世の中にはひどく不思議なことがある。読むことはないと思うが、ブーレーズは論文「ストラヴィンスキーは生きている」で構造解析をしているようだ。それ以外でもアンセルメは解析していたと思う。このボックスセットにあるバーナムも多分していただろう。それではなぜこの論文が指揮に反映しなかったのか。
理由の大半は指揮者の生育システムが叩き上げだったというものだ。現在でも存在していると思うが、副指揮者や助手を経て正指揮者になったり、抜擢を受けて栄転するとか、そういったマイスター制度の中で地位を掴み取ってゆく。カラヤンも例外ではない。
ブーレーズの論文は、意味がなかった可能性がある。
だから彼の実演に意味があった。驚くほどクリアーで説得力のある音、テンポの遅さはあるがメリハリの効いた演奏はそれを全く感じさせずに、それでいてバーバルなダイナミズムを確保したのだ。
この演奏以降、しばらく春の祭典の演奏が低迷していると思う。
それでは、本人はその衝撃をどう受け止めたかといえば、音をさらに掘り下げる方向に向かったと思います。ただ基本的な解釈は変わっていないと思います。
ただ一つ大きなことがあります。オーケストラ内に音楽大学出身者が増えたことです。そしてそのレベルがとても高くなったと考えています。ブーレーズは前回では自己証明のための指揮をしていましたが、91年は証明する意味より、共同作業になっているような気がします。
そういった意味では91年の録音は、懐の深さがあるように感じています。ただこの余裕が、嫌な人はいるでしょうね。