内閣支持率が急落したらしい。これはアベノミクスの行き詰まりもある。アベノミクスによる恩恵が富裕層のみに渡っているだけで、庶民には全く行き届いていないと認識されてきたからだ。そして派遣労働法改正も大きい。行き過ぎた円安のせいで久しぶりの賃金上昇も結果はマイナスになっている。物価が上がりつつあるのは確かだ。
実は庶民の景気感が改善されつつあるというデーターはある。だが本当に改善基調にあるのかどうか、まだ不安定なのではないのだろうか。私にはまだ実感できない。
自衛隊関連法案に対して、特に集団的自衛権についての条項が、国会に呼ばれた憲法学者3人から3人とも「憲法違反」と言われて以来の迷走ぶりが支持を下げたのは、間違いない。自民党はこの憲法学者は特別な人だと言ったが、現実にほとんどの憲法学者が集団的自衛権までは憲法解釈では無理だと言っているのが明らかになる。それでも強弁を続けるその姿が見苦しすぎるのだ。憲法解釈という枠でどの程度デリケートに議論できるかとは思っていたが、のっけから破綻してしまったのだ。
独善にも見える。現在は独裁政治と勘違いしているのではと思わせる言動が多い。
それでは野党に関してはやっぱり批判が大きい。安保条約は集団的自衛権を容認しているということだ。そのグレーゾーンをどうするのかが今までの解釈であったが、明快に戦闘に参加する可能性との差は大きい。とはいえ原則として憲法が集団的自衛権を否定するならば安保条約も否定しなければいけない。野党はそこを突かずに「徴兵制の復活に繋がる」と言っている。その煽り方はおかしいのではないのか、集団的自衛権はダメで安保条約は肯定というのはスジが通らない
内閣支持率の低下のうち、幾らかは政治家への失望もあると思う。
そこに大問題発生。日刊スポーツから。あえて日刊スポーツ。
「安倍晋三首相に近い自民党の若手議員約40人が25日、憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の初会合を党本部で開いた。 安全保障関連法案に対する国民の理解が広がらない現状を踏まえ、報道機関を批判する意見が噴出した。講師として招いた作家の百田尚樹氏に助言を求める場面も目立った。
出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」との声が上がった。
沖縄県の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たのに対し、百田氏は「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張した。」
百田尚樹氏は13年11月から15年2月まで様々な物議を醸しながらNHK経営委員でいた。意味不明な右翼言説でNHKと政府の任命責任まで叩かれた末の辞任だった。それがマスコミ批判したとあっては、ただならぬものがある。そしてこの勉強会に出席議員は過激動物保護団体の手法まで言い始めている。スポンサーを叩けと。
これが居酒屋の会話ならどうでもいいことだ。だが政治家の勉強会となれば話は別だ。そして百田氏は作家だ。言論の自由を保障する憲法を否定した発言は許されるものではない。作家として自分の手を縛る行為でもある。
ただ自民党の憲法軽視は今に始まった話ではない。まだ70年安保の岸内閣だって、憲法を重視していた。それなのに表現の自由ほど民主主義の根幹なのを、自民党はわからない、もしくは今酔っ払って忘れているのだと思う。
私自身は現在から100年後までの間に、現在の自衛隊関連法案が必要な時が来ると思う。そのためには必要な法案だと思う。そして実は限定的集団自衛権も、もう少しは積極的であるべきだと思う。だが憲法違反なのは自衛隊設置から始まる問題だ。それが冷戦時代を過ぎて明確に自衛隊の必要性が浮かび上がってきた。だから誤魔化されても誰もが容認してきた。日米安保条約も、実は集団的自衛権の行使であることを誤魔化してきた。
このためか、野党も共産党以外は安保条約の否定までは口にしていない。民主党に至っては政権にいたこともあり、この問題に真っ向から切り込めないでいる。
そして違憲だとしても、自衛隊もまた大きくて潰すことができない。原発問題で直ちに廃炉にせよという無責任は口に出せない。自衛隊の解散も、その家族があることを思えば口にするのもはばかられるものだ。
だから自衛隊憲法問題は、憲法改正でしか根本的には解決できないのだ。それを自民党はあのわけのわからない「改正案」で逆に改正を難しくしてしまった。だいたいあれで憲法学者の9割を敵に回したのだ。それを国会に呼んだらどうなることか。そこを全く読まずに自民党と維新の党は、その前に著述も論文も読んでいない可能性もあるが、著名であるというだけで学者を選んでしまった。本人らが「なんで呼ばれたのかわからない」というほどだった。
