルフポートレートとして撮影したものもSNSにのせた瞬間にセルフィッシュになる。これに薄々気がついていたからこそ、別な用語になったと考える。
この猿の写真は、日本の相対化に慣らされた世界なら、この撮影を企画したカメラマンのものになるだろう。だがアメリカでのこの問題は、議論が横滑りしている。用語がおかしい。猿はSNSに投稿しようとして写真を撮ったわけではない。
猿の著作権を考えるアメリカだが、人間と野生動物を相対化して考えていると言うのが、そもそもおかしい。
さて猿の著作権を確定させるアイディアはあるだろうか。カメラのリモートコントローラーでシャッターが切れるようにして、猿に撮らせると言う事がある。リモコンを押すと言うのは、写真を撮ると認識していると考えられないか?やはりちょっと無理だろう。
するとタブレットをカメラモードにしてシャッターを押させると言うのが考えられる。
まあその前に動物が映像をどう認識するのかは、大体良くわかっているのだが。人間だって、写真初期には写真の取り違えをよくしたものだ。多分猿は自分の顔だと思わないで、敵だと思って攻撃して終わるのだろう。