どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

歴史はまた再現されるのだろうか

2017-11-27 01:04:49 | 日記

 

今日はほぼ雨だった。家に引きこもってカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」を読み終えた。舞台は日中戦争時代のロンドンと上海だ。ここで言う「孤児」というのは確かに主人公や登場人物に孤児はでてくるのだが、それよりも社会に対しては人は孤児の様なものなのだ、そういった考えがありそうだ。その時代時代での役割を必死に演じてゆく人は、たとえコネや家族などがあったとしても、社会は人をバラバラにして、孤児にしてしまう。

あいかわらずラストは衝撃的だ。だが最後に近い言葉「消えてしまった両親の影を何年も追いかけている孤児のように世界に立ち向かうのが運命なのだ。最後まで使命を遂行しようとしながら、最善をつくすより他ないのだ。そうするまで、わたしたちには心の平安は許されないのだから。」

つまりハイデカーのいうところの「現

存在」なのだ。

 

 

震災以降このブログでは延々とこの問題を考えてきてはいた。社会と個人。とてもそうは見えないブログだが、あの震災はまさしくその問題を突きつけた。津波の問題があるにもかかわらず広がり続けた市街地。一見すると完璧なのだが、過去の大津波を防ぐことができない老朽化した防潮堤。それも改善したいが予算が無くて実現出来なかった、疲弊した自治体。防災計画の全く無い小学校。自社の利益の為に整備をおこたった電力会社。社会はよかれと考え、悲劇を用意していた。そして想定外と言う言葉のみがのこった。

残された人たちにはなにも残されていなかった。悪戦苦闘しつつも、「現存在」に向かいつつも、いままでもそうだったがこれからもそうなる様に、社会に翻弄されて行く。遅々として進まない法整備やら、怪しげな民意の総括やら、弱者切捨てをねらう法律の整備や、すべてがよかれと思われてつくられた制度に妖しげな腐臭を感じる。美談と善意の影ではなにが行なわれているのか、よくわからない社会になってしまった。

家族を回復するために。国家は父になろうとしているが、優しく包容力のある父親にはなれそうにも無い。行政は母親の役を演じ切れるほどお人好しではない。家族の復活など国家単位では共産圏以外ではあり得ない。だがめざしているのは、全くの明治政府のように見える。

「日の名残り」のなかでダーリントン卿が呟く。「遅かれ早かれ、事実に直面せねばならん。民主主義は過ぎ去った過去のものだ。普通選挙にいつまでもこだわっていられるほど、今の世界は単純な場所ではない。烏合の衆が話し合ってなんになる。」

善良な人ほど「賢い王」を求めてしまう。「存在」の重さから逃れようとして「賢い選択」をした結果なのだ。

だが現実に向き合い続けなければいけないのは、疲弊した現場でしか無い。立派な人が社長だったりするほど、会社に変な事が起きる。それは東電でもう十分証明された。ズルい会社ほどいい会社なのは面白言う事だ。

 

 

その意味で大政治家がいない時代に突入した。メルケルのいない時代になりつつある。ロシアは元々独裁制が好きなのだろう。安定感がある。だが世界中では独裁を目指す方向にある。その流れをトランプさんは止めないように感じる。本人がそうだからだ。物凄くうまくやっていたように見えるティラーソンが去ったら、大規模な中世の出現をみるのだろうか。世界はその方向に向かっている。

震災のときその秩序に世界が感嘆した。だがそれは表面だけのことだ。本質的にはあのときに秩序は崩壊したのだ。崩壊したと理解したから、自衛で秩序を護ったのだ。

過激なネトウヨが治って過激なネトサヨが出始めていると言う。ネトウヨが嫌われつつあるからネトサヨが出て来たというのは、安倍政権が出来たから変な右翼が盛り上がっただけで、時期が過ぎたら叩かれる時代がくるという、安倍政権は磐石なのになんでこういった流れになるのか。そう過去にも会った事例だ。わたしは事あるごとに書いた。蓑田胸喜をわすれるな。本当に闘った右翼は生き残ったが、蓑田胸喜は捨て去られた。

もう一度いう。蓑田胸喜は捨てられたのだ。

感情のおもむくままに語れない程に、この世界はおそろしく複雑で、おそろしく感情的に単純になっている。流れに身を任せるしか無い身分として、覚悟だけは必要だと思っている。それは私の「現存在」と向き合う、その結果を受け入れる事だと思う。

わたしの家族はどちらかと言えば、行動障害者の集団だったと思う。当時の日本は今ほど洗練されていなかったのでそれが普通だった。ただわが家は変わっていた。父が圧倒的に強かったのだが物凄く気分屋だった。それが一体どこで爆発するのか分からないほど地雷の多い人だった。でも父の事は大好きだった。だから父の読んだものはかなり読んでいた。オーディオ学界の学会誌やトランジスター技術を読んでいた。だが父のことを指し示す本はまったくなかった。

確か小学校3年生だったと思うが、いつも通りに「ただいま!」と言って玄関にランドセルを投げ出して遊びに行こうとしたら、父が目の前にいた。恐怖で走って脇を抜けようとしたが、襟首を掴まれて玄関正面に合った階段目掛けて3メーターは投げ飛ばされた。激痛だったと思うが脳しんとうで実はぼんやりしている。母が偉い剣幕で怒っているのを父は「ランドセルの気持ちを味あわせたかったんだ」とブツブツ言っていた。多分そのあたりでえらく泣いたと思うが、どうもその後や友達との約束を守ったような気がするんで、あのあと何があったかはわからない。

いまから思うと父のやったことは虐待だった。母が守ってくれていたと言うのはあるが、家の秩序を守る為には致し方が無いことだった。私は多動で行動障害で不適応だった。だから仕方がなかったのかも知れない。でもその時に感じたのは父は私に「嫉妬している」、階段に向けて投げられたときに感じた憎悪は、その前に目の前にいた父のあの大きさは、凄まじい憎悪なのだ。

父もそこではがんじがらめに縛られた歴史を持っていた。今から思うとどこまで自由だったのか分からない。長男が亡くなって次が女の子で、男の子。そしてふたり女の子というなかで。憲兵と言う家で、微妙に豊かな満洲で生まれ育った彼は日本人でなければいけなくて、でも戦中に日本も戻ることができたのだが、どうもうまく行かなかったようだ。頭が良すぎてどうしようもなかったようだ。そういった人がやりたい事を全部とどめられたら、どこかで我慢が出来ない時があったのだ。

われわれは孤児なのだろうか。社会から分断されていないようにみえるが、本当にそうなのだろうか。僅かな絆とかとかでかろうじて生きてはいないのだろうか。我々は孤児として社会に適応して黙々と生きるべきなのだろうか。それは極端な家系の問題なのだろうか。

われわれは時代と歴史から逃げられるのだろうか。その意味で本質的に宗教に対峙できるのだろうか。

経済学における合理的な人間と、哲学における厳密な人間存在が無いように、われわれが対峙するのはわれわれでしかないという無限ループは発散するのだろうか、集束するのだろうか。

近年メディアの変化で激動しやすくなったといわれているが、根本的にまだ第2次世界大戦の波が集束していないという状況にある。そこには無責任のエッセンスと経済合理化の素晴らしいビジョンが、新しい憎悪を生みだしている。

父が私を階段に投げ飛ばしたときのようにね。

それはあるとき突然起きる。ありがたいことにまだ世界は理性を保っている。だが明日崩れないとは言い切れない。


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