安倍内閣はこの表現の自由問題の火消しに回っている。ものすごくデリケートな発言をしている。それはそれで好ましいのだが、それではそれ以外の自民党議員の発言はなんなのかとなる。
教養がなさすぎるのではないのか?こんなに権力がマスコミを攻撃したというのは滅多にない。それはとてもデリケートに行われなければいけない。そのために必要な言葉がない、それを教養がないというのだ。他の人がどう思うのか想像することすらできないとしても、言い換えや穏やかな表現や、もしくは過去の事例からの引用、場合によっては小説からの引用なりあるだろう。
安倍首相はこのところかなり洗練された言い回しをするようになっている。いいライターがいるのだろうと思うが、それ以外がこれではどうしようもない。
最近文科省が国立大学に「文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ廃止を検討するべき」といったらしい。これは以前答申にあったローカル型大学とグローバル型大学との分類に則っているのだろう。
そして昔から文系は私学、理系は国立と言われている。文教予算を削減するためには国立大の文系を削減するのが正しいように思える。だが問題はある。
そもそも、国会議員や官僚はだいたい文科系の一流大学出身者だということだ。その彼らが教養はいらないと言い始めているのだ。矛盾が多すぎる。ただわかるのは、日本の高校教育を完璧に学んだらかなりの教養を得られる。それらを完璧にマスターしたはずの人たちがいらないというのは、彼らはよほどのエリートなのか。外交官には教養はいらないのか?それはないだろう。
私学文系教育は、あまりにも多くの学生を一人の教員に充てることだ。授業数も多く、卒論指導の数も多い。だから自身の研究や勉強できる時間が少ない。それでも給料は高い。ただ払う大学法人側でもかなりの人選を行う。そのせいかかなり優秀な人が多い。タレント性も備えた人が多い。授業も工夫されたものが多い。大学側からも注目される成果を要求されるから話題になりやすいものが多く取り上げられる。
国立文系教育は授業数も卒論指導の数が少ない。このため研究に使える時間が多い。ただ給料が安い。そこでできることといえば基礎研究だ。実用には程遠いものばかりになる。そして先生も地味で基本を大切にする人が多くなる。これがつまらないと言われる原因なのだが、その不器用な人たちも様々な工夫を凝らしてどう授業を盛り上げて行こうかと苦心している。
個人的に私学の方が個人指導がゆるすぎて多様な人材を輩出しているだけだと思う。逆に少数精鋭の国立はマジメな学生を育成する機関になっている。その上で言うが、よくいう「自分のノートを見ながら講義する教授」というのは、国立でも絶滅危惧種だ。たまにあるとすれば、専門外の授業を開かなければいけなかった場合、これは最近よく見るパターンだ。経営的な理由によるものだ。
国立と私学とどちらが文系教育にいいかというのは全くわからない。ただ基礎研究をする人たちがいなくなれば早晩日本の文系教育の裾野が狭くなる可能性はある。
ところで、実用性のない教養がなぜ必要だったかといえば、権力者に対峙するためだった。啓蒙思想がそれに当たる。権力者と対抗できるだけの知識がないと戦えない、そもそも権力者はバカとは合わないからだ。たまにバカだけどとんでもないのを引き立てることはあっても、専門性が高いから高く扱われただけだ。それでも彼らは教養は高かった。だから権力者も我慢した。
今は平和な時代だ。権力者との対峙もない。だから教養もいらない。専門性だけでいい。効率こそが重要だ。だから実用性が大切だ。それはわからなくもない。
ただ権力者が言えば話が違う。切羽詰まっているのはわかる。ただデリケートに言うべきではなかったのか。
なお最近工学部とか理学部を実学として賛美する風潮は好きになれない。工学部って使えない専門バカと言われていた時代を知っているからだ。そして専門バカが多い。文系のイイカゲンが、ものすごく低く見ていたくせに今更という気がする。
文系学科は人への洞察だけで成り立っている。それはそもそも実用的なはずなのだが。ソニーのウオークマンの失敗はまさしくその点にあった。
人を動かせない政治家ばかり生み出した文系学科は、確かに予算を下げられるべきだろうか。まともな政治家を生み出すために予算は必要だろうか。私は後者の方が正しいと思う。だが未来はわからない